09/02/11 05:48:40 Q5erAmL9
>267
空は縁起の意味もあります(エジョウロン)から、因果律の否定は有り得ません。
269:南無大師遍照金剛
09/02/11 07:17:45 h4aJKLy0
>>267
空とは無ではありませんよ?
般若心経では空と無という言葉を使い別けている
つまり
般若心経では
空=無ではないと言うこと
色とは目に見える現象
空とは目には見えないが色という現象を規則正しく成り立たせているもの
つまり空とは色を成り立たせている因縁律を支配しているもの→色即是空
この世に現れている全ての現象は空
そして空とは全ての因果応報を規則正しく支配して色という現象を忠実に現す
空とは目には見えないが無ではなく色という現象を規則正しく支配しているもの
色即是空
だからこそ
全てこの世に現れる現象には意味がある
270:神も仏も名無しさん
09/02/11 11:48:00 dSgkaoEu
縁起、原因に対して結果が生じる。
眼耳鼻舌身意で認識される一切の「もの」と「こと」は、
条件次第で変わってしまうちゃらんぽらんな現象である。
一切は縁起(因縁によって生起する)である。
一切は縁起であるから、
あらゆる「もの」「こと」には、自性(確実なそれ自体)が無い。
一切は無自性であるから、
一切には実体が無い、つまり無我である。空である。
空とは、無我であるということ。
271:神も仏も名無しさん
09/02/11 12:07:58 dSgkaoEu
>>269
空って、実体がないこと、無我であることを表す
形容詞・形容動詞じゃないの?
その「空」がものごとを支配するというのはおかしくない?
りんごは「赤い」。ポストも「赤い」。
この場合、「赤い」は形容詞です。
で、
『「赤い」がりんごとポストを支配している』
なんて言わないでしょう。
「空」を名詞にしちゃうのはおかしいと思う。
「空」は宇宙を支配するものでもないし、宇宙の材料や元素でもない。
単なる「無我であること」の別表現。
272:南無大師遍照金剛
09/02/11 12:08:13 h4aJKLy0
>>270
>> 条件次第で変わってしまうちゃらんぽらんな現象である。
条件を無視してちゃらんぽらんに変わるなら分かる
でもこの世の現象は全て条件通りに変わる
全くちゃらんぽらんぢゃない
条件通りに変わるから空なんだ
273:神も仏も名無しさん
09/02/11 12:12:59 dSgkaoEu
たとえば、職場では「仕事が一番大事」と思い、
恋人の前では「仕事よりお前が大切」と思うなら、
ちゃらんぽらんでしょう。
条件(職場か恋人の前か)で、思考や感情や言動が変わってしまうから、
ちゃらんぽらんでしょう。
274:南無大師遍照金剛
09/02/11 12:21:21 h4aJKLy0
>>273
言ってる意味がさっぱりさっぱり
┐(´~`;)┌
275:神も仏も名無しさん
09/02/11 12:35:52 +h8X4nOD
>>267
空だからこそ因果が縁起するんです。
276:じいさん
09/02/11 13:14:33 w8JulGqI
>>268 :承狂
>>269 :南無大師遍照金剛:
因果律の否定が空だと読み取れます。
因果律を認めると物質や観念に絶対性が生まれます。
空というのは事物の絶対的存在性を否定する言葉だと考えます。
色を成り立たせている因縁律の支配を否定するのが心経の論理なのでは?
>全てこの世に現れる現象には意味がある
釈迦も現象に意味付けをすることをしなかったのでは?
神が居るとも居ないとも言わないと言うことだから。
禅宗などの精神も「只ある」「只生きる」と言った感じではないですか。
それは存在の意味、因果とか生きる意味、価値とか言った考えを排除する「只」ではないでしょうか?
277:南無大師遍照金剛
09/02/11 13:56:30 h4aJKLy0
>>276
禅の話するなら修証義くらいよもうね
278:じいさん
09/02/11 13:56:49 w8JulGqI
>>270 :神も仏も名無しさん:
>条件次第で変わってしまうちゃらんぽらんな現象である。
そのとおりだと思います。
だとすると・・・・
>原因に対して結果が生じる。
これが成り立たないのです。
因果律と言うのはある原因に対して結果が一意的に定まることです、ちゃらんぽらんの結果では因果律とは言いません。
因果律が成立する為には原因も結果も絶対的存在性が必要なのです。
空であればは因果はありえないと考えます。
その辺は「不生不滅」と大変判りやすく「原因もなければ結果もない」と言い切っていると思います。
279:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:00:22 h4aJKLy0
>>273
たとえば、職場では「仕事が一番大事」と思い、
恋人の前では「仕事よりお前が大切」と思うなら、
それを自性というんだよ
無自性とは無関係の話
280:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:02:06 h4aJKLy0
>>276
つか
あんた何処の新興宗教信者?
281:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:14:25 h4aJKLy0
>>276
因果律の否定が空だと読み取れます。←般若心経の何処に書いてるの?
因果律を認めると物質や観念に絶対性が生まれます。←?意味が解らん
空というのは事物の絶対的存在性を否定する言葉だと考えます。 ←だから何でそんな答えでるの?最初に答えあり?
色を成り立たせている因縁律の支配を否定するのが心経の論理なのでは?←何処にかいてんのさ?あんたの教祖が言ってんの?
>全てこの世に現れる現象には意味がある
釈迦も現象に意味付けをすることをしなかったのでは?←はぁ?
