08/12/29 10:49:35 qRtCR4rB
>>583
なるほど。七日目の安息の日をそのように読みますか。
なるほど。興味深い・・・。
七日目の安息は
「世界の(創造の)完成であり、これ以上為すことのない、完全無欠な世界」を意味する、と。
「(神による)生成が終わり、(完成した)安定した、静止した(寂静の)世界(状態)」である、と。
「世界の完成のみならず、(創造という行為を為した神の?)境地としての完成」である、と。
そして、
「輪廻し、諸縁により業果の生じ続ける“苦なる”“生存”を脱した“涅槃”に比している」と。
「為すべきことを為し終え、この状態の他にはない(次の生存はない)と言われる境地に比している」と。
(※ここに於いては、前六日間は何に比されているのですか?
「“生まれは尽きた”と言われる時の“生まれ”」?
「“為すべきことは為された”と言われる時の梵行」?
「生存(因と縁による業の連続)」(現世)?
「輪廻(そのもの)」或いは「輪廻としてある“生存”」(現世過去世含)?)
また、
・この時、インドで言われる生成と破壊の繰り返しのような「生成」は意味されていない、と見て宜しいか?
・(イエスの登場が、その復興・再完成だったとしても)、(完成である)七日目の安息が崩れた(?)理由は何か?
(※ →いや・・崩れてはいないのか・・・?
世界が今あること、そのことが既に完成を示している、と。
完成されてある世界が、人のエゴ(視野狭窄)等によって(その人に)見えていないだけである、と・・・。
それを明らかにする為にイエスはやって来た、と・・・。
で、貴方は、この構図を涅槃に比している、と・・。釈尊の成道・説法に比している、と・・・。)