08/12/31 12:36:53 t9tYoZPz
>>742
時代も異なる大昔の始祖の表面上の言葉だけに必死にしがみつき、その現代的
意味は少しも理解できない「軽蔑すべき三流弟子」の君が、何を喚いても無駄。
君のような解釈なら、釈迦は、イエスと同様、「俺が、俺が」の自分だけを
押し付けるエゴイストで、現代人が信じるに値しない俗物、現代の多数のカルト
教祖と全く同じになってしまう。釈迦を侮辱してはならない。
イエスは、そのユダヤ教の狂信と、統合失調症の症状としての誇大妄想から
「自分が創造主になりたい、なった積り」の野望を抱いただけ。現代の進歩
した精神医学の知識を背景としてイエスの言動を観察すれば、あまりにも明らか。
彼には、創造(自然界、現実界)に対する畏敬は皆無であった。イエスは、
「私は、神の子、神の座の右に座る。アブラハムようり前からいた」「私を信
じない者は裁かれる」「創造は不完全」「私は、平和ではなく剣を、家族間の
敵対をもたらすために来た」などという暴言を吐きまくっている。なれなれしく
も、神に対して「父よ」などと呼びかけている。彼のほとんとすべての「教え」
は、「自分の気に入らない者に対するあくなき憎悪・非難・排斥」とセットに
なっていることを看破すべきである。「善きサマリア人」の話も、彼の真意は、
自分が特別の個人的関係と行為を有するサマリア人にかこつけて、自分の気に
入らない祭司とレビ人とを名指しで挙げて、非難することであった。さもなけ
れば、単に「他の通行人たちは」とだけすればよかったはず。彼は、父なる神
と自己とを同一視して、自己のために、神を「利用」したに過ぎないのである。
この「父なる神の冒涜罪」という己の大罪故に、十字架で処刑されたのである。
彼は、人間の罪を贖うなどという意図は、毛頭なかった。「罪概念」や「贖罪
概念」は、パウロが、その宣教のための「脅迫手段」としてでっち上げたもの
に過ぎない。そもそも、創造主を冒涜して処刑された犯罪者イエスの「汚れた
血」で、他者の罪を贖える訳がない。
多くのカルトを分析してきたが、他の宗教でも、キリスト教の影響があれば
必ずカル化している。君もその一例に過ぎない。