09/01/27 23:49:31 9vxeqEuS
>>221 >では「十二処」も同じことですよね?
これは『縁生初勝分法本經』の問答「何が転生するのでしょうか?」「十二処です」のことですか。
これとサーティ比丘の見解「他ならぬこの識が流転し輪廻する」とが同じことかどうか、ですか。
ならば、決定的に違うと思います。サーティ比丘の場合は、釈尊によってすでに否定されていた
輪廻するアートマンの代用品として、識を持ち出してきたのですから。
かたや、五蘊仮和合の衆生の六処、しかも外の六処(色声香味触法)までも転生する、とされてます。
ということで、この両者の間には、転生の意味それ自体にも質的な違いがあるでしょうね。
心相続とか識相続、自相続とか(相続すると思われているもの)は大毘婆沙論にあるように、
やはり身体という縁との関係で生じる面が大きいと思いますけど、
こうしたことを言い出すのは、部派がいろいろ提示した輪廻の主体をめぐる諸説と同様、
釈尊自身の教説から離れるおそれがあると考えます。
心意識は日夜生滅するもの、そこでとどめ置くのが混迷に陥らない道と考えます。
どうしても主体らしきものを持ってこないと座りが悪いというのなら、衆生が輪廻する、に
とどめればよいのではないでしょうか。それなら、経典の記述を越え出ることもないでしょう。
ただ、その衆生とは、先に触れたように、五蘊仮和合のものであることを肝に銘じていれば。
>>222
五蘊仮和合の衆生が仮設だということ(人無我)ではなくて、識それ自体が仮設(法無我)という
ことを、ヴァッカリ経でもすでに説いているということでしょうか。