09/01/27 20:37:14 rtluOkWp
自分が死ぬという事、確実に死ぬという事をわきまえた時から、真の修行が始まるのじゃ。
人は自分の死を認めなければ、現実を観る事が出来ず、いつまでも観念の遊戯を繰り返すばかりじゃ。
死に行く人間がそれをわきまえず、何を語り、何を取り繕うとも、それは現実から離れている夢幻のようなものじゃ。
お釈迦様も四門を出て老病死に苦しむ人間の姿を知り、世を捨てる決意ワされたように、避ける事の出来ない現実を知って、はじめて人は悟りを得ようと正しく想うじゃろう。
人間には老病死という限界がある。
それが正しく現実の姿なのじゃ。
どれほど高尚な事を語ろうと、人はこれらの現実に屈服し、やがて屍を晒す。
それは全ての生き物、動物や昆虫などとも変わりは無い。
老病死がある限り、人間も又無力な生物の一つに過ぎないのじゃ。
ただ人間にはこの世から出離する道が残されておる。
それが修行して悟りを得る道なのじゃ。
人間だけが修行して老病死を超える事が出来る。
それは僅かな可能性かも知れないが、100%確実な死より、遥かに大きなものなのじゃ。
修行を続ければ、それは次第に大きな可能性になっていくじゃろう。
そして、不死の境地に辿り着けば、100%の死の確率を覆す事が出来たと知るじゃろう。