09/02/11 16:39:38 NBIIZ8kp
私の疑問の根本は、
私個人が悲劇的な出来事を経験したかしないかではなく、
獲信者か未獲信者か、判別することが、
他力回向という親鸞聖人のお示しに適っているのでしょうか?
と言うことなのです。また、あなた方は求道に関して(求道と言う言葉も
安易に使うべき言葉なのかどうか疑わしいのですが)、
他人にアドバイスできる立場として、盛んに呼び掛けられているようですが
(弟子一人も持たずと言われたという親鸞聖人自身、
そのような立場をとっていたのでありましょうか?)
その行為の裏には、何が潜んでいるか、
自分自身に尋ねてみたことはありますか?
阿弥陀如来の本願に照らして、反省したことがありますか?
自分の求道体験自身が全く転倒した虚仮不実なものだと
反省されることはなかったのですか?
さらに、虚仮不実な求道を他人に勧めてもよいものなのでしょうか?
人は千差万別です。受け取り方も相手様次第。
私は自分の体験を勧めることは自己顕示欲のあらわれだと考え、
躊躇します。そんなあやふやなものより、
躊躇なく伝えられるものがあるではないか、と言うことです。