イエスと仏陀の説く真理真実とは?at PSY
イエスと仏陀の説く真理真実とは? - 暇つぶし2ch2:神も仏も名無しさん
08/10/19 12:09:44 4digU60Z
前スレ

イエスとブッダの共通点
スレリンク(psy板)l50

3:神も仏も名無しさん
08/10/19 12:15:59 WeEg303l
【参考】
■仏教とキリスト教(カトリック教会の「イエス、ブッダ同値論」)
URLリンク(www.geocities.jp)
■仏教の「修行」キリスト教の「贖い」(久保有政氏の「イエス優位論」)
URLリンク(www2.biglobe.ne.jp)
■クリスチャンに贈る仏陀の言葉(仏教信者の「ブッダ優位論」)
URLリンク(kokageno.jakou.com)

※イエスと仏陀をテーマとしたサイトを適宜追加してください。

4:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/20 21:23:31 hzClTah4
不死の境地の体験、言語を語る霊(神の子)の存在を知れば、どちらを信じればよいかという比較は無意味。

                   《父(唯一の神)》
人間の思いでは知ることができず、決して死を味わうことのない境地で神を知る。地上のものに心引かれるこ
とはなく、地上の思いから遠ざかり離れ、物欲・享楽・快楽などもなく、一切の苦悩から解き放たれ、悩みな
く平安で安らぎに満ちている。「あなたがたは何でもできる」「神通力」イエスと釈尊のように、離欲を達成
した不死の境地に至れば、何でもできる不思議な霊力も事実となる。

     《平安や安らぎ(父)より地の思いを捨てきれず、悪い者に従い人間の境地を得る》
人間の欲望の無い何でもできる唯一の神より、地上のものに心引かれる欲念があったので、人間の境地を得た。
「栄華や権威を拡大するために、他を打ち滅ぼす」という「野望の妄執」妄執というひとつのものに一切のも
のが従属した。全世界は悪しき者の配下にあることを知っている。

人間という存在は、利益拡大のため、物を得ることの拡大のため、地の楽しみを得ようと貪る心のため、権威
得よう、自分を誇ろうとする心などを悪しき者に従い得た。他を打ち滅ぼしても得ようとする慈悲のない心に
従い、平安・安らぎ・不死の境地から離れた。

5:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/20 21:24:50 hzClTah4

                  《清浄なら善悪は無い》
世を厭い離れ、世を遠ざかり離れ、欲念も全く無く、善悪も無く、今のような人間の思いが無くなって、神と
不死とを知る。
人間は欲のあるまま造られ続け、地を食いつくし、いつかは地を滅ぼす存在。地のことのために、敵意や憎し
みを抱き争い、戦争などしてやがて大きな苦難を生み出し肉のまま滅びる。「肉は肉に従って、更に肉となっ
て造られ続ける」地のものを貪ると、やがて地のものが得られなくなった時に、盗みとか、自分たちの利害関
係を思い戦争をして人が苦しんでも、最後には平気な人間に造られるという。地のことのために、誰かが苦し
んでも、悪いと思わない人間に造られ、最後は肉だけとなり大苦難を生み出す者となり、肉だけとなり滅びる。

                 《神の子(人格のある霊)》
「地上のものに心引かれるな」「衣食があれば足れりとせよ」「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは父から出た
ものでなく世から出たものである」
人間の幸せを享受することは全て「左」だと。釈尊や修行僧のように、地のものに心引かれないように努め、
不死の世界で、平安と安らいで暮らせるようになれと命令する存在。人格神は人間の欲望を嫌い、世の中のこ
とから離れ、霊の世界に生まれるように命令する。人間は「地で生き続け」呪われ、人間の喜びのために、苦
しみを味わい続けているのだと。