神が居るとも居ないとも言わないと言うことだから。←あんたみたいな盲信的なアフォが居るから証明出来ないこと不必要な無意味な事は無記にしたのさ。
神がいたからどうなのさ?居なきゃどうなのさ?仏教は他の宗教と違って神様の機嫌を取る教えぢゃないから神様の存在の是非は不要
禅宗などの精神も「只ある」「只生きる」と言った感じではないですか。←修証義読んでね
それは存在の意味、因果とか生きる意味、価値とか言った考えを排除する「只」ではないでしょうか?←修証義読めよ
282:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:38:26 h4aJKLy0
俺もまだ青いな
釣りに釣られちゃったよ
般若心経の最後に
能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪
とある
つまり
この世界は現実にあり 悩み苦しみがある
だから全ての一切の苦を取り除く虚しくない真実の呪を般若心経で説いている
この世が無なら悩みを取り除く呪なんて般若心経では不要
この世は無ではなく現実に悩み苦しみがあるから般若心経で苦を取り除く呪を説いている
283:神も仏も名無しさん
09/02/11 14:46:53 dSgkaoEu
>>279
条件次第でその場の雰囲気に流されて考えが変わってしまう私。
だから私には自性が無い。
私は空である。
284:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:49:57 h4aJKLy0
>>278
>> その辺は「不生不滅」と大変判りやすく「原因もなければ結果もない」と言い切っていると思います。
本当に新興宗教信者だな
是緒法空相
不生不滅
不垢不浄
不増不減
緒法=全ての現象は空相=空の相→空の結果
つまり空とは
生まれないし滅っさない=空とは最初から存在し未来永劫まで滅することがない
空とは
誰にも汚されることはなく汚れることがないから清らかなにすること出来ない→つまり誰にも変えることが出来ない不変なもの
空とは不増不減
増えたり減ったりもしない不変なもの
つまり空とは最初から未来永劫まで絶対不変
285:南無大師遍照金剛
09/02/11 14:51:51 h4aJKLy0
>>283
条件次第でその場の雰囲気に流されて考えが変わってしまうチミ。
だからチミには自性がある
286:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:01:26 dSgkaoEu
>>285 何者にも自性が無いはずだから、
チミにも私にも自性は無い。
287:じいさん
09/02/11 15:09:12 w8JulGqI
>>277 :南無大師遍照金剛:
では貴方は禅宗は生きる意味を追求する宗教という考えなんですね。
>>272 :南無大師遍照金剛:
>でもこの世の現象は全て条件通りに変わる
これは二重の意味で間違えていると思います。
まず同一条件でも現象(結果)は一意的に定まりません。
サイコロを転がしてみれば簡単にわかります。
まして人間の行為のような複雑系では全く結果は予測できません。
それからもう一つ「条件」なるものが確定できません。
空ですから条件も当然あやふやなのです。
因果律は初期条件の空性と相対的相互作用の空性の両方から否定されます。
色即是空 空即是色 の部分です。
288:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:12:06 dSgkaoEu
>>278 目を閉じて黙って座ってると、あれこれ妄想が浮かんできます。
実体のない妄想ですが、なぜその妄想が今浮かんだのか、
そこには何か原因があります。
原因はあるけど、執着には値しない。
「何かの理由でそうなっただけだろう」と軽く受け流せばいい。
289:じいさん
09/02/11 15:16:11 w8JulGqI
>>284 :南無大師遍照金剛:
>空の相→空の結果
これは論理的におかしいでしょう。
相=結果 はおかしい。
>つまり空とは最初から未来永劫まで絶対不変
それでは「空」そのものが絶対的存在になってしまう。
290:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:18:13 dSgkaoEu
>>287 複雑系というのは、無数の原因と結果が複雑にからまっていて
人間の計算能力では予想できない動きをする現象ですよね。
つまり、原因に対して結果があることは否定していない。
ただし、あまりにもたくさんの条件がからまりあってるから、
人間の目にはわかりにくいため、デタラメに見えるのです。
サイコロも、人間の目からは一見同じ投げ方に見えても、
実際には微妙に角度や速度が違っているから、
違う目がでる。
291:じいさん
09/02/11 15:19:38 w8JulGqI
>>288 :神も仏も名無しさん:
>「何かの理由でそうなっただけだろう」と軽く受け流せばいい。
そのとおりだと思います。
要は 縁起、因縁などは軽く流して無視すればいいと言うことです。
目的は苦の消滅なのですから。
292:じいさん
09/02/11 15:23:17 w8JulGqI
>>290 :神も仏も名無しさん:
>実際には微妙に角度や速度が違っているから、違う目がでる。
違います、同じように投げても違う目が出ることを確率と言う。
結果が前の条件に関係し無いのが確率です。
293:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:24:58 qFn0/x6/
あるサイコロを振って何回にどの目が出たかは人間の勘では予測できないことだが、
出る順番は、均等に出るように緻密に定められた完全無欠な運命が存在していることは観測できる
294:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:31:30 dSgkaoEu
>>292 複雑すぎて制御できないから、
どれかの目がでるように偏らせることができないため、
六つの目が均等な確率でてしまうのです。
しかし、そもそも、
6面の立方体のサイコロを投げるという条件のもとでは、
それぞれ6分の1の確率でどれかやね目がでるという
結果が決まっているではたりませんか。
295:じいさん
09/02/11 15:40:28 w8JulGqI
>>293 :神も仏も名無しさん:
然しながら現実の一人の人生で善行をしたのに結果が吉と凶のどちらになるかが確率ならそれは因果律とか言わない。
無数の人生を統計すれば出目は決まっているのだろうが・・。
現実は賽の目のように結果が予測できない。
結果(因果、因縁)を予測(執着)した善行は期待が裏切られその時に苦しみが発生する。
因果律こそ執着の根拠であり苦の本性である。
296:南無大師遍照金剛
09/02/11 15:41:01 h4aJKLy0
やべ
釣られたと思ったら
釣り基地三瓶を釣ってしまった
297:神も仏も名無しさん
09/02/11 15:53:10 qFn0/x6/
>>295
個別に見ればあたかも偶然のように見えるけれど、
大きな運命から逃れることは不可能ということですね。
298:じいさん
09/02/11 16:00:29 w8JulGqI
>>284 :南無大師遍照金剛:296 :南無大師遍照金剛:
>是緒法空相・・・・・不増不減
この部分はどう読み返しても・・・
>空とは 生まれないし滅っさない=空とは最初から存在し未来永劫まで滅することがない
>空とは・・・不変なもの
>空とは・・・減ったりもしない不変なもの
こんな風に読むのは間違いでしょう。
空くまでも「緒法=全ての現象」についての記述です。
諸法に空相があると言うことで、空が不変と言ってはいない。
貴方は心経を捻じ曲げて読んでいます。
299:神も仏も名無しさん
09/02/11 16:02:24 qFn0/x6/
>>295
近視眼的に見ないほうがいいですね。
大きな釣り合いは完全に取れています。
人生はデタラメだ、不公平だという人は、人生を一回限りと唯物論で見ているのですよ。
300:じいさん
09/02/11 16:25:09 w8JulGqI
>>299 :神も仏も名無しさん:
>大きな釣り合いは完全に取れています。
この言い方は苦しいですよ。
言外に「小さな釣り合いは取れていない」と言う事を認めてしまっています。
小さな釣り合いも取れないのに何で大きな釣り合いだと取れて仕舞うのかと言う根拠は何処から来るのですか?
ちなみにサイコロの確率ですと、試行回数を重ねるたびにどんどん収束して行きます。
つまり釣り合いが取れることが目に見えて確認できる訳です。
しかし事故のようなことは人生上試行回数を重ねられますか?
貴方の「人生を一回限りと」見ないと言う事は、何万回の人生の中ではつりあいはとれるという意味ですか?
そんな事ならそれこそ今の一生など大きな運命を考える上でたいした重要性はないとも言える事になってしなう。
それでもいいのですか?
一期一会なんじゃあないかな~。
301:神も仏も名無しさん
09/02/11 16:46:55 +h8X4nOD
>>295
因果が何か固定した実体による物理法則といった考え方をしてるからじゃないですか?
逆に、本来空であるものが、諸条件によって因果として認識されるだけと考えるのが、仏教でこれは現代物理学に近い考えのようですが。
現代物理学は知りませんが。
302:じいさん
09/02/11 16:57:22 w8JulGqI
>>301 :神も仏も名無しさん:
>諸条件によって因果として認識されるだけと考えるの・・・
ですからこのことを肯定的に捕らえるか否定的に捕らえるかでしょう。
心経では絶対的な因果性は無いのだから因果に拘るなと行っている、と私は思います。
303:神も仏も名無しさん
09/02/11 17:19:32 yfulVoy1
>>300
小さい体毛一本、石ころ一個のことが、完全になされているから
大きなことがキッチリ収束するんですよ。
どんなことも一部の狂いもなく行われているわけ。
それが小さな視点ではよく見えないんですね。
304:じいさん
09/02/11 17:27:31 w8JulGqI
>>303 :神も仏も名無しさん:
はい因果律の考えでは当然そういう記述になるでしょうね。
>小さな視点ではよく見えないんですね。
どうしてそんな事がいえるの?
