08/12/21 15:01:44 7pNx+QKj
※>>9で述べられるように、仏教内では初めから、
「“実在”とは」「固定的恒常的に存するもの」であり、
「因によらず縁によらず存するもの」であるという定義となっています。
これに対して『仮』ということが言われるのでしょう。『実』と対置される『仮』なのでしょう。
だから、『実』には「固定的恒常的に存するもの」「因によらず縁によらず存するもの」という意が含まれるのでしょう。
ですから、私の発言はそこを無視した勇み足である、という批判は甘んじて受けねばなりません。
しかし、それは“実在”という語をそのように定義した場合であり、
西洋的“実在”或いは現代日本の一般的語義としての“実在”には、
上記のような意味合いは直接的にはないのでは?(“自性”となれば尚更です。)(>>43)
作文中にレスが付きましたので返答も兼ねて続けます。
>>43
> ここは微妙ですね。仏教以外の言語習慣で「実在」というのは大抵、存在論の枠内で使われませんか?
> つまり、現象面での名指し以上に現象上に観念的、人口的な本質・実体を設定する場合ということです。
ですから、そうした「仏教が見る“実在”」と「素朴実在論等で言われる“実在”」とが
「同じ性質を持つ“実在”(同じ意味の“実在”)」としていいのだろうか?という疑問を私は持っています。
素朴実在論が、その本質として「観念的なもの・概念的なもの・錯覚等幻的なもの」をも
(知覚される以上は)(個物的に・実体的に“ある”)とするものであることは理解できますが、
(→まさしく中観の批判する「“法”“有”」ですかね・・・?w おそらくは、本来は素朴な“ある”だったのでしょうが・・。)、
たとえば目の前にリンゴがあり、それを食する時、「リンゴは“ある”」とするのもまた素朴実在論ではないのでしょうか。
この時、「リンゴは“ない”」とするのが仏教であるなら、比丘にとっての托鉢とは一体何なのか。
「“ない”ものを食する」という禅問答的な答えで満足すべきなのか。
心経の無色声香味触法~無苦集滅道のように、「食するということもない」とだけ言えばよいのか・・・。