                     《聖霊》
神がこの世を遠ざかり離れた世界を義としているように、そのように地上の人間の幸せから遠ざかることに努
め、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを捨て、衣食があれば足れりと思えるような人が全てでない。
「神にはからし種一粒ほどの信仰もない」世の中は神に見捨てられたのである。人間が求める御利益など全て
のことで、とんでもない誤りなのである。神には、人間の暮らしをしても、欲を離れ、自分は義人だと求めて
も、物欲や欲楽、享楽、快楽、その他諸々の人間の欲望から離れ、そのほうが幸せと自ら心から思わないと認
めない。霊の世界で安住しない。修行僧は何も持たないで、諸々の執着から離れ、むしろ楽しんだのである。


6:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/20 21:29:02 hzClTah4
「生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生ものを害するならば、その人は自分の幸せを
もとめても、死後には幸せが得られない」(真理のことば)
人格のある霊は、「地で生き続ける」なら「愛」「良識」と語る。人は人間の不幸を求めて地に生まれるので
はない。そこで地の者の救いとして教えがある。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ安穏であれ安楽であれ、上にも下にも中にも敵意なき怨みなき慈し
みのこころづかいをしっかりと保て。この世ではこのような慈しみのこころづかいが崇高。
他人の過失を見るなかれ、自らのしたこととしなかったこととだけを見よ。他人を見下すことは真理から遠く
離れる(仏教)
敵を愛し憎む者に親切にせよ。あなたがたは敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸してやれ。
あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ(聖書)

 神は世のことから遠ざかり離れることであって、「私はしました、しませんでした」という両方を訴えて
 も認めることは一切ないが、そのように父によって善くも悪くも造られる人々に、ゆるし、慈しみのここ
 ろづかいがある人が世の中全体となると、それぞれの人が尊重される。決して他人に害を加えることを望ん
 ではいけない。

 たとえば、富に仕えるばかりで、肉の主人に誠実に仕えないならば、誰がその人の幸せを支えるのか。
 地のことのために、敵意や憎しみを抱いて争い、或いは戦争まですると人間の行いにより誰かが死に、ま
 た平安の幸せは得られないとか。
 別に霊に生まれたいなら、世のことから離れ、欲の無いことに幸せを得るよう努めるとか。

神は「ああだろう、こうだろう」と論じ合い、人間の考えで見解が分かれるようなことはしてない。
「良識」もない「人を釣る(魚を殺す)」のも宗教の役割だそうです。

7:神も仏も名無しさん
08/10/21 06:29:52 tN5midKU
不幸の世の中しか作れぬ神。
そして救世主とし居る子イエス。


8:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/21 21:10:01 E71vrG32
《父なる神》
世の中を遠ざかり離れ、地上のものに心引かれず、父なる神のもとでは「あなたがたは何でもできる」を真
実であると知る。善悪も無く、人をそのままの思いで造られる。その人をそのようにして下さる。

《神の子(人格のある霊)》
地上のものに心引かれるな、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去れ、衣食があれば足れりとせよなど、人
が人の手で造られたものの幸せを捨てるよう努め、情欲や快楽を捨てるように努め、霊の世界に生まれられる
ようになれと命令する。人間世界の幸せは「左」であると。そうしないと「地で生き続ける」と。

《釈尊と修行僧》
二度と生まれることはないを目指し、人里離れた所で修行に励み、離欲を達成しようとする。生きながら不死
に到達した人に、神通力があっても疑いがない。

《イエス》
人の手で造られたものを欲さず、神のわざがあっても疑いがない。私と父とはひとつであると語っても、悪し
き者を乗り越え、不死に達した人は、何でもできる父なる神の霊とひとつなのである。



9:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/21 21:11:24 E71vrG32
《悪魔》
人の手で造られたものを厭い、人間の幸福を厭い、地上のものに心引かれない存在とともにある父なる神を受
け入れなかった人を、地上の栄華や権威を恣にし、地上の栄華や権威を得るために他を打ち滅ぼしてもかまわ
ない「野望の妄執」を与え、冷酷・無慈悲・非道もある人間の境地を得させた。
 
