09/01/22 10:21:12 A1oMnrvg
>>363
菩薩行というのは、縁起主題の思想から当然出る、自己ではなく
世に対する向上をさせようというベクトルです。すなわち慈悲。
悟りの完成を自己の内面で完了するとするテラワダの発想と
自他の両方の完了がなければ仏の完成などありえないということで
これは諸法無我であるのですから、当然の発想であると思います。
>テーラワーダのようにお坊さんたちが世界中を飛び回って、在家信者に説法したり、
>一般向けに講演会を開いたり、瞑想会を開いたり、本を書いたり、説法の動画を配信
したり、
>経典の勉強会を開いたりなどの、「衆生を助ける」活動を何かやってますかね??
いくらでもやってます。身近な日本で行われてることすら目を向けてないひとが、なにがテラワダですか。
上で話題になっていた、見識が狭いからオウムなんかにはまるってのと同じです。
もっと視野は広く。
>大乗でもお寺によっては住職が個人的に小規模にこのような活動やっているところはあるけれども。
でも見劣りは否めないな。
個人的?宗派レベルでもやってますし、そういうの皆無の寺を探すほうが難しいでしょう。
この分野ではテーラワーダのほうがやはり少ないです。仏像の魂入れなんかは別としてね。
>また、テーラワーダを小乗と誤解しているようだが、それは誤解だ。
>大乗以上に、自己研鑽のみならず、人々(衆生)の幸福を願っているぞ。
つまり、彼らの中にもテラワダは間違いで足りない。大乗が正しいと理解してるわけですよ。
テラワダの教義が真実とするなら、人里から離れ、山奥でボロ布はおって
孤独に瞑想行をするのみに没頭し、
そのような世間のことにこだわるのは執着とせねばなりませんから。
つまり、結局大乗が正しいんですよ。
テラワダだけでは足りぬと、パーリ読んでも分かることです。