08/12/16 10:10:01 KWkEz3kV
>>376
シュミ山説は、インドの言語習慣をそのまま使っただけじゃないでしょうか?
原始仏教でヴィヤヴァハーラとして用いていたものが、
アビダルマでラクシャナになってしまったことが問題だと思います。
仰るように明治期にシュミ山説崩壊は大きかったと思います。
論争もありましたし。
シュミ山説はどうでもいいインドの文化的な部分だと思ってます。
>>383
要するに常識信仰を護りたいわけですね。気持ちは分かります。
常識を擁護することは、いままでの自分を擁護することですから。
ですが、輪廻は苦の事実の認定ですから、これがなければ仏教の意味はまったっくなくなるものです。
釈尊は確かに実在は一切認めなかった。この世が無我・空でありながら縁起しつづけ、
苦をもたらすように、死んでもそれは縁起しつづけ終わらない。
輪廻は、喜ばしいものではなく厭うべきものです。
一切皆苦ですから。
そして死んで終わるんだったら、一切皆苦なんだから自殺すれば済む話です。
でも、死んでも終わらない輪廻するから、そこから逃れるには、
教えにしたがって八正道など行ずるしかないと説かれたのです。
別にあなたが輪廻を信じないなら、それは一向にかまいません。
ただ、仏教を論ずるなら輪廻が不可分なのです。