 物を貪ること、人の手で造られたものを喜び楽しむこと、事業拡大などによる自分たちの繁栄の拡大など
 は清浄な存在・善なる存在・父なる神に従っているのではなく、正反対の悪魔に従っている。

悪魔は地上の人の手で造られたものの幸せを愛する限り、父なる神のもとへは行かせず、地上に生まれる者と
してしまう。そして地のものを貪らせ、地を食いつくし、肉を望む者を更に肉の者に造らせ、いつかは戦争や
略奪、敵意や憎しみに満ちた大苦難の地にする。

《神に従えず、悪魔にも従わない中間》人であるための神の「良識」
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々―(仏典)
肉の主人に誠実に仕えること。誰もそなたのために働いてくれる人がいないと心得て、富を得ようと心に抱か
ず、人々の幸福や安穏・安楽に役立ってから得るものを得ること。

10:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/21 21:18:35 E71vrG32
この世は苦しいこともあると心得て、苦しいことがあっても、自分で耐え忍ぶこと。
―世の中のどこにも害いを見ない―罪に定めるな、ゆるしてやれ―善悪もない清浄な父なる神に反して、人間
の善悪感により、むやみに他人を悪に定めないこと。他人に対しても我がものと思わず、ある程度はその人は
その人だとして尊重してあげること。人に対して敵意や憎しみ・怒りを持たないように努めること。

多くの財産があっても、それらは死んだら自分の物として持っては行けず、貧窮なる人、飲食を得るのに困難
な人などに分け与えることを善として心得ること。目の前の人が飢え、或いは苦しんでいたら助けてあげよう
とすること。

美味を貪ったり、物を貪ったり、人の手で作られたものの楽しみを貪ったり、それらを善いことのように思わ
ないこと。欲望に対して自制心があること。

 神(人格ある霊)は人間の欲望があり人として地で生き続ける限り、頼るなと。
 人が欲望のまま生きるのではなく、それらを自制し、他人に対して配慮のある人が増えれば、この世は
 救われる。善いことを思えば善いものに造られ、財を貪ることやその他自分の欲望を制し、一切の生き
 とし生けるものの幸福や安穏・安楽な暮らしを思う人々が増えれば、この世もそのようになる。
 「慈しみのこころづかい」「愛」がある人が増えれば、この世もそのようになる。
 神はこの世では良識的に考えられることしか与えてはいない。「良識」「愛」と語る。

 神に救われる人は、人間の幸せを厭い離れようと努め、信仰に熱心になる人だけだという。
 世のこと、世の欲楽から離れ、信仰に生きる人が信仰深い人だという。

11:神も仏も名無しさん
08/10/22 14:06:41 UWVrkIwW
『オレの言いなりになれ』By神

12:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/22 19:50:37 AeHxhgMi
《神(人格ある霊)》
世のことを厭い離れ、地上のものに心引かれず、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去るように努め、衣食
があれば足れりと思うような心を持ち、物を得ようと考えたり、財を欲したり、享楽・快楽・情欲から離れよ。
そして、霊の世界に生まれられるようになれ。この世は「左」であり、呪われている。

《人(自分)》
〈神は愛で、人間の幸せを望まれている。〉そのように思っていたが、全く正反対であった。
私はそんなことはできませんと断り続けた。「罪人の私をおゆるし下さい」と。そのまま「地で生き続ける」
「神にはからし種一粒ほどの信仰もない」神に信仰があると言える人は、人間の幸せを思う人にとって、物凄
く難しいものであると思い知らされた。
できませんと断り続けたら「私との繋がりを切る」と。そして「人でありなさい」と。霊の世界に生まれるこ
とができない人のままであると。

《人への知識》
肉欲のことを願い求めても、叶えて下さる信仰対象物はない。この世で苦しいことがあっても、自分のことと
して耐え忍ぶこと。
財を貪ったり、この世の楽しみを貪ったりすることは、神聖なものとは正反対の、悪い者に従っていることで、
やがて地のものを食い尽くす。

13:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/22 19:52:00 AeHxhgMi
得ようとする心のまま造られ、やがて地のこと、利害関係や自分たちが正しいと考えたことに反する者に敵意
や憎しみを抱き、戦争をして人が死んでも平気な人となるだろう。食物や必要な物が得られず、略奪したり、
その他諸々の苦難な時が続くようになるだろう。

そんな人々の集団に生まれないように、普段から「与える」ことを心掛けたり、「金!金!」と思わずに、相
手に誠実に仕えて得るものを得るよう心掛けたり、戦争はしないほうがよいと思っていたり、自分が他人に敵
意や憎しみや怒りを抱く心を嫌がっていたり、楽しいことを貪ることがよいことと決して思わず、慎むことは
善い、楽しいことがなくても、何もしてない時もむしろよいと心掛けたり、人は何ものかに「しました、しま
せんでした」と思わずに、人は自分で苦難を回避する道を歩むしかないとのこと。

神は欲があって、この世を喜んでいる人を救わないとのこと。神を信じて欲を制しないことを正しいように思
っている人は、信じない人より悪いとのこと。信じなければそのまま人の運命のまま。苦であれ楽であれ、そ
の人が納得したまま。信仰があり自分を偉いように思う人より、「劣っている」自分を低くしている人のほう
が、神にはまだ好まれる。


14:神も仏も名無しさん
08/10/27 00:59:20 kb5UX5x9
>>3
これらは確かに、
参考ウェブには違いないけれど、
ちょっと的外れに感じる部分が目立つ印象がありました。
(これらのウェブサイトの内容批判が目的ではないけれど・・)


まず第一に、
仏教/仏陀について語る場合に見られる傾向としては、
いずれも「大乗仏教」を中心に捕らえたり、または原始仏教と混同しながら述べているケースが多い。
大体、著者自身の立場が大乗仏教の信奉者と見られることから、
歴史上のゴータマからは、大きく逸脱して論じられている。

一応ここで、わたしの摂るスタンスを明確にしておくと、
原始仏典に見るゴータマの教え以外は全て、
基本的に仏教とはいえない、というものです。
極論的にハッキリいって、それらは「仏教」じゃない!
(尚、仏教以外の宗教は全てダメだという考え方ではないので誤解しないで下さい。)

阿弥陀仏や真言密教などを論材にするのは結構ですが、
ここからゴータマの姿や教えを見ようというのは実にナンセンスもいいところ。
阿弥陀仏や真言密教を仏教の一つとして取り上げ、
そこから仏教とキリスト教(ましてやイエスなど)の比較をするというのはどうにも府に落ちない。

ゴータマはそんなことは教えていない。
ゴータマの教え以外は仏教では断じてない。
つまり、仏教ではないものを仏教として語ることなどは全く論外なのです。
仏教ではないものを仏教扱いする伝統など、この日本国はいい加減やめろ!といいたい。

それから、
歴史上に実在した個性として、わたしは敢えてゴータマと呼称することが多いのですが、
それはつまり、「仏陀」や「釈尊」などという呼称は全く個人名ではないからなのです。

15:神も仏も名無しさん
08/10/27 00:59:54 kb5UX5x9
似たようなことはキリスト教側においても見られます。
まず、イエスが個人名であって、キリストという呼称は“ヤーウェーに油を注がれた者”
を意味するギリシア語のクリストスからきており、本来は唯一者を示すものではない。
この点はゴータマと仏陀の呼称の関係と酷似します。
で、イエスという一個性が如何なる人物でどんな教えだったのかを示す資料には限りがあり、
それがなかなか特定は困難な状況にあります。
これについては、原始仏典と大乗経典という明確な区分けがある仏教側のほうが作業的に圧倒的に楽です。
ただイエスの場合も同様、後のキリスト教の内容から実在のイエスを誤解し、
偏見で捕らえてしまってるのではないか?ということ。

まず、こういった視点から整理しないことには、
正しい物事は見えてこないものと思います。

自然光ではない蛍光灯の明かりの下で、
しかも歪んだレンズの眼鏡を掛けながら見ていても
本当の色彩は認識できないのではないか?


