【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】3at PSY
【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】3 - 暇つぶし2ch336:初代スレ7
08/12/26 00:14:24 rP9xTeJf
>>無我と非我

機械的日本語訳としてはどちらも可能な読みだが、
“意味合いとして”非我を支持する人は多いと思うよ。

少なくとも、奈良さんや田上さんは、授業中そのような主旨の発言をしていたし、
田上さんに至っては、(今はどうか知らないけどw)若い頃の論文を次のように締め括っているw
面倒だが・・・、以下、少々長いが引用してみよう。
田上太秀「ブッダの自我と無我について」―『駒沢大学仏教学部論集』3(1972)所収(p.31~50)

> 六 まとめ
>ブッダはアートマンを否定はされなかったと考えられる。ウパニシャッドで“哲学的に”アートマンを追求し、知ることが解脱とされ、
>それはそのままブラフマンを知ることであり、ブラフマンとなることであったが、ブッダは実践的倫理的に追及され、
>アートマンになり、ブラフマンとなられた。自らがアートマンであり、ブラフマンである。といってそのアートマンが
>いずれにあるかということについては自己撞着に陥入るために、言語をもって表現することのできないものであるから
>説明をされなかった。定義することさえされなかった。ブッダそのままを直指するよりほかはない。
> アートマンは五蘊にないのであって、五蘊に構成される個体にないといっているのではない。しかし、
>その“ある”という観念さえも消滅しない限り解脱はえられない。
> 「仏伝」において疑問に附してあった自己の問題は右の結論によって解答をえたと思われる。
>ブッダは無我を説かれる場合、根本的には「自分のもの」という所有欲をなくすことを説かれているのであり、
>具体的には五蘊に対する所有観念の破棄をいっている。これが裏付けとなって
>一切の自己―自他の差別としての自己、涅槃を求めて行く実存的な自己、あるいはアートマンとしての自己など―が
>五蘊にはないと述べている。
> 『法句経』では結論として、アートマンを求め至向する実存的自己―人称的私の自己を含めた―のあり方を
>強調しているもので、『スッタニパータ』は、ブッダそのものがアートマンであることを説いていると思われる。


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