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九鬼氏の治世
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> 元来九鬼家の家風は、藩祖以来何となく穏やかで藩主と家臣あるいは領民とのつながりの中に温かい情が流れていた様である。
> 日本における飢饉の障害は、多くは風水害、旱魃、虫害、冷害によるが、文献にあるものだけでも欽明天皇二十八年以来、明治初年までに実に二百二十五回に及んでいる。
> しかしながら前述の九鬼家の家風と古来の綾部地方の温和にして率直なる人々の気風があいまって、他藩にあったような苛烈な百姓一揆は起こらなかったのである。
>すでに綾部藩初期の延宝元禄に二度強訴があり話し合いで説得している。
>宝暦の強訴は藩内あげての大がかりなものであったが、打ち壊しをともなわない陳情的なもので、藩よりの申し渡し状も願い出の条々について懇切にしかも今しばらく辛抱するよう情を明かしてたのみこんでいる。
> その後、綾部地方では由良川の氾濫を始め、冷害、旱魃によって度々飢饉に見舞われるのであるが、特に享保、天明、天保を三大飢饉といっている。
>天明の飢饉などは全国的なもので、奥州一国の餓死人数およそ二百万といわれたが、綾部領内では他領に米を売らず、他国よりも安く小売りさせ、藩の保有米で救いきれず奥羽から船で米を買い集めて一人も餓死者を出さなかった。
>天保の飢饉は比較的近年で今だに語りつたえられるが、葛の根はもとより、りょうぼ、蕗の芽、榎の葉まで食べ尽くした位で、九代隆都公は高値の他国米を買い入れ救民に専念し、領国よりほとんど餓死者を出さなかった、と伝えられる。
これが単一民族の自治の自然なありようだ
部落朝鮮ユダヤ血統の自称武士どもによる血も涙もない異民族支配の苛政とは明らかに違う