それに・・・・まあそうだとして、
その上で「小さな視点ではよく見えない」事について仏教ではどう扱うと言う事ですか?
心経ではどう言ってますか?
305:神も仏も名無しさん
09/02/11 17:50:39 +h8X4nOD
>>302
>ですからこのことを肯定的に捕らえるか否定的に捕らえるかでしょう。
そういってもいいかもしれませんが、仏教では無明によって迷うものが色を認識して実体と捉え、
悟ったものが空と捉えると言います。色即是空ですね。
>心経では絶対的な因果性は無いのだから因果に拘るなと行っている、と私は思います。
「絶対的な因果性は無い」は仰るとおりだと思います。
しかし「因果に拘るな」とは言ってないでしょう。
現象に拘るなという意味と因果に拘るなでは違いますから。
空を悟った者が、現れる色を見て空こそが色と見る。
これが空即是色です。
般若心経の主張は、最終的に最後の心呪です。
だから、般若の心呪の経と言われるのです。
経典の論理構造も心呪の効能を説く前提だということが分かると思います。
306:神も仏も名無しさん
09/02/11 18:14:58 Cw6Z2UZh
NHK解説委員の長谷川浩さんが、911のときWTCに勤務している人間のうち
イスラエルとの2重国籍の人間の死亡者が一人もいないことを報じてその5日後に
変死
スレリンク(occult板:16番)
307:じいさん
09/02/11 21:43:23 w8JulGqI
>>305 :神も仏も名無しさん:
実体のないものは因果性を持たないのです。
原因と結果をはっきりさせる為には事物の実在性が不可欠なのです。
実在性のない色であれば因果性も問えないのです、判りますか?
実在性のないものがどうして結果の原因となりうるでしょうか?
不生、生まれてないものは不滅、死なない。
絶対的存在のない事物が何かの結果の原因足りえる事は出来無いのです。
その事を心経は繰り返し繰り返し述べています。
そのような本文を軽んじて呪の部分だけを強調するのはやはりゆがんだ考えです。
心経は中観思想の経です、中観は仏教の一派に過ぎません、他派では真っ向から対立する考えの宗派も有るでしょう。
しかし心経は少なくとも日本では庶民にやけに人気があります。
中観に反対する宗派が素直に心経を批判し異を唱えるなら判り易いのです。
しかしその人気にあやかって心経を取り込むふりをしてその解釈を自派の都合の良いように捻じ曲げたり、
お経というものは解釈するべきでなく呪として有り難く唱えていれば良いのだといって心経の主張である中観の思想から目を逸らさせると言う事が多い様に感じます。
308:承狂 ◆nR84EH8w52
09/02/11 21:52:54 Q5erAmL9
>じいさん
だから、その中観派のエジョウロンで縁起と空が同一の意義だと説かれているっつーの。
309:神も仏も名無しさん
09/02/11 22:15:08 c07Ig4KT
毒入りカレー空海。
310:神も仏も名無しさん
09/02/11 22:23:44 dQXOFx+4
毎朝、6地蔵の前を通って駅へ向かうのですが
「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えればいいのですか?
311:神も仏も名無しさん
09/02/11 22:42:56 +h8X4nOD
>>307
>実体のないものは因果性を持たないのです。
>原因と結果をはっきりさせる為には事物の実在性が不可欠なのです。
>実在性のない色であれば因果性も問えないのです、判りますか?
この考え方が、正に実在論です。縁起も空も理解しない考えです。
実体であれば、変化せず縁起しないので、因果もないと考えるのが仏教です。
>実在性のないものがどうして結果の原因となりうるでしょうか?
上に説くように縁起だからです。迷ったものが実体として因果を捉えるのであって、
そこに現象しているのは無常な縁起だけを実体として認識し、
因果として仮設するだけだからです。
>不生、生まれてないものは不滅、死なない。
不生不滅というのは、ある原因から実体が発生し、ある原因で実体が消滅するのではないという意味です。
もちろん、日常用語では発生して消滅するといいますが、
それは無明であって、本来は違うという意味です。
312:神も仏も名無しさん
09/02/11 22:43:19 +h8X4nOD
>絶対的存在のない事物が何かの結果の原因足りえる事は出来無いのです。
>その事を心経は繰り返し繰り返し述べています。
>そのような本文を軽んじて呪の部分だけを強調するのはやはりゆがんだ考えです。
いえ、これは文章を読めば分かることです。
弘法大師の註釈だけでなく、インド註もチベット註でも同じです。
それから現代文献学者も認める方が増えてきています。
>心経は中観思想の経です、中観は仏教の一派に過ぎません、他派では真っ向から対立する考えの宗派も有るでしょう。
違いますよ。その証拠に唯識派の玄奘の弟子である基が註釈しています。
>しかし心経は少なくとも日本では庶民にやけに人気があります。
チベット・モンゴルでも重視します。
>中観に反対する宗派が素直に心経を批判し異を唱えるなら判り易いのです。
あなた自身の理解が足りないとは思わないのですか?
>お経というものは解釈するべきでなく呪として有り難く唱えていれば良いのだといって心経の主張である中観の思想から目を逸らさせると言う事が多い様に感じます。
別に目をそらせることが目的なのではなく、主が呪であることは事実です。
前文は、因縁、効能書きのようなものでしょう。
313:じいさん
09/02/11 22:52:03 w8JulGqI
>>308 :承狂 ◆nR84EH8w52 :
縁起的にあると言う事は存在は空相であると言う事でしょう。
それは否定的な存在であって「有」ではない。
色即是空として存在の空相を理解(悟る)事が第一です。
その空を悟った後に空即是色があるのであって、曲解する人は空即是色の方を取り上げてわが意を得たりとする。
「功徳を積むとは功徳を積まないことである、だから徳を積む」
と言う論理が中観思想である。
その時に後半の徳を積むという部分だけを取り出しては意味がない。
中観の主張は空くまでも「功徳を積まないこと」である。
すなわち色即是空である。
「縁起と空が同一の意義」と言うだけでは中観の真意は伝わらない。
縁起と言うものは事象の相対的存在性をあらはすのでしょう。
そこに空相との同一性を見ているのであって「実在の否定」と言うメッセージ無くしては意味がない。
>>284 :南無大師遍照金剛:
>空とは最初から未来永劫まで絶対不変
こんなばかげた事を言う人が現れるからだ。
314:神も仏も名無しさん
09/02/11 23:02:30 dSgkaoEu
天台宗でいう空・仮・中の三諦って、
般若心経の影響ででてきた思想なんでしょうか?
