【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11at PSY
【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11 - 暇つぶし2ch791:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/11 15:06:46 N0ZVdzmW
×  意味連関の断続を作為的にやるもんなんですね。
○  意味連関の断絶を作為的にやるもんなんですね。

792:神も仏も名無しさん
09/03/11 18:52:12 pI+4YizE
>>790
「悟り」とは、「生命とは、今ここのみに、万物との関連の中にある」ことを、
直感することではあるまいか。

その意味で、「悟り」を意識したり、意図的に追求することなく、他者との係
わり合いの中でひたむきに生きる日常においてこそ、「無意識な悟り」がある
のだと思う。悟りを意識し、意図的に追求することは、もはや悟りではない。

793:神も仏も名無しさん
09/03/11 19:15:21 6I7WzlH9
そおかなー。
確かに別に人間が悩んでいようが何だろうが万物全体として問題ないのかもしれない。
でも悩みが無いほうが楽しく生きられる。

794:神も仏も名無しさん
09/03/11 19:19:25 pI+4YizE
>>793
>でも悩みが無いほうが楽しく生きられる。

君はすでに悟ってるw。

795:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/11 19:24:06 N0ZVdzmW
>>792
そうですね、
通常、人間が考える存在論とかは空間軸における概念ですね。
これが時間軸上と同時に考えられるのは稀です。
(どちらか一遍に偏りますから)
説一切有部における刹那滅論は、途上ではありますが、ある意味的を得てます。

空間軸が諸法無我になり、時間軸が諸行無常になります。
この双方(時空)でもって涅槃寂静ですね。

禅者がいう即今即所というのは、まさにこれに的中している訳ですよ。
伊達で言ってる訳じゃなく、それなりの境涯に達している訳なんですが、
この延長線上において業報論も解釈しておるんですね。
これがつまり「空即是色」なんですよ。→還滅です

まあここまでが、だいたい般若波羅密の完成に近い。
ちょうど彼岸が見えてきた段階でしょうか?

#、では、おやすみ。

796:初代スレ7
09/03/11 22:33:57 X4gTmUcG
>>793
>>794はジョークにしてもw)、仏教の本質を突いた視線だと思いますw

797:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/12 06:54:32 3xQoJB7f
では、仏教の根本義たる諸行無常とは何たるや?
これですよ、これなくして仏教を語ちることにはならんのですよねw

時間とは恒常的に流れているんもんか?
いんや、そうじゃ~ないですね。
それだったら無常になりえんですよ。
仏教とは、そんな甘いもんじゃ~ないですね。
もっとシビアなもんです。

そもそも時間といふのは流れるものなのか?
それ以前に、果たして時間なるものがあるや?なきや?
これですね。この疑こそ悟入への登竜門になるやに思ひます。

まあ、こういった疑を己に向けて逝くのを、
禅では直指人心・見性成仏とかいうんですがね。

つまりキーワードしますと、時間といふ概念の論理構築以前です。
これを主客未分といふておるんです。

まあ、こういった話は長くなりますから、また暇がありましたら書き込みしてまいります。

798:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/12 08:55:16 3xQoJB7f
>仏教徒が自信を以って語れないから~ >>769

仏教徒が自信を以って語ちれない訳じゃ~ないのです。
(これは非常に大事なことなので書いておきます)

論理構築以前まで透過してまいりますと、それは語ちるのが非常に至難になります。
何故なら、語ちるとは論理構築そのものであるからです。

それでも仏教徒は、それなりに限られた語彙において語ちておりますよぉ~
「世俗で生きる」とは、そういう智慧(スキル)も大事です。

仏教徒が明解に論理的整合性において語ちてる場合は、あれは世俗諦ですね。
正法眼蔵における、在家向け三巻というのも勿論、世俗諦です。

盤珪などは余計なことは言わんです。
「死後のことは、わからん」とか言いますね。
「わからん」というのは、盤珪は充分に解っておるんです。
「わからん」の意とは「分けられない」。つまり分別できない。
これこそがまさに勝義諦であります。


