09/01/24 13:37:05 TeML1ath
原始仏教で輪廻の主体が識とされることはあります。
「病あつきヴァッカリ」です。中公の世界の名著1、451-456
状況を要約します。病の床についたヴァッカリ尊者のもとへ釈尊がいらして、語りかけます。
釈尊:悩みや後悔がないか?
ヴァッカリ尊者:ある
釈尊:では戒律は清浄だったか?
ヴァッカリ尊者:清浄
釈尊:清浄なら悩みや後悔などないではないか!
ヴァッカリ尊者:釈尊にお目にかかる体力がないこと 以下引用、
「ヴァッカリよ、もうそういうことはよしなさい。おまえが、(わたしのやがては)腐敗してゆく
この肉身を見たからといって、それがいったい何になろう。ヴァッカリよ、ものごとの理法を
正しく見る者は、わたしを見るのであり、わたしを見る者は、ものごとの理法を正しく見ること
になるのです。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見ている者は、(結局その理法にほかな
らない、この)わたしを見ていることになり、わたしを見ている者は、(結局のところ)もの
ごとの理法を正しく見ていることになるからです。
ヴァッカリよ、ものは、永遠に不変のものなのか、それとも無常なのか、
おまえはこのことをどう考えるか」
「師よ、無常です」
「感受、想念、因果的存在、心は永遠に不変なのか、それとも無常なのか」
「師よ、(それらはすべて)無常なものです」
「こういうわけだから、このように(すべてのものが無常であることを)みて、再びこの(苦の)
世界に生をうけることはないと知るのである」
この後ヴァッカリ尊者は無常を覚り、自殺する。すると悪魔がヴァッカリ尊者の魂を探すが、
魂は止まることなく涅槃したことを釈尊がみなに告げる。