08/12/25 21:36:59 2CddHNLY
-----質問
一般的には「無我」といって、
輪廻する主体、アートマン存在が否定されたことになっているが、
しかし釈尊が述べたのは、正確には「それら(五蘊)はアートマンではない」
(いい換えるならば、「五蘊ではない存在がアートマンである」)という意味でしかなく、
よって、「非我」と表現されるほうがより正しいのではないかということ。
つまり、「アートマン存在を(無いものとして)否定した」言葉は
実際、一つもなかったということが、まず第一点。
輪廻転生を否定した場合には、
唯物的な外道思想の「断見」(死んだらそれで継続的生命が無くなるという断滅論)
ということになる、というのが第二点。
「毒矢のたとえ」として知られる「無記」とは、
形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守る姿勢のことですが、
つまり、直接に修行に必要ではない形而上学的な内容については説かれなかっただけで、
ここでも「アートマンは無い」などとは述べてはいない。
また、転生(再生)を現実的な現象として説いたとしても、
何ら沈黙すべき無記としての形状学的問題としては抵触しない。
これが第三点。