09/01/28 21:06:47 OIdTEf+b
>>625 それは止観の別があり、辿り着く境地の共通点があるのじゃ。
禅などは、集中を行う止を教える。
それ故に石を見れば石になれと教える。
クリシュナムルティは観察の観を教えておる。
意識的な瞑想などは、むしろ観察の妨げとさえ言う。
行き着く先が同じである故に、最後は同じような印象の言葉を使うが、両者の違いに注意しなければならん。
止は強い意志によって集中し、心身の脱落を目指す。
それはどこまでも自らの意志の力によって行うものじゃ。
クリシュナムルティの教える観は、意志も何もかも無くし、ただ観察する眼になりきる道じゃ。
一切の意志的な動きはむしろ邪魔になるとさえ言う。
止は能動的であり、観は受動性を必要とする。
行き着く先が同じとはいえ、実際の修行は正反対に違うものじゃ。
共通の言葉がある故に、同じものだろうと想ってしまうのは、認識の謬見から離れておらぬからなのじゃ。
止観の両方を正しく学んでこそ、速やかに悟りは得られる。
>>3から読んでみると良かろう。