09/06/06 21:49:30 vWLvtUdh
>>393
大乗は衆生が煩悩を断つ事を目的としていない。
(煩悩即菩提という、誤解しやすい言葉さえある)
煩悩が尽きないからこそ、自分が「悪人」であるという自覚を持つことが大切だとされる。
輪廻するのは自我ではなくて阿頼耶識(南伝はどうか知らないが、ブッダ生存当時の古代インド思想でも識が輪廻するという思想がある。
実在する対象として地獄や畜生、阿修羅や天を想定するのは少なくとも大乗にはない)
煩悩が識の作用に過ぎず、世界は識の作り出した仮の世界だと理解することで煩悩に対する執着を捨てさせるのが唯識。
大きな煩悩(衆生を救う、とか)が小さな煩悩を包括し打ち消してしまうとするのが日本の密教。
煩悩が尽きない衆生でも、誰にでも仏になれるという可能性を持っている、それどころか一本一本の草にも仏性と言われるものがあるとするのが天台本覚。
如来(釈迦とか)は心が造る、衆生は本来仏であり、生活そのものが行である、とするのが禅。
自分は煩悩の尽きない「悪人」だと自覚している者が真摯に救いを求めれば、自分でどうにか出来ると思っている「善人」でさえも救ってくれる
有り難い如来が往生(成仏、ではない。極楽へ行って菩薩になるべく修行する)させてくれる、というのが浄土教。特に親鸞。
多分、大乗は大乗なりにそれなりに立派だと思うし、成功した人もいるんじゃないか(行基とか一遍とか、彼らの周りの人々は救われたと思う)。
無論、今の日本の仏教界が駄目駄目なのは今更言うまでもないけど。