08/12/27 18:24:07 /0y3IKKW
>>437
> 輪廻という前提があるからこそ自殺は苦しかもたらさない。
> と考えるのが仏教でしょう。律で自殺を禁じているのは、その意味。
はい。自殺しても、輪廻し、次の生での苦が待っている。(仏典上は)貴方の仰る通りでしょう。
では、苦の滅の後はどうなのか?
貴方が
> しかし、ヴァッカリやゴーティカというアルハットの自殺を釈尊は讃えています。
> これは自殺しても輪廻しないアルハットの境地に達していたからに他ならないでしょう。
と言うように、釈尊はそのように考えて、自殺を許されたのでしょう。
ここで大切なのは、「苦の滅」や「涅槃」は、世俗の煩わしさを消去し切ったわけではないということです。
(ここが、以前の“存在・実在云々”という話とリンクしてきますw)
“独我論的に”という言い方がまずければ、『【当人の主観に於いて】苦は滅せられている』ということです。
しかしそれは、「当人にとって苦ではない」ということでしかありません。
出家受戒を各自で行ってよいとされたこと、托鉢で十分な食を得られないこともあったこと、
晩年の釈尊が疲労を口にすること、チュンダの供養で食中毒となること、
サンガの監督に於いて煩わしさがあると述べていること、
何よりも、ブッダ自身が老衰し死を迎えたということ、挙げていけばキリがありません。
上記二人の姿勢は、“こうした世俗の煩わしさとも離れよう”というものと見ることができます。
そして、林住比丘の在り様が称賛される価値観なれば、
阿羅漢の自殺自体を咎める理由は釈尊にはなかったでしょう。
しかしそれは、『“自殺の”称賛』『自殺の推奨』では断じてない。
限られた、或る条件を満たした上で認められる特例であると見るべきではないか。
ましてや、道の途上にある者にとって、その選択肢は許されるものではないだろう。
「固執しない、とらわれない」ということは、
決して「粗末にしていい」「蔑にしていい」「無視していい」ということではない。
自己の命も又、(天寿という言い方はむず痒いがw)続く限りは大切にされるべきだろう。
この意味で、 >真っ先に却下されるべき だと私は考えるのです。
こうした視点に於いては輪廻は不要だと言っているのです。