08/12/29 19:58:38 r8Me+RvZ
>>842
最初、思考が自分とは関係なくただそこに自動的に展開しているという不思議な感覚に気づいた。
自分で考えようとして考えているのではないのだ。思考が勝手にそこに展開している。
それから数日経って、アバターコースが開催されていたその人の家から帰路、JR北浦和駅に向かうとき、
歩いている自分に対して実に不可思議な違和感が芽生えてきた。おい、足が動いているぞ、この二本の足が…。
そして気づけば頭があり、手が二つある。見知らぬ生き物(?)が勝手に動いているのだ。
歩いているのは肉体であって自分ではないということを理解している。それは思考と同じくただそこに自動的に展開している。
すると道路の向こうから帰宅途中の見知らぬサラリーマンがこちらに歩いてくる、ところがその彼と私は「同じ」なのだ。
あちらが歩いてくる、こちらも歩いている、にも関わらずそれは、「同じ一人の人間」だった。
歩いているのは自分ではないし、サラリーマンも自分ではない、それは自動的に展開している、しかし、同時に一人の人間なのだ。
駅で京浜東北線に乗り込んでもその不思議な感覚は続いていた。そこにいる人たちすべてが一人の人間だった。
私自身の身体も「そこにいる人たち」 の中の一人でしかなかった。私はそれらではないし、同時にそれらすべてが私だった。
この感覚が一週間くらいは続いたと思う。宇宙にはたった一人の人間しかいなかった。 一人の人間が自作自演している。
しかも、同時にその彼=私はそれではないのだ。そこにあるすべてでありながら、同時にすべては“それ”ではなかった。
ヒンドゥー教でいうアートマンと仏陀がいうアナートマン(アートマンなど存在しない)は、だから同じことだったのだ。
キリストが「あなたがたはすでに天国にいるではないか」と言ったことと、仏陀が「一切皆苦」と言ったことは、
まったく同じことを言っていたのだ、ということがわかった。
しかしこんな体験などまるで大したことはない序の口のものだし、おそらく死んだときには誰もが味わうことになるだろう。
そして、これからの時代はたくさんの人たちが、生きているうちに同じような体験をし始めるのではないかと思う。
白光の体験(“それ”=サマーディの体験)はこれとは別の時期のもの。もっとずっと後のインドでの話。