08/12/30 23:55:26 GU870O/w
>>703
縁起を思惟することが現等覚つまり悟りとされるのであるから、仏教とは縁起であり、その縁起を思惟することが悟りである。
仏教とは縁起であり、その縁起を思惟すること、縁起を考え続ける事以外に悟りはない。
無常=無我=縁起=空=中道を無分別智によって現観⇒自得することにより彼岸に達すること。
とすれば四馬鹿カルテットの「アートマンの絶対説」が縁起撥無の非仏教的なものであることは自ずからあきらかである。
もっともヒンドゥに縁起を注入すれば、ヒンドゥ教義は戯論(実証性なき形而上言説)ゆえに全面崩壊するから危機意識を持つのは当然だ。
とくにインドが人々の命を大切にする近代国家として発展するには、
ヒンドゥ的階級思想が巨大な桎梏となって来る事は明白な事実と指摘しておこう。
アンベードカルの革命がそれを証明するだろう。
今日もカシミールでは多くの命が失われた。