09/02/02 01:10:08 Zfp/6WZq
現在でもキリスト教が繁栄しているのは、批判的聖書研究の結果が知られていないお陰です。
「マールブルクのフィリプス大学で神学の学位を得たヨアヒム・カールはこういっている。《キリスト者の無
知は、神学者、教会史家による情報の不足の結果である。学者たちは著作で、スキャンダル的事実を否
認するのに二つの方法を知っている。現実を曲げて全く反対のものにするか、被い隠すか、だ》--私はそ
れをともに信者に対する欺瞞と呼ぶ」--------(「奇跡」エーリッヒ・V・デニケン著/角川文庫)
では、聖書におけるイエスの言葉は全て無価値なのか、というとそんなことはない。それはキリスト教のド
グマに拠らないで自分自身でイエスの言葉を読むならば、おぼろげながらイエスの真意を感じることができ、
得るものはかなりある。
尚、私個人が惹かれるイエスについてのエピソードは、有名な「姦淫の女」の話し。「あなたがたのうちで
罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ伝8章7節)
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ伝8章11
節)といい、姦淫を犯して投石で殺されようという女を救いだしている。
このユダヤ伝統の律法に逆らって女を助け出す、などという勇敢な人物がいたということに、私は単純に
驚いてしまう。そんなことをしたら、自分が捕らえられ殺されかねない(イエス試すために謀られた出来事だ
ったらしいが)
イエスは罪を犯さない人間などいないといい、自分は人を罰しない、と明言している。にも拘らず人々は、
イエスが裁くために帰ってくるものと見なしている。「自分が裁かれないために、人を裁くのをやめなさい。
あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。」(マタイ7章1-2節)】