08/12/18 18:27:51 wC8tIUnD
これがヒントになると思います。
> URLリンク(www.dia.janis.or.jp)
> サーティという比丘は、「<識は流転し、輪廻し、同一不変である>
> そのように世尊は説かれた」と主張して、皆から、「世尊を誹謗
> してはならない。世尊は<縁がなければ、識の生起はない>と述
> べておられる」と諭されます。(片山一良訳 パーリ仏典中部
> 大蔵出版 第38大愛尽経から要約)
釈尊は輪廻を否定されたのではなく、識という実体が不変に輪廻するという説を否定されたのです。
なぜなら、それでは縁起にならないからです。
だから、<縁がなければ、識の生起はない>と説かれる。
リンク先の曾我さんは、『勝義空性経』が輪廻を否定すると解釈されるように、
上の『大愛尽経』も輪廻を否定すると解釈しています。あなたと同じ立場ですね。
本来の解釈は以下のようなものです。
これは、私がずっと説いてきた内容に近いです。
業のエネルギーとか科学等を引用しているところは、方便でしょう。
「業が輪廻する」というのは有部説に近いですね。
> URLリンク(homepage3.nifty.com)
> 死ぬ瞬間の業は、その直後に、結生識を生み出します。それが新しい
> 物質(精子と卵子)と結合して、次の「生」を生み出すのです。つまり
> 結生識を主として、新しい名色(心と身体)nama-rupa が生起
> するのです。臨終直後には、このように過去の意業の果が現れるのです
> 。科学者たちは「エネルギーは不滅であり、形を変えながら保持し続
> ける」と言っています。それでは何が生存から生存へと移転
> するのでしょうか? 業ですか、業の果ですか、識ですか?