315:大王
09/02/11 23:35:12 V2pMuwiD
314氏へ、
インドでは般若思想を専門にやる流派が二つある、
説明不可能否定論理派と、
説明可能論理派だ、
天台は後者の影響が強い、チベット密教ゲルク派も、その流れに結構影響があるようだ、
316:大王
09/02/11 23:42:07 V2pMuwiD
日本仏教と言うのは、密教とかは、唯識的ベースがありそうだなあ、
サマディー的領域、それが、空即是色、色即是空とするだろうなあ。
唯心的感覚でありながら、外部があり、内部があり、外部も無く、内部も無く
と中観派と唯識と如来蔵をかき混ぜチックな般若心経解釈だろうなあ。日本仏教の多くは。
317:じいさん
09/02/11 23:50:35 w8JulGqI
>>311 :神も仏も名無しさん:
>実体であれば、変化せず縁起しないので、因果もないと考えるのが仏教です。
はいそれは中観の論点です。
私が問題にしているのは絶対的実在と因果を結びつける考えがありそれは否定されるべきだということです。
だから「縁起だけを実体として認識」とか「因果として仮設」とか言う表現は「縁起は実体ではない」とか「因果は仮設」と言うのは否定的な中観の表現だと考えます。
>不生不滅というのは、ある原因から実体が発生し・・・
それは違うと思います・・・
生には絶対的実体はない、ならば死と言う実体もないはずであると素直に解釈した方がいいと思います。
生きる苦しみに実体はないと言う実践的意味があるのですから。
318:じいさん
09/02/11 23:54:21 w8JulGqI
>>312 :神も仏も名無しさん:
>唯識派の玄奘の弟子である基が註釈しています。
そうなんですか、大変興味があります。
どんな注釈なのですかお聞かせ願えませんか?
319:承狂 ◆nR84EH8w52
09/02/11 23:58:09 Q5erAmL9
(^。^)ジジイだけにあれだな♪(笑)
320:じいさん
09/02/12 00:00:13 SCCu6Q2m
>>315 :大王:
>>316 :大王:
なるほど了解です。
>中観派と唯識と如来蔵をかき混ぜチックな般若心経解釈だろうなあ。日本仏教の多くは。
その理由は心経が人気があるから他派としてはあやかりたいと言う趣旨としか考えられませんが・・・・。
321:大王
09/02/12 00:10:28 kOsGQPFG
>その理由は心経が人気があるから他派としてはあやかりたいと言う趣旨としか考えられませんが・・・・。
と言うよりも、中国の大乗仏教の国土安泰思想、世俗肯定思想が強くなった流れだろうなあ。
322:大王
09/02/12 00:14:03 kOsGQPFG
大乗仏教の成立自体が、在家重視で成立するが故に、
中国の解釈変化は起きるだろうし。
中国で大乗仏教が広がるのは、遊牧民族と中華民族の果てしないジェノサイドを終焉させる思想として期待されたから、
当然、国土安泰思想、世俗肯定思想が強くなるわけで、国家統治システムとして、
323:大王
09/02/12 00:20:33 kOsGQPFG
で、中論を忘れて、国土安泰仏教原理主義になってしまったのが、日蓮だなあ。
324:じいさん
09/02/12 00:32:53 SCCu6Q2m
>>322 :大王:
その理由は・・・と言ったのは日本での事です。
日本では不思議に心経が人気です(チベットでも人気らしいですが・・・)から。
中国では儒教を押さえつけるとの政治的絡みがあるのでは?
儒教は徹底した実在論です。
もとより中国は老荘易という実在論の宝庫です。
易では事象は変化し循環します、その循環そのものが実在論的に把握されます。
陰陽五行です。
全く仏教の論理を受け付けないと思います。
325:神も仏も名無しさん
09/02/12 00:43:48 rcpoVBVG
“実体が無い”と言うのは、空性(縁起している)と言うことであって、“物が無い”と言うことではないよ。
326:大王
09/02/12 00:45:16 kOsGQPFG
日本の仏教も中国輸入モノです、天台、真言は。
中国仏教が流行った隋、唐時代の以前は遊牧民族と中華民族の果てしないジェノサイドです、
儒教が通じない時代です、隋、唐時代は仏教です、儒教が力を持つのは朱子学とか、宋の時代です
日本に来た、真言、天台は隋、唐時代の仏教です。
327:大王
09/02/12 00:48:16 kOsGQPFG
老荘思想の勢力拡大は、空海死後、日本天台が密教を中国で学び始めた、円珍、円仁の時代で、
勢力を持ちます。
328:大王
09/02/12 00:53:16 kOsGQPFG
天台の密教はそれ故に、その後の日本修験道、神仏習合仏教において、陰陽五行が入り、
実在的傾向が強まります、
空海の真言は、それ程実在論ではない。般若思想を意識して真面目に彼なりに追求している
空海死後、真言宗も神仏習合が進み般若思想に無関心になり始め、大日如来=天照、信仰が勢力を持つ。
般若心経が呪術化し始める。
もちろん、日蓮の曼荼羅、ご本尊には天照の名が入る。
329:神も仏も名無しさん
09/02/12 07:34:58 81cx4zlp
五行説をもってすれば、魂(五行で木)なるものがアートマンでないことを
簡単に説明できるのだがな。(相克により変換可能)
330:神も仏も名無しさん
09/02/12 07:42:06 81cx4zlp
>>324
>儒教は徹底した実在論です。
>もとより中国は老荘易という実在論の宝庫です。
>易では事象は変化し循環します、その循環そのものが実在論的に把握されます。
>陰陽五行です。
>全く仏教の論理を受け付けないと思います。
おやおや、道は無視ですか。道を語らずして、老荘を語るどころか、易すら
語れませんよ。
331:じいさん
09/02/12 23:23:36 SCCu6Q2m
>>325 :神も仏も名無しさん:
はいですから「物の実体がない」と言う事です。
私は「事物の絶対的存在性はない」と言ういい方が好きです。
332:じいさん
09/02/12 23:31:32 SCCu6Q2m
陰陽の考えは森羅万象は全てに陰陽の相を持つと言う観念です。
そして陰陽は循環します。しかしあくまでも陰陽であり変化するからと言って陰陽の絶対的真理は普遍で保存されます。
循環し変化するけど絶対的実在する概念なのです。
インドでは仏教は「変化するなら実在性はない」と言う言い方で他の思想集団を論破しましたが中国では通用しないわけです。
333:じいさん
09/02/12 23:37:08 SCCu6Q2m
>>329 :神も仏も名無しさん:
はいそうですね。
陰陽もそうですが五行も「相生、相克」とあるように一種の相対論です。
ですが五行それぞれの実在性は強く意識されます。
インドでは空性により変化するものが、中国では絶対的実在が変化する訳です。
ところで私は日本人ですが空性の方がシックリ来ます。
334:じいさん
09/02/12 23:39:46 SCCu6Q2m
>>330 :神も仏も名無しさん:
>おやおや、道は無視ですか。道を語らずして、老荘を語るどころか、易すら語れませんよ。
そうですか、それは失礼しました。
ぜひ道を語ってください、お願いします。
335:神も仏も名無しさん
09/02/12 23:53:53 22LD6HEy
おまえら、
ここが質問箱だというのがわかってるか?
補足説明が大量・冗長・詳細に亘るようなら場所を変えろ。
336:神も仏も名無しさん
09/02/12 23:54:17 pmxk8cna
>>334
337:神も仏も名無しさん
09/02/13 00:07:41 YqIb7dxi
中論 第十五章
五 有(存在するもの)がもしも成立しないならば、無もまた存在しない。
何となれば、有の変化すること(異相)を人々は無と呼ぶからである。
六 <それ自体>と<他のものであること>と、
また有と無とを見る人々は、ブッダの教えにおける真理をみない。
七 カーティヤーヤナに教える【経】において、
「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。
八 もしも本性上、或るものが有であるならば、
そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
九 【物の】本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。
また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。
一〇 <有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。
故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執着してはならない。
一一 <その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。
<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう
338:神も仏も名無しさん
09/02/13 07:34:02 YqIb7dxi
『易経』繋辞上伝
形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う
339:じいさん
09/02/14 00:49:51 wZfbHZa6
>>337 :神も仏も名無しさん:
八のところが中国では通じないのでは?
