09/02/01 17:20:37 MJjMdhyV
>>147
>>>共同体の不特定多数の成員が、私の「身体」を知覚できれば、私は、共同体において、
>>実在と認められます。
>>それは空と矛盾しないのでしょうか?
>
>まさに「空」ですよ。「自分(個)は、他者との関連においてのみ、存在し
>得る」のですから。自分(個)独立では、存在し得ない(無自性)。
仏教の縁起とはちょっと違うと思います。
原因と諸条件によって x が発生する、縁起する、認識される。
実在というと真実に有るという語感があるので、ある、とか存在するという
なら
仮設としてありだと思います。
>西洋思想の誤謬の根源としての、デカルトのコギトについて、仏教の立場からの
>批判をお願いします。
昔読んだだけでよく覚えていませんが、
我思う、故に我あり。というのは、縁起と違って、
何か知覚や現象があるからには、基盤として実体、実在がなければならないという前提、仏教的には無明があると思います。
しかも、凡夫認識(ボンサンス)が基準となってますから、
まさに常識世界観、ローカーヤタに近いのではないでしょうか?
ここから、世界を量化、数値化、対象化して捉える世界観が始まったとよく言われますね。
この世界観ですと物質がどうなってるかは緻密に客観的に記述できても、
どうすべきかという行動原理が全く提示できないところに
ハイデガーなどが批判する技術社会の疎外と苦悩があると思います。
以上のような感想みたいなものでよろしいでしょうか?