わたしは前スレの872~から投稿を続けている者です。
原始経典以外はゴータマの教説としては信頼できない(大乗非仏説)。
無我の誤解から輪廻転生を否定し、唯物主義や断見思想に陥っている仏教者らを痛烈に批判します。
(「無我」とはいわゆるアートマン存在の単純否定などではない。
本来は「非我」ともいうべきものであって、「アートマンではないものを自己と同一認してはならない」という意です)
また、愚かなキリスト教からくる偏見でイエス個人を軽視してしまうことはどうだろうか?
というスタンスをとっています。


また何か、思いついたら投稿します・・。


16:神も仏も名無しさん
08/10/27 16:43:41 LQZsKj6L
NHKの世界紀行でのインドのガンジス川を遡っていくの見ましたけど、
源流付近の人がいないところでの修行者が、ツララ張っているようなところで
ふんどし、だけで、弟子と2人で世界の平和を祈ってるんだと言ってましたけど立派に感じました。
メキシコ人もお酒を飲む前に、大地にこぼして神に捧げてから頂くのだと言ってましたけど
我々日本人の多くは、大地の恵みにまったく感謝をしませんから見習うべきなのかも知れないです。

17:神も仏も名無しさん
08/10/27 18:22:38 kb5UX5x9
>>16
うん。そうだよねぇ!
大地の恵みに対する感謝。海の恵みに対する感謝!!
八百万の神々に対するじゃないが・・
そんな感じの基本的な自然と湧いてくる筈の人間の感情が乾いてきてるのかもしれないな。

大地と海の神に恵みを感謝ではなく、
企業が利益を得るために販売してるものを自分で稼いできた金銭で食を買ってるだけ。
という感覚になりつつあるのかもしれない・・。

でもまだ
食事前には軽く手を合わせて、
一礼してから食事してる人も多く見かける。
若者でも結構いるね^^

18:神も仏も名無しさん
08/10/27 22:12:53 kb5UX5x9
>>1
>やはり真理真実〈実相〉が大事なのであって、それを説くものが誰であるかは、
>本質的問題ではないと思う。
>
これにはわたしも、もちろん大きく同意します。
このことがゴータマの御心であり、イエスも恐らく同じであった筈です。

ところが現実問題としては、
ゴータマが教えたこととは全く異なる事柄を、
後の時代の者たち(これも後世の弟子に当たるのだが・・)が勝手な内容を語り、
尚且つ、それらについてゴータマがそのように教えた、などという謀略が企てられたのです。
そして現在でも、大乗と称する勝手な創作経典が信奉され続け、
ゴータマの教えは小乗だの出家仏教だのといったレッテルを貼っては民衆から遠のけてきました。

キリスト教においては、
 イエスが、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。」(マタイ伝7章21節)
といったとされるのにも拘らず、
 現実には、
「あなたはイエスを信じますか?
イエスを信じるならあなたは救われ、信じないならばあなたは救われない」と説かれてきました。


19:神も仏も名無しさん
08/10/28 02:10:24 TU4lbFyV
>>17
水道電気その他に税金は払っていますけど
生活を可能にする太陽や空気や大地には、何の報酬も払っていませんから
そのように考えたら、神に祝福を祈るのはあたりまえのことなのですけどね。
その基本すら、日常から消えているのは哀しいことなのかも知れませんよね。

20:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/28 18:33:57 GvCIHERb
釈尊や仏陀、ゴータマという名称にこだわりはないが、
妄執に打ち克ち、不死の境地に至って、「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、
つくるはたらきの静まった安楽である。そこでは、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用
も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている~聖者はその
境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦し
みから全く解脱する~これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、
没することなき解脱の境地である。」
 