世界を分類して実在性を述べるのが得意だから。
「形而上者謂之道、形而下者」とか・・・
陰陽、五行も・・・
340:神も仏も名無しさん
09/02/14 10:47:44 Xwb3nPxq
正しい禅定と正しくない禅定について教えて下さい。テーラワーダの禅定は
本当に正しい禅定なのでしょうか?
341:神も仏も名無しさん
09/02/14 11:21:26 RZNoEcMi
>>340
テーラワーダの禅定が解脱した聖者によって伝承されるものなら正しいものです。
テーラワーダといってもいろいろあるので、私はビルマ系テーラワーダは、伝統的で現代でも解脱者を出していて信用できると思います。
ビルマ系にもいろいろあるでしょうが。
342:神も仏も名無しさん
09/02/14 15:57:31 XsPr6aN5
質問です。
仏教はただ単に何かを信じれば救われる宗教じゃないと思っていたのですが、
なぜ、何々を唱えれば極楽へ行けるという考えの宗派も仏教というのでしょうか?
343:神も仏も名無しさん
09/02/14 16:10:17 mK2veIj6
そこのスレいって質問しなよ。
ちゃんと勉強したものでないと答えたらいかんと思う。
344:神も仏も名無しさん
09/02/14 16:34:28 RZNoEcMi
>>342
仏教だと思います。理由は、二つ。
一つは、浄土教がインド起源で、チベット、シナでも信仰されていること。
第二には、三宝に帰依するものであれば仏教だからです。
345:じいさん
09/02/14 22:17:39 wZfbHZa6
>>343 :神も仏も名無しさん:
宗教と言うのは、勉強すれば答えられるようになるものなのだろうか???
346:神も仏も名無しさん
09/02/14 22:19:59 mK2veIj6
天才なら勉強しなくても大丈夫かもしれませんね。
347:神も仏も名無しさん
09/02/14 22:56:49 RZNoEcMi
>>345
問いによりますね。本質的な内容は悟ってないと答えられませんが、
知識、資料、歴史といった問いなら答えられるでしょう。
348:神も仏も名無しさん
09/02/15 14:21:08 ctH9be7Q
>>342
経典では、
阿弥陀仏を信じて阿弥陀仏の名をとなえれば極楽浄土に往生できるという教えは、
お釈迦様が説かれたことになっているからです。
お釈迦様(仏)が説いた教えだから仏教。
まぁ、この経典自体はお釈迦様の死後何百年も経って創作されたものですが、
少なくとも、仏教教団の中からでてきた教えではあります。
349:神も仏も名無しさん
09/02/15 14:22:54 ctH9be7Q
>>342
お経の記述では、
お釈迦様が弟子に対して、
阿弥陀仏を信じて極楽浄土への往生を願いなさいと教えているのです。
お釈迦様が阿弥陀仏や浄土を紹介してくれたことになっているのです。
350:神も仏も名無しさん
09/02/15 19:16:18 kbRbRf0r
>>349
インドに阿弥陀信仰の行われた形跡はありません。浄土経典はインド成立ですが、
阿弥陀信仰は中国起源。仏教と言えるのかどうか、このあたりが微妙です。
351:神も仏も名無しさん
09/02/15 19:36:08 7IYeOjwf
>>350
学界で、学問的に(分類的に)呼称をどうするかという点では、コンセンサスがとれる可能性はあるかもしれない。
が、一般的に、日常に於いて、我々の生活に寄り添った部分で、
既に習慣として、習俗として、文化として根付いている分類は、余程のことが無い限り変わらないだろう。
そして、『学会で、どう分類されているか』なぞ、我々の日常には関係が無い。(このような例は枚挙に暇がないだろう。)
『我々の“日常に於いて”“日常の価値観に於いて”、(たとえ無意識的にでも)どのように分類されるか』
が重要だ。そして、それこそが、【本来の、本質をついた分類】と言えるのかもしれない・・・。
その際の基準は、学界で用いる基準とは似ても似つかないものかもしれない・・・。
352:神も仏も名無しさん
09/02/15 20:39:24 5mIuDQXR
>>350
痕跡はたくさんあるよ。クシャーナ朝にアミダ仏を建立した台座刻文とか、
ウダヤギリ遺跡のアミダ像とか。当然、ネパール、チベット、モンゴルにもあり、
アミダ信仰がシナ起源でないことは明らか。
もちろん、浄土信仰も。
353:神も仏も名無しさん
09/02/16 08:53:40 Ck8GPM0C
>>343
いつも見ていて、素朴な質問にも丁寧に答えてくれるのでここで質問してしまいました。
>>344 >>348 >>349
親切にありがとうございます。
354:神も仏も名無しさん
09/02/18 10:25:33 ZE9olQ0G
煩悩を辞書で調べると、「人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。」と書いてあるのですが、「仮の実在への執着」がよくわからないのですが、どういうことなのでしょうか?
355:神も仏も名無しさん
09/02/18 10:59:18 mof3GFS9
>>354
今、自分が実在し、見える通りに諸物が実在していると捉えることです。
そうでなく自分も諸物も縁起して見えているのであり実体のない空であるという
本来のあるがままではなく、実在していると見るから様々な苦が生じるというような意味です。
356:神も仏も名無しさん
09/02/18 11:16:17 ZE9olQ0G
>>355さん
ありがとうございます。質問してよかったです。"自分はこうなりたい"というようなことを想像していたので。まったく違いました・・。
357:神も仏も名無しさん
09/02/18 11:34:53 mof3GFS9
>>356
お役に立ったなら嬉しいかぎりです(^^)
358:神も仏も名無しさん
09/02/18 20:43:50 7biMATIG
質問です。サンサーラとサンスカーラはどう違うのでしょうか。訳語ではなく、
意味について違いを教えて下さい。
359:神も仏も名無しさん
09/02/18 20:53:13 XsZO+TxE
サロメ 転落人生
360:神も仏も名無しさん
09/02/18 21:03:30 mof3GFS9
>>358
サムサーラは、巡る、廻るという意味です。
サンスカーラは、集成、形成、形作るという意味です。
どうちがうというより全く違う言葉です。
361:神も仏も名無しさん
09/02/18 21:35:48 7biMATIG
>>360
ありがとうございました。カタカナで書くと似ているので、意味も
類似しているのかと思っていました。
362:神も仏も名無しさん
09/02/23 23:07:36 pxMISnkx
毎日のように「もしこうなったらどうしよう」などという想像や、
他人の態度、他人からの悪口に何時間も重い気持ちになってしまう。
もうずっと経験してる事だけどちっとも進歩しない。
仏陀の仰るとおり我執によるものであり、他人によって悪い影響を
受けてしまう俺は愚かで軽薄な人間なのだと思う。
苦しいので少しでも我執を消し去りたいがちっともうまくいかないぜ。
363:神も仏も名無しさん
09/02/24 07:56:50 2TTnjfBn
>>362
とりあえず、今考えても仕方ないことは考えないようにしては?
