08/12/22 07:21:10 u90jy9UM
>>102
>非社会性が仏教の面目でっしゃろ?
まったくその通りですね。
釈尊が菩提樹の下で瞑想に耽ったのは、
これは社会的規範とか、倫理とか、そういった諸々の想念を断絶したお姿なのでありまふ。
つまり悟りというのは、社会性というベクトルの一瞬の断絶した、その瞬間の直覚でありまふ。
こういった釈尊の手法をそっくり真似た(模放した)のが菩提達磨でした。
禅定というのは、静中禅でも道中禅でも非社会的空間を体験することに他なりません。
直覚といふのは突然にやってくるのです。
道元ですと、禅定中のドサクサ紛れに身心脱落を起こしたよぉに。
ある僧は、石が竹に当たった瞬間とか、
あるいは、裏山のセセラギを聞いている最中とか、
また、秋虫の声で突然に目が開く、といふこともありまして、
まったくもって無為・無心において開眼するのであります。
(つづく)