 この上なき最上の喜びの境地(ニルヴァーナ)とあるように、この境地を知ったら、これは絶対の
 ものだという境地。そして釈尊に神通力があっても真実である。
 イエスもまた「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中
 にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら。そのとおりに成るで
 あろう。」と教えているように、解脱し、不死の境地を唯一の神としている。

「安らぎは虚妄ならざる真理」安らぎに満足するよう努めていなかったので、私は悪しき者(妄執)に従
ってしまい、人間の境地の戻った。死なない境地があるということを知ったが、「愛や平和・人間の幸福」
くらいに思い、物欲や享楽に生きていた。

21:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/28 18:36:01 GvCIHERb
「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って~さとりに至る道―戒め
と、精神統一と、智慧と―を修めて、わたしは最高の清浄に達した」
「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはこれではない。また
これは、わたしに属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執著を離れる」

《人格神(言葉を語る霊)も存在する》
欲楽を貪っていた時に、神は「地上のものに心引かれるなと」人の手で造られたものへの喜びや物を貪り
楽しむことは、神が喜ぶことではないと。出家して森の中で暮らせとは言われないが、五欲の対象を貪る
ことは、神が喜ぶこととは正反対のことであると。金のことを思い働くことも、考えが違う人と対立し敵
意を抱き、憎むことなども。人間の幸せを捨てて、霊の世界に生まれられるようになること。人の楽しみ
として何も言われないのは、自然などを楽しむことぐらいであった。まるで釈尊のような神の霊である。

 神は人間の幸せを叶えて下さる存在ではないのだ。信じても「地上のものに心引かれるな」言うこと
 を聞かないと「左だ」「地で呪われて生き続けよ」と人間的な救いはない。
 人間の楽しみ、幸せを捨てて、霊の世界に生まれることができたら、救われると説かれるのだ。

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして
も、その言葉どおりになるであろう。」神への信仰は想像以上に厳しいと、霊の言葉を聞いて知った。


22:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/28 18:37:21 GvCIHERb
全ての人が、神の言うことを聞けるとは限らないので、
《人としての救い》
「世間は貪りと怠惰ゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である」(ブッ
ダのことば)
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この
世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(イエス)

 地上のものに心引かれず、世を遠ざかり離れ、至上の境地に至り、なやみなき苦悩なき幸せな世界を
 知った人は、悪魔(地上のものの喜びを貪らせ、【真理を見る人には何ものも存在しない】から、敵意
 や憎しみ、怨み、冷酷、無慈悲、残忍など)で人々が苦悩を受けることは大きな恐怖である。

人として他人を我がものと執着せず、他人の過失やあやまちをゆるしたり、慈しみのこころづかいをこの
世では崇高として邪まな見解を捨て、他人を悩まそうと怒りの想いを抱いて互いに苦痛を与えることを望
まず、他人を欺かず、他人を軽んじない。罵倒しない。財を貪ろうとせず、誠実をつくして名声を得、何
ものかを与えて交友を結ぶ。物惜しみせず与える。快楽を享受することは清いとせず、自制する。
名称と形態は我がものとして永続しないから、それらのこだわりからくる悩みを捨て去る。劣っている、
勝っている、中くらいであるという迷いを捨て去る。人間同士が互いに悩みをつくらないようなこの世の
救いの教えを語る。

しかし、神の霊は「諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じ
ては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である」とそのような思考は変えられず、「目の欲、
肉の欲、持ち物の誇り」などを捨て去ろうと努め、「衣食があれば足れり」とするような心得で、物欲を
制し、霊の世界に生まれて救われると妥協されない。

23:神も仏も名無しさん
08/10/28 18:46:59 TU4lbFyV
福音の基となった資料があるらしいけど、まさしく覚者の説教だと思ったよ。
キリスト教はもしかして大乗なんて比較にならない歪められかたかも知れないよ。

24:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/28 21:30:07 GvCIHERb
世の中から遠ざかり離れ、地上のものに心引かれず、人の手で造られた喜びもない唯一の父なる神の世
界。このような今の人間の状態では存在せず、五感も思考も及ばぬ、平安と安らぎに満ちた世界。
「あなたがたは何でもできる」という言葉を真実と知る。肉を離れ、霊の世界(不死)の世界に安住で
きれば、その父と一つになれるのである。解脱した人が神通力があっても疑いがない。

《地上のものに心引かれない霊より、地上のものに心引かれる心が勝った》
栄華や権威を貪り求める妄執に従い、人間の境地に戻る。「自分の栄華や権威を貪り拡大するために他
を打ち滅ぼしてしまえ」という「野望の妄執」。

 地上のものに心引かれない安楽な世界より、地上のものに心引かれた者を「左の神」に従えさせ、
 地を呪った。人の思考の及ばぬ世界には、善悪はない。

人は無意識に、他人との競争に勝ち、喜び得ている。企業も組織も、その栄華と権威の拡大のため、あ
くせくして努力している。財力の拡大を思い、富を得ようとあくせくして、得たもので物欲や享楽を満
たし、楽しんでいる。そして地で様々な環境、状態になって、また人となって生まれる。



25:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/10/28 21:32:39 GvCIHERb
《神(霊)とは別の 人としての救い》
栄華や権威を貪り拡大するために他を打ち滅ぼす、不死の境地を失った原因を妄執・悪しき者の配下と
説く。「全世界は悪しき者の配下にあることを知っている」「妄執という一つのものに一切のものが従
属した」

 <イエス>
 「ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、
 また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。」
 「神と富とに兼ね仕えることはできない。」
 「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
 <釈尊>
 「未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている」
 「善を喜び~『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『昨夜はわたしは眠りづ
 らかった』『今夜わたしはどこで寝ようか』―家を捨て道を学ぶ人は、これらの四つの憂いに導く
 思慮を抑制せよ」

 栄華と権威など人の欲求を満たすためにあくせくさせる存在に対し、このような言葉に従おうとす
 ることも、呪いの緩和となるだろう。人格神(言葉を語る霊)は、「地上のものに心引かれるな」
 などと、人間の欲楽を全く認めない存在であるから、天にあるもの地にあるものの(中道的な)
 人の世の救いの言葉があってもよい。

信仰により頼れる救いはない。信仰を戒めとして、諸々の欲望に関する貪りから離れようと志す救い
はある。


26:神も仏も名無しさん
08/10/29 18:47:13 IV/7YofF
やっと アク禁から開放されました。迷惑行為はしてないのですが、こんなことになって不愉快でした。

前スレへのレスもしたかったのですが、もう面倒なので再スタートです。

27:神も仏も名無しさん
08/10/30 00:09:46 jPOLZ9D7
賢者はこの世を真とせず、涅槃を真とする。

28:神も仏も名無しさん
08/10/30 01:37:21 kAOdL5dK
>>23
>
ゴータマの場合は80歳まで生存しました。
29歳で出家して35歳で覚醒。
以降~最後に道端で倒れるまで伝道/教示の旅を続けられた。
よって膨大な説法の記録が残り、それらが経として纏められた。
おそらく実際の説法は単純明快な話が多かった筈でしたが、
膨大な説法の中から、あるものとあるものは一つにされ、
また或いは、あるものはあるものに関係付けられたりしながら整理されていき、
後に、「三法印」「四聖諦」「四念住」「四正断」「四神足」「五根」「五力」「七覚支」「八正道」
といった具合に呼ばれていき、体系化されていった。

対して、
イエスの場合はというと・・
実際問題が、30歳にてパプテスマ(洗礼)を受けて以降~
十字架の磔刑までの僅かに3年間だけしかキリストとしての説法の記録がないのだから、
教えの体系化とか・・とてもそういう状況にはないということ。