悪口を言われたことを何回も思いだしたって、仕方ない。
だったら、そのことを考えないように。
考えたら嫌な気分になる。
考えなければ嫌な気分にならない。
364:神も仏も名無しさん
09/02/24 09:54:21 BSOUlUNG
>>362
釈尊を信じるなら、釈尊の教え通り道を歩まないと、
なかなか煩悩という癖は根深くて直せません。
酒・たばこみたいな浅い癖も直すのに一苦労するなら、
我執という本能的な癖を直すのが、そう簡単なものでないのは分かるでしょう。
365:神も仏も名無しさん
09/02/24 10:16:21 AsFAFH/P
諸法無我について教えてください。
すべてのものに主体が無いと、人と人をどのように識別するのですか?
それぞれの個性は無いと考えていいのですか?
366:大王
09/02/24 10:29:51 AkFTasxl
諸法無我について
人間の肉体が常に同一であり続けるだろうか?
細胞は死に、うんこになって排泄、タンになって吐き出させる、
人間の精神は同一だろうか?
いろんな経験で転落したり、成長したり、変化する、
アルツハイマーになれば、同一であるとは言えるだろうか?
固定的でありつづけてるいると断定できうるだろうか?
367:神も仏も名無しさん
09/02/24 11:35:43 BSOUlUNG
>>365
見える通り現象は多様で、個々別々です。
だから、世間的、世俗的意味で主体もあるし、識別も個性もあると言います。
これは世間的習慣、言い慣わしに従った世俗諦と言われます。
ですが、それが実体を持って実在し独立不羈だと見ることこそ煩悩の根本で、
苦しみの元であるというのが仏教の考えです。
すべては諸要素が縁起して、それ自体として認識されているだけである。
と見る本来のありのままの見方をするために無我、縁起・空があります。
このような見方を習慣づけることで、執着は減少しますが、
本来は、禅定・三昧状態で縁起・空観を行うことで、
諸法、つまりあらゆる現象が無我、つまり本質・実体がないと体験するのです。
その体験後も、現れは多様で、個々別々に現れますが、
実体がなく幻のように縁起していると観ることができ、執着を離れます。
という感じです。
368:365
09/02/24 13:16:56 AsFAFH/P
>>366 私へのレスですよね・・?ありがとうございます。
>>367
見たとおりに識別し個性もあると考えていいということですよね。
ただ、主体がないのになぜそう考えられるのかがよくわかりません。
それについて説明してくださっているのだと思うのですが、難しくて理解できませんでした。
レスありがとうございました。
369:神も仏も名無しさん
09/02/24 13:23:41 BSOUlUNG
>>368
>見たとおりに識別し個性もあると考えていいということですよね。
いえ、もし仏教に従って無我を実感したいなら、そうではありません。
>ただ、主体がないのになぜそう考えられるのかがよくわかりません。
例えば、TV や モニターの画面上がドットの集合なのに
文字や映像として認識できるのに近いです。
370:大王
09/02/24 13:44:22 AkFTasxl
主体と言う思考によって主体があるのか?
その主体は定義できうるのか?
また、その主体があるならば、その主体の認識は同一でありうるのか?
主体の認識が同一でないのが普通であり、
その違いがあるのは、主体と言う固定的な主体が無いからでは?
371:神も仏も名無しさん
09/02/24 14:31:04 7OmfVY/H
最近瞑想や探求を続ける内にいくつか疑問が湧いたので質問させてください。
基準となる思想は仏教でも個人でも何でもけっこうです。
できるだけ多くの方の主義・思想を聞かせていただければありがたいです。
・私は趣味で牛革を使ってベルトを作っています。
この動物の革を使って何かを作る行為というのは望ましく無い行為なのでしょうか?
例えば、動物を殺して皮を剥ぐのと、死んでいたものの皮を剥ぐ事、これは同列でしょうか?
・菜食でも小魚は食べてもよいという話を聞きました。
菜食主義の基準は様々でしょうが、私は魚も食べない方がいいと思っていますが、みなさんはどうお考えでしょうか?
私の中の基準では食べる事でその食べられたモノにメリットがある場合、だけだと思っています。
・肉類も神に捧げてから食べれば良い、という話も聞きました。
これは分からぬでもないのですが、具体的にはどうすればよいのでしょうか?
神に許しを得るという事でしょうか?
私は仏壇というのは好きではないので、仏壇に捧げるという以外の方法があればお教えください。
・瞑想の最中に恐怖心を感じる事があります。
雑念などではなく、何かが近づいてきたり横切ったりといった感じです。
いつも怖くなって目をあけてしまうのですが、どのように対処すればいいでしょうか。
その恐怖に耐え抜く事が修行となるのか、それとも危険なので何か対処をした方がいいのか分かりません。
長々と書きましたが、一つでも良いのでお答えいただけましたらありがたいです。
未熟者ゆえ、至らない質問だとは思いますがよろしくお願いいたします。
372:神も仏も名無しさん
09/02/24 14:39:37 mUZnWe81
華厳経のお経はなんという題でしょうか?
悟りの世界・華厳経
スレリンク(psy板:84番)
☆ ★ 宗教なんでも@質問箱 11 ★ ☆
スレリンク(psy板:103番)
でも同じ質問しましたが、ここ質問スレでも質問してみます
373:神も仏も名無しさん
09/02/24 14:54:43 AsFAFH/P
>>369
度々ありがとうございます。本当に理解力なくてすみません、最後にもう一つだけお願いします。
まったく同じ姿をした人が二人いるとして、その二人とも主体がないと、二人の違いをどう識別するのでしょうか?
>>370 大王さん
ありがとうございます。
主体が何によってあるか、ないかについてではなく、主体がないものの違いを何によって見分けるのか?ということを知りたいと思いました。
それについての説明もくださっているのでしょうが、理解できる頭がなくすみません。
374:神も仏も名無しさん
09/02/24 15:10:36 BSOUlUNG
>>371
>・私は趣味で牛革を使ってベルトを作っています。
> この動物の革を使って何かを作る行為というのは望ましく無い行為なのでしょうか?
> 例えば、動物を殺して皮を剥ぐのと、死んでいたものの皮を剥ぐ事、これは同列でしょうか?
他の生物を傷つけることがよくないので、死んだものは生物ではありませんから、問題ありません。
>・菜食でも小魚は食べてもよいという話を聞きました。
> 菜食主義の基準は様々でしょうが、私は魚も食べない方がいいと思っていますが、みなさんはどうお考えでしょうか?
> 私の中の基準では食べる事でその食べられたモノにメリットがある場合、だけだと思っています。
植物も生命ですが、人を殺すより、動物を殺す方がまだ罪が軽いと考えるように、
なるべく他の生物の命を奪うことは直接は絶対よくなく、
間接的にもできるだけ避けるのが望ましいと思います。
>・肉類も神に捧げてから食べれば良い、という話も聞きました。
> これは分からぬでもないのですが、具体的にはどうすればよいのでしょうか?
> 神に許しを得るという事でしょうか?