799:神も仏も名無しさん
09/03/12 11:05:53 odCWgfhd
>>797
>つまりキーワードしますと、時間といふ概念の論理構築以前です。
>これを主客未分といふておるんです。

時間とは、単なる「自然の変化」だから、論理構築には親しまない。「時間
とは何か」などを大真面目に「考えて」いる西洋哲学者がいるが、「自然の変
化」を離れては、結局は何も分らないはず。

冷厳な自然観察者であった釈迦は、自然の変化の観察から、「諸行無常」に
思い至ったのではないだろうか。このような「優れて科学的な発想」は、単に
頭の中の演繹からだけでは、出てこないであろう。

800:神も仏も名無しさん
09/03/12 11:31:47 PAHipShX
>>799
>時間とは、単なる「自然の変化」だから

というように、あんたは時間観を「論理構築」し言語によって分節化ているわけだ。
ここんところを掴まえないと、道元のいう現成も、仏教の何たるかも、ポイントを外してしまう。

801:神も仏も名無しさん
09/03/12 11:43:42 odCWgfhd
>>800
単に「自然の観察」であって、「論理構築」ではない。「時間」という言葉
を使わないで、「自然の変化」だけでも充分である。

太陽が昇り、沈み、また昇るまでが、1日。新緑が萌え、紅葉し、落葉し、また
萌えるまでが1年。古代人にとっては、これが「時間」だったのである。

802:神も仏も名無しさん
09/03/12 11:49:26 odCWgfhd
>>801
日時計、砂時計、水時計。すべて「自然の変化」である。現代でも、
確か、電子の振動という「自然の変化」のはず。

体内時計も、身体という自然の変化。

803:神も仏も名無しさん
09/03/12 11:56:21 odCWgfhd
>>801
単なる「自然の変化」を、脳内で、観念化・分節化して、本質を見失い、
ピントを外してしまっているのは、むしろ道元や仏教や哲学者のほうだろう。

804:神も仏も名無しさん
09/03/12 12:03:05 PAHipShX
やはり、世間的既成概念に凝り固まった頑迷な年老いた犬に新しい芸を仕込むのは無理だ。



805:tibyaku
09/03/12 12:16:04 eOZQQ6VQ
>>792「悟り」とは、「生命とは、今ここのみに、万物との関連の中にある」ことを、
      直感することではあるまいか。

正しい信仰のもと悟りを開いた未来ビジョンをありありと明確化し、利自即利他を含んだ

悟りの世界のビジョンの継続こそ重要な位置づけである。

日常の中に非日常の発見こそ「悟りの発見」にあります。小さな悟りの発見の積み重ねの

継続によって、能動的ではなく受動的無意識な明鏡止水の透明で純粋な心境によって安ら

いだ境地を楽しみ、その心境に応じた悟りが訪れるのである。得ようとして悟りは得るこ

とできないのであります。

悟りを体得したならば縁の法則により、意図的に追求することによって心境にあった悟の

世界に参入できます。

心の明鏡止水の透明で純粋な心の維持無くして悟りはありえません。故に反省無くして悟

りなしの意味があります。

ともに日々の修行に努力を怠ることなく修行に励んでまいりましょう。




806:神も仏も名無しさん
09/03/12 12:21:08 odCWgfhd
一見変化していないようにしか見えない自然でも、常に変化していること(諸行
無常)を、2500年も前に発見した釈迦は、まさにスーパー科学者。現代に
生きていれば、ノーベル科学関係賞は総なめだろう。勿論、平和賞も確実。

経済学賞は、どうだろうかw。「仏教資本主義」という本も出てるね。

807:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/12 12:22:10 3xQoJB7f
>>799
>「時間とは何か」などを大真面目に「考えて」いる西洋哲学者がいるが、

