09/01/26 19:39:25 1WBBGAgn
>>307
回答ありがとうございました。1、2には安心しましたw
>●凡夫の死後は輪廻することが前提であるため。引用はしませんが、弟子や信徒の死後の赴く先を釈尊は予見し、人に伝えていました。
「前提」とは誰の前提ですか?「前提である」ということはどうして分かるのでしょう?
「弟子や信徒の死後の赴く先を釈尊は予見し、人に伝えていました。」それは本当にブッダ自身の言葉でしょうか?
古層・最古層の経典にもある内容ですか?
>●いいえ、「仏陀が形而上について」無記としたわけではないことは>>95で論じられています。
>インド人に形而上形而下の分別をもってあてはめる姿勢がすでに間違っています。
インド人が形而上形而下という概念を持っていた、と言っているのではないないのです。ブッダが十無記/十四無記などで
「無記」と言った事柄を見ると、現代の言葉でいうと全て「形而上」に当たる内容ですし、「無記」とした理由についても、
人間には捉えられない、感受できない事柄であるから、とやはり現代の言葉でいえば「形而上」であることを理由に
しているのです。また、
>死後は問うべきでない解釈を敷衍して釈尊は形而上を問わなかったとなるわけですが、それは成り立たないのは明白です。
なぜなら釈尊は一切に意とその対象である諸法を含めたのですから。つまり、精神や観念、思惟、直観を扱っているのが明らかです。
形而上という言葉を誤解しています。意、精神や観念、思惟、直観は全て形而下の内容です。私たちは皆、自分の心、感情、精神、
直観など自らの感覚としてちゃんと捉えているのですから。これらは「一切」に含まれます。ところが、ブッダが十無記/十四無記
などで無記とした事柄は全て、「感覚(五感)で認知できない事柄」であり、「生まれ変わり」についても同様です。
>●凡夫が認知できないものを綸じ求めることが愚かだとするならば、そもそも仏の教えを護り涅槃を求める行為じたい愚かなことになります。
「生まれ変わり」「涅槃」などを形而上の事柄としてしまうのなら、まさにあなたの言うとおりです。「愚かなこと」になります。ですから、
ブッダの教えは、認知できる範囲=一切についての教えであり、「仏の教えを護り涅槃を求める行為」もその範囲内でのものです。