08/12/27 18:29:15 /0y3IKKW
更に余談。
私は、このように「命の大切さ」を考える時、綾瀬コンクリート事件が脳裏をよぎる。
被害者の彼女は「死なせて(殺して)」と訴えたらしい。
彼女の受けた「恐れ」「苦しみ」「絶望」は如何ばかりだったろう・・・。
(加害者達が命の大切さを見ていなかったことは論外として)、
“彼女の「死にたい」「死んで終わらせたい」という想い”を誰が責めることができよう・・。
巷には「生きてさえいれば・・・」という言葉がある。
素晴らしい言葉だと思う。その通りだと思う。
無常なる世に於ける好転可能性を示す、素晴らしい言葉だと思う。
しかし、しかしだ・・・・・・。
仏教的価値観を持っていれば、彼女の苦は軽減したかもしれない。
彼女が悟っていれば、「そこに“苦”はなかった」だろう。
しかし、しかしだ・・・・・・。
特殊なケース過ぎて、個別に語るしかない事例ではあると思う。
だが、「生きよ」という言葉がもつ残酷性も、仏教者は把握しておくべきかと思う・・。
“残酷な言葉を敢えて吐く”、この覚悟を持たねばなるまい・・・。
延命治療や尊厳死、安楽死、脳死、臓器移植、中絶、等等、
仏教が答えねばならない宿題は山のようにある。
もしかしたら、それらは「仏教が」答えるものでなく
「個人が」「一人一人が」答えるべきことなのかもしれない・・・。
“ vaya dhamma^ saNkha^ra^ , appama^dena sampa^detha ”
私は、「輪廻に振り回される暇があるのか?」と問いたくなるのだ・・・。