08/12/11 23:24:50 z5LmcDMw
>>228
確かに習慣も無常ですから、その部分は時代に合わせて説くべき解釈すべきでしょう。
しかし、釈尊はこのように述べております。
「無明を縁として行がある」というのは諸如来が出現されても出現されなくても
これが法則(法性)で、諸物事(法)の決まった性質は定まっている。
それを如来自身がありありと理解されて現等覚されて説かれ、仮設なさり、
決定され、弁別なさり、解釈され、解明なさり、教えられ、
極めて正しく教を説かれたことである。いわく「無明を縁として行がある」である。
これが重要な『縁経』です。つまり、縁起するという法則、何を原因として何が生ずるか、
火は熱いと言った諸物の性質は決まっている。ということです。
それと文献研究、原典解読においてテクストの読みに現代的解釈を持ち込むのは研究者としていかがなものでしょう?