08/12/25 11:42:18 8aNm8k2C
>>266
諦めるというのは、机さん解釈のように近代で誤解されたと考えています。
そういった世俗のなかでわたりをつけるとか、妥協すると言った意味では
ありません。
机さんの説は最終的にただの妥協になるので、
それだったら別に仏教の必要はないでしょう。
教えを聞く必要もないし、戒律も護る必要もない、
禅定も..........
ここ20年近く、いろんな人と仏教の話をしてきましたが、
私が疑問だったのは常識や亜科学信仰者で仏教を否定せずに常識化しようとする人たちでした。
それなら、常識や亜科学のフレームで生きていけばいいじゃないか? と思うからです。
しかし、最近やっと分かった気がします。科学というのは現象を記述して説明体系を提示するだけ、
つまり、こうなってますよとは言うけど、どうすべきか、どう生きるべきかについては全く何も提示しません。
それどころか、いままでの常識が、なんの根拠もないただの習慣であると社会学や言語学などは明かしてきました。
そこでニヒリズムが生じて規範を模索する、そのなかで合理的で歴史的に権威のある規範として仏教などを選択する人がいるということだと思います。
それならデレク・パーフェットとか読めばいいのにと思いますが、もう一つ重要な要素は、お手軽ということでしょう。
合理的かつ権威的で、お手軽ということで仏教。
仏教は、そんなお手軽なプチ修行で分かるものでもないが、
方便がよければお手軽なプチ修行で効果があるものでもあると思ってます。
ただ、自己正当化の為に常識におもねった仏教を主張してもなんにもならず、
虚しい慢心が残るだけなのは確かだと思います。