08/12/02 01:20:57 8taj+VAg
はじめにあったのは「存在のすべて」それだけだった。ほかには何もなかった。「存在のすべて」は「すべてであって/無」でもあった。
「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていても体験的には知りえなかったからだ。
「存在のすべて」は自らを体験したいと激しく望んだ。すばらしいとは、どんな感じなのか知りたがった。だが、それは不可能であった。
なぜなら「すばらしい」という言葉そのものが相対的なものだったから。「すばらしくない」ということがどういうことかわからなければ、すばらしいとはどんなものかを知ることができなかったのだ。
そこで「存在のすべて」は自らを分割することにした。そして三つの要素がうまれることになる。ここにあるもの。あそこにあるもの。そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの、あらゆる物を包み込む無である。
さて、「ここ」にあるものと「あそこ」にあるものを創り出した神は自らを知ることが可能になった。自分自身を分割した神の聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることである。
創造者が創造者である自分を体験する方法はひとつしかない。それは創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(神の分身、神の子供すべてに)全体としてのわたしがもっているものと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」といわれる所以である。