08/12/30 10:08:36 zX7x/1fh
>>673
>人間の苦悩の境涯が地獄なのです。剣山地獄が物理的に発見されるわけではない。
つまり、人間が悪いことをしたときには、地獄にいくわけではなく、
あくまでも人間として転生するのだと。
その人間の生において地獄の苦悩を受けるという訳ですね。
しかし仏典にはそのようには述べられていません。
「修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を
いだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。」(スッタニパータ第三の一〇)
「(地獄に堕ちた者は)、鉄の串を突き刺されるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍
に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが・・・」(同667)
「またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に堕ちた者どもを)からめとり、
鉄槌をもって打つ。・・・」(同669)
「・・・また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、
つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。」(同672)
「紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、・・・五千兆年とさらに一千万の千二百倍の
年である」(同677)
・・・その他多数、
なぜ釈尊はこのように具体的に、いかにも地獄をそこに「ある」かのように
説かれたのでしょうかね?
これのどこが人間の地獄の境涯なのでしょう。
いくら悲惨な境涯の人間であっても、地獄に比べれば遥かにマシだといえるでしょう。