> 私は仏壇というのは好きではないので、仏壇に捧げるという以外の方法があればお教えください。
神仏に捧げたから許されるというのは、世俗的な神々の話だと思います。
ですが、観想で神仏に常に捧げるのはよいと思います。
>・瞑想の最中に恐怖心を感じる事があります。
> 雑念などではなく、何かが近づいてきたり横切ったりといった感じです。
> いつも怖くなって目をあけてしまうのですが、どのように対処すればいいでしょうか。
> その恐怖に耐え抜く事が修行となるのか、それとも危険なので何か対処をした方がいいのか分かりません。
一番いいのは、自我を守ろうという意識をなくすことだと思いますが、
難しいです。
375:神も仏も名無しさん
09/02/24 15:32:51 BSOUlUNG
>>372
大方広仏華厳経が漢訳の題名です。
ブッダ・アヴァタンサカ ナーマ マハーヴァイプリャ・スートラ
というのがインド語の題名です。
376:神も仏も名無しさん
09/02/24 15:47:11 mUZnWe81
>>375 御返信有難う御座いました
377:神も仏も名無しさん
09/02/24 15:49:38 BSOUlUNG
>>373
>まったく同じ姿をした人が二人いるとして、その二人とも主体がないと、二人の違いをどう識別するのでしょうか?
それは見たまま、良識といわれる言語習慣のままです。
仏教は、そういった良識を破壊するものではなくて、
良識が実体、実在であると思う認識を破壊しようとします。
私の説明がヘタで混乱されているかもしれません。
パユットー『仏法』31頁でこのように述べられます。
要するに、五蘊の原理は無我であることを示す。「人間の生命」は
様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも
自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。
また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。
この本などを読まれてはいかがでしょうか?
あるいは水野弘元『仏教要語の基礎知識』旧版32, 100-103, 130, 132, 146
などをお読みになってはいかがでしょう。
この問題は、なかなか理解しずらいものです。
なぜかというと実在論的思考形式に馴染んでいるからです。
378:神も仏も名無しさん
09/02/24 16:15:43 AsFAFH/P
>>377
混乱しているのは私の理解力不足からです。何度もありがとうございます。
何回も読み返しましたが難しいですね。それぞれひとつひとつはわかるのですが、繋がると途端に頭が混乱します・・
377さんの説明と、本を参考に整理したいと思います。
379:371
09/02/24 21:37:22 LXluEAXe
返信ありがとうございます!
疑問が解決しました。
また、自分の経験を通してそれを確認していきたいと思います。
「自我を守ろうとする意識」というのはまさにその通りですね。
瞑想の本質でありながら、その事に気づきませんでした、やはり私はまだまだ未熟ですね。
ありがとうございました!
380:神も仏も名無しさん
09/02/24 22:52:20 2TTnjfBn
>>373 あらゆる識別は絶対的なものではないのです。
1秒前のあなたと今のあなたが同一人物である
と思う識別も、絶対ではないのです。
諸法無我を簡単に言うと、
「あなたが思ったことは、あなたが勝手にそう思っただけのものだ」
ということです。
こういう修行もやってみては?
すべての思考のあとに、
「…と思った。」とつけて終える。
すべての判断・識別は、あなたがそう思ったにすぎないのです。
381:神も仏も名無しさん
09/02/25 04:25:58 UYnHA8lu
馬鹿は死んでも治らないって!やっぱ信者に使う言葉?w
382:大王
09/02/25 10:40:49 XCVrmGUt
まあ、慣れた道を車で目的地へ行く場合、
主体と言う実体がこの道右左と判断したり、主体がブレーキ、アクセルを踏むとかわざわざ判断したり、やっているのだろうか?
慣れた道の場合、カーステ、ラジオを聞く方に集中し、知らぬ間に目的地に到着する、
その場合、主体が、と言う判断、選択を意識的どれほどやっているのだろうか?
383:神も仏も名無しさん
09/02/25 12:28:11 UBc770uO
>>382
慣れている道でも、
運転してるときには主体による判断・意思がはたらいている。
ただ、カーステレオの音の印象がつよくて、
運転したことをいちいち覚えていないだけでしょう。
384:神も仏も名無しさん
09/02/25 13:46:34 r494QfKW
>>380
ありがとうございます。
ぼんやりとですが、わかってきたような気がします。完全に理解はまだほど遠いですが・・
「・・と思った」は瞑想の時にしていますが、普段から意識してみようと思います。
385:神も仏も名無しさん
09/02/26 09:41:02 GZLnMMgp
ぷりゃ
386:神も仏も名無しさん
09/02/26 11:19:16 dEVdUYtl
>>380
精神分裂病やうつ病への誘いですか?
まったく無意味な修行?ですね。基地外の業をつくってるにすぎませぬ。
そうではないのです。
そのような思考を捨てるのです。
生まれてから今日までの白黒をつけるすべての相対的思考を断絶するのですよ。
曇った玉を磨くようにですよ・・・。
そうしてしばらく修行していると曇りがとれた後に玉本来の輝きがでます。
そのとき、諸法無我というものが本当に識得できます。そうすれば生死も解決するでしょうし、
と同時に万物同根も識得できます。その他いろいろな道理もね・・・・。
いろいろ理屈をならべても、決して分かるものじゃありませぬ。
まあ、頭で理解できたつもりにはなるかもしれませんが。
387:神も仏も名無しさん
09/02/26 12:08:55 50e8ANSs
>>386
御大層なことをのたまっとるが、
>そのような思考を捨てる
具体的方法を記さなければ意味が無いぞw
空虚なスローガンと同じだw
スローガンを叫ぶだけなら馬鹿でもできる。
「じゃあ、具体的にどうするのか」が同時に提示されて初めて、スローガンは価値を増す。
絵に描いた餅じゃ腹は膨れんぞw
388:莫迦に説法
09/02/26 13:23:32 7o/i0n+2
>>387
ご承知のうえでお尋ねになってると推察。
具体的方法は古来ゴマンとあるのではないでしょうか。
あるものは坐禅、又あるものは南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などのご唱明、キリスト教では聖歌でしょうか。
またあるものは六根清浄と唱えながら山をかけ回っているかもしれませぬ。
要は煩悩妄想を蕩尽する方法であれば何でもいいんです。
お釈迦様が周利槃特に、「塵を払い、垢を除く」といいながら掃除をするようにと指示し、永い間についに悟ったというエピソードもありますよ。
こんなことあえて回答するまでもないことですが・・・。
389:神も仏も名無しさん
09/02/26 21:41:34 2A1GZvDy
「塵を払い、垢を除く」といいながら掃除したくらいで悟れるなんて天才なんじゃねーの?
390:大王
09/02/27 11:40:08 0tCrPWhM
主体くんへ
哲学的センスで仏教スタンスから外れた表現で言えば、
主体と言う19世紀以前の哲学用語のものさしを堅持している時点で問題だな、
主体、と言う哲学用語が死後になる時代来るだろうな、
20世紀後半以降の構造主義、ポスト構造主義でも、勉強したら?
人間の精神、文化は19世紀以前の哲学用語のものさしで計る不可能性に気付くだろう。
言語概念で普遍的固定的に説明可能なのは物質法則と生命原理機能のみだろうよ、
人間の精神は不可能だろうなあ、
中沢新一はいまや宗教学者だが、80年前後だと、上記哲学ムーブメントにあり、
そこからチベット仏教へ行ったのは何故でしょうなあ?