いやいや、西洋哲学とは違いますね。
時間そのものを問うておるんじゃ~ないですよ。
拙者は論理構築を逝ってる訳じゃ~ないですから。

まあ、簡単に説明しますと、
既に人間というのは、脳に既成として時間概念はインプットされているんですよ。
(どのくらいの経過においてお腹が空くとか、経験的に知っている)
インプットされてるもんにどんな講釈たれても・・・それは講釈だけですね。
(西洋哲学の限界、ってのはこれなんですよw)

仏教というのは、こういった一連の既成概念そのもののへの疑がありませんと
悟入は無理なんですね。
直指人心というのは、こういうことなんです。

既成としてある概念を根拠として語ちるのを、世俗諦といいますね。
(常識教というのは、この範疇です)
このベクトルで語ちても・・・それは戯論というのが仏教の立場です。

釈尊の悟りというのは、こういった既成概念としてある時間観こそが無明であった。
ということなんですね。
これからの解脱こそが、即ち不死ですよね。
生死一如にして不死とはこれなり。

          <机龍之介・花押>

808:神も仏も名無しさん
09/03/12 12:37:01 odCWgfhd
>>807
「腹が減る」「太陽が昇る」は、既成概念ではないよw。人類や自然の発生以
来、全く同じ。

その自然の摂理を離れた「観念の遊戯」こそ、まさに戯論であり、無明である。

809:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/12 12:43:39 3xQoJB7f
>>808
>「腹が減る」「太陽が昇る」は、既成概念ではないよw。人類や自然の発生以来、全く同じ。

貴殿は、既に論理矛盾がありますよ。
>人類や自然の発生以来、全く同じ。
なら、それが既成概念なんじゃ~ないですか?

既成概念というのは、そういう凝り固まった概念を指すんですよw

まあ、常識教というのは、この既成概念をテーゼとしておるんでしょうけどw

810:神も仏も名無しさん
09/03/12 15:00:02 odCWgfhd
>>809
「概念」ではなく、「事実」「自然現象」と言うべきでしょう。

「常識」は、人類がその発生以来、気も遠くなるような長い年月をかけて築き
上げた生存(共生)のための叡智。基本的常識は、時代・地域を問わず、変わ
らない。人間の一挙手一投足は、この常識に支配されている。宗教者といえど
も、常識に従わなければ生存は不可能です。その意味で、1個人である開祖の
精神障害から発生した創唱宗教などとは比べ物にならない「大宗教」であるこ
とを、自覚してください。

いかなる常識であっても、何らかの意味で、生存と関係している。そもそも、
宗教の起源は、厳しい自然との闘いの中で、ひたすら生存に努める古代人たち
の、生存のための「手段」だったのです。彼らなりの、生存のための精一杯の
「現実性・合理性・科学性」の表れでした。創唱宗教とは異なり、古代人たち
は、生存の「手段」である宗教を、その「目的」とするなどという倒錯には陥
ていません。

禅が、生存に関係ない創唱宗教の「観念の遊戯」の結果としての「既成概念」
を破壊できるのであれば、それは大いに価値あるものでしょう。

811:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/03/12 15:32:44 3xQoJB7f
>>810
>「概念」ではなく、「事実」「自然現象」と言うべきでしょう。

ならば、五蘊においても自性とか無自性とかヤヤコシイことは言わんで、
「それが事実」とか「それが自然現象」とかで済ませれば宜しい訳で、
何故貴殿は「縁起」とか「無自性」とか掲示板に書いておるんですか?

つまりは「縁起」とか「無自性」とかの意がそもそも解っておらんのでしょ?
解っておる人は、そもそも「事実」とか「自然現象」とかは言わんですね。

つまり、貴殿がおっさりたいことは、
「縁起で無自性だけど・・・時間は恒常普遍である」。と、
かようにおっさりたいのですね?

あ~~っはっはっは。
仏教においては、先ずそういうことは考えられませんね。
何故なら諸行無常だからです。
すべて普遍であるものはなく、無常であるのです。
これこそが本義でありますね。


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