09/02/12 08:27:42 RhAgXCut
>>590
言い方が悪かったかもしれません。すみません。
獲信者と未獲信者と分けてしまう憶測そのものに、意味があるのか?
また、憶測による分別作用を無批判で流してしまうのはどうか?
例えば、私が獲信者だと思っていた人が、
実は獲信者でないこともありえるし、獲信者でないと思っていた人が、
獲信者であると言うこともありえるわけです。
所詮は、不確かな意業による判断に過ぎないのですから。
その不確かな意業によって、他人の意業を詮索する、判別する行為自体、
願力回向たる信心を意業におとしめていることにはならないか?
ということです。
「おとしめるような私なればこそなあ、もうし」なればこそ、
獲信者の規定自体、はからいにすぎないとは言えないでしょうか?
次に、信後の聴聞という言葉の出拠は何処にありますか?
求道体験・また教学追求を先とすると、親鸞聖人の仰ることは後になります。
徐々にその進む方向がずれていくこともあるのではないでしょうか?
信心の談義をする上でも、お聖教と照らし合わせる作業をおざなりには
できません。