391:大王
09/02/27 11:44:13 0tCrPWhM
主体くんと言うのは383あてです。
392:神も仏も名無しさん
09/02/27 13:40:56 7I0tPJuC
華厳経
華厳宗
って日常勤行ってあるのでしょうか?
何を読経するのでしょうか?
393:大王
09/03/03 16:59:02 M0VS6y3p
392さんへ、
東大寺で検索したら、
知識面で関心が薄いわたし。
394:神も仏も名無しさん
09/03/07 14:47:30 x4HL2Hlg
すみません。質問させてください。
瀬戸内寂聴の本で見たのですが、「観世音菩薩」といわゆる「聖観音(たぶん
如意輪観音とか千手観音とか馬頭観音も含めて)」は全く別と書いてあったような
気がしたのですが、実際そうなのでしょうか?
395:394
09/03/08 03:10:14 Ziysj21H
もしかして、この板は初心者に優しくありませんか?
396:神も仏も名無しさん
09/03/08 03:23:23 9fgOD52t
>>394
たぶん、聖観音が千手・馬頭・如意輪観音などの姿に変化するんだと思います。
397:神も仏も名無しさん
09/03/13 15:12:06 0jAIluM6
因縁生起について教えてください。
煩悩は因であっていますか?
398:神も仏も名無しさん
09/03/13 20:15:35 WiC81J3K
>>394
寂聴さんが何と仰ってたか分かりませんが、聖観音も如意輪観音も千手観音、馬頭観音も全く同じです。
観音どころか不動明王も閻魔様も同じ仏様です。名は何と言おうとおなじ仏様です。
仏性をしっかりと自覚してみれば分かりますが、皆、心の産物ですよ。
>>397
因も果にもなるでしょう。
現代人が因縁についてもっと深く自覚すればよい社会になるし不幸も減るでしょうね。
399:神も仏も名無しさん
09/03/14 08:33:01 czyeVzCz
>>398
ありがとうございました。
400:神も仏も名無しさん
09/03/14 11:53:15 tNdEsrPC
華厳経を読みたいのですが、手頃なところでは
中村元の「『華厳経』『楞伽経』 」(現代語訳大乗仏典)がありますが、
これって全訳ではありませんよね?
この本で大丈夫でしょうか?
あと、『楞伽経』は全訳が収録されていますか?
401:神も仏も名無しさん
09/03/20 14:19:14 dRwkeA/E
ある屁理屈な人がこういいました
「お彼岸と言うのは本来お墓には誰も居ない。それなのにお墓に墓参りするのは
間違っている」
この言葉は本当ですか?
お彼岸と言えば墓参りするのが当たり前と思っていました
仏教界で宗派によって考えが違うのでしょうか?
正しいお彼岸の意味を教えてください
402:けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
09/03/20 16:54:25 eRottDlx
>>401 もともとお墓には誰もいません。
お骨や遺体は遺品の一つにすぎず、
お墓はそれらの遺品を埋めた場所に建てるモニュメントにすぎません。
お彼岸だからどうこうと気にする必要はありません。
仏教では、死んだら輪廻するかか涅槃(解脱)に入るかのどちらかだと考えます。
仏様と同等の悟りに達したら涅槃に入ります。
それ以外は輪廻します。
輪廻するということは、
どこかで新しい生命に生まれかわることですから、
お墓にはいません。
涅槃は、平安なる滅びですから、もう、どこにもいません。
403:佐藤栄三郎
09/03/20 17:47:39 dRwkeA/E
すみません
難しい解釈で良くわかりませんが
お彼岸でお参りするのはお墓のほうですか?
それとも仏壇の方ですか?
それを教えて下されば結構なんですが・・・
404:承狂 ◆nR84EH8w52
09/03/20 17:58:05 Xc+VCm8V
>403
いわゆる「お彼岸」とは本来、神道の行事でした。
氏神さまのいるお山から御先祖さまをお迎えして、またお送りする訳です。
各地で風習は様々ですが、
丁寧に供養したいなら、入りと明けに墓参りして、盆の間は殺生を避けて仏壇にお供えすると宜しいかと存じます。
勿論、気持ちの問題ですから、仏壇にお供えして故人を偲ぶだけでも構わないかと思います。
(^人^)
405:神も仏も名無しさん
09/03/21 09:42:17 Mc3N533g
>>403 仏教的に正しいかは別として、
世間一般にはお墓にお参りすると思います。
仏壇は家にあるのだから、毎日でもお参りする人がいるでしょう。
406:佐藤栄三郎
09/03/21 10:02:23 +vChUxtu
いろいろとコメントいただき有難うございました
お彼岸って必ずお墓参りするものと思っていました
本来、お彼岸は檀家がお寺に説教を受けに行く期間と言うのが正しいのかな?
全く、仏道は解らない事がいっぱいです
相手方も正しい事だったんですね
「馬鹿げた事を言うな」と喧嘩するところでした
407:神も仏も名無しさん
09/03/21 13:15:35 Mc3N533g
>>406 お彼岸には、お墓にお参りして、
お寺さんにもごあいさつして、
お寺でお彼岸の恒例行事・法要・説法等があるのなら、
それにも出席するのが、一般的だと思います。
仏教的には、お墓に執着するのも煩悩なのでよくないかもしれませんが、
一般的な慣習としてはお墓参りします。
408:佐藤栄三郎
09/03/21 14:18:59 +vChUxtu
>>407様
丁寧にお説明有難うございました
今後お彼岸にはそう心がけたく思います
クイズ番組で
お彼岸は故人を供養すること ×
お彼岸とは悟る期間 ○
こんな問題が出たらほとんどの人は間違いますね
409:神も仏も名無しさん
09/03/21 14:57:22 HAhPGBU8
>>402さん、横レスすみません。
「先祖を供養する」とよく聞きますが、輪廻転生の考え方からするとそれもおかしな話ということですか?
どこかに生まれ変わっているか、涅槃に入れたのなら供養することはないですよね。
410:けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
09/03/21 22:41:23 Mc3N533g
>>409 そうですね。
僕も、自分の前世の家族のことなんか憶えてませんからね。
供養というよりも、善行の功徳を回し向ける(回向:えこう)。
しかしそれも結局、自分の心に対して行っているのかもしれません。
411:見性しました
09/03/23 12:58:59 +HisxBS4
昨日の座禅中、隻手の音声で大轟音を聴き見性しました。
大爆発の歓喜でした。
嬉や~、ああ嬉や~。
412:神も仏も名無しさん
09/03/23 13:08:43 v05y6AP3
大日如来や、薬師如来のように実在していない仏様は誰が何のために作ったのですか?
413:神も仏も名無しさん
09/03/23 16:14:32 lHnycKaa
失礼ながら
お寺なんて仏像彫刻の美術館と認識しざるをえない
414:412
09/03/25 16:12:40 L33vN2iT
調べたら、わかりました。拝む対象をはっきりさせるためのあくまでシンボル的なもののようでした。
415:神も仏も名無しさん
09/03/27 14:47:36 unZZICpT
>>411
見性したと舞い上がってしまうと、有頂天界に堕落するのだそうです。