更には、誕生時から12歳までの記録が空白であるし、
また、30歳で登場するまでの全てが空白期間だった、といっても良いのがイエスの生涯の実体。

カトリックなど伝統の教会は認めないだろうが・・
キリスト教によって着色されていない当時のタイムカプセルともいえる
死海文書といった考古学上の発見、そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。


29:神も仏も名無しさん
08/10/30 18:10:04 hZwbAr8P
>>28
>死海文書といった考古学上の発見、そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。

どんな情報があるか開示してください。

30:神も仏も名無しさん
08/10/30 20:34:45 11shjuLf
>>28
死海文書にヨシュアについての記録はないと聞いていますが、どんな
発見ですか。このスレに連投している人はバカですか。根拠のない
ずいぶん軽薄な書き込みをしていますが、頭は大丈夫ですか。

31:神も仏も名無しさん
08/10/30 22:14:40 jPOLZ9D7
隣人に対するくだりとかの意味でしょう。
隣人を愛し、敵を憎めは、死海文書にのっているから。

32:神も仏も名無しさん
08/10/30 23:34:26 hZwbAr8P
日蓮ほどじゃないでしょうw。

33:神も仏も名無しさん
08/10/30 23:49:11 Ehp24WfB
773 :神も仏も名無しさん :2008/10/29(水) 14:23:45 ID:QkUF2atx
もし神が存在し自分が制約する現実世界で全能だと称していても
その全能とは蟻に対して好きにできる人間
のようなもんなんじゃないかなとしか俺には捉えきれない…。
そういえば最近こんなことがあったね。

「神」を相手取った州議員の訴えを却下、ネブラスカ州
URLリンク(www.cnn.co.jp)

イエスは疑念。ゴータマは確実性の高い根拠。



34:神も仏も名無しさん
08/10/31 00:23:45 1dFIOmAu
>>29-30
>
ん、ちょっと早まったかな?
確かにわたしは、頭は良くないのでね(笑)
では、「そこから見るイエスについての情報は貴重価値が高いでしょう。」は、
「イエスの時代について知るためのタイムカプセル的資料」という感じまでに抑えときます。

どうにも、
死海文書は紀元前のものでイエスはそこには登場していない、
としたい輩が大勢いるのだろうと見られます・・。
しかし、もしもこれらがいずれ、紀元後~イエス在世以降の資料であるということになったときに、
どういう扱いになるのでしょうかね??
まっ、わたしの場合は先取りが好きなものでして-どうも失礼!!w


35:神も仏も名無しさん
08/10/31 15:25:29 pvJh5mdT
>>14
もしかして久保先生の仏教批判が気に入らないんですか?
だったらその箇所を引用して、もっと具体的に述べて下さい。

36:神も仏も名無しさん
08/10/31 18:25:01 3zcJxOjf
だいたい、創造主だの、全知全能の神だの、モラルのない神を信じさせて、
愛だの人に言うのがおかしい。
キリスト教が日本で布教されても、平凡に生きている人間は神に問題なし
とするだろうが、いざ災害などに苦しむと全知全能の神はいないか、いた
ら非道だと思うだけ。

給与の十分の一を献金させて、牧師は平気で妻子を養う。
モラルのない神を信じると、他人が働いた金で生活しても、自分は神のよ
うに悪いとも思わない人間をつくりだす。

37:神も仏も名無しさん
08/10/31 18:51:56 1dFIOmAu
>>35
>
はい、分りました。
では、わたしなりの批評意見を述べてみたいと思います。
たぶんやや長くなりそうですが、どうかご了承下さい。

久保先生ですかぁ
---聖書学者で牧師さんなのですねぇ!
いや本当に、大変ご立派なお方のようです。

 この、『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』を拝読してみましたが、これはなかなかの名解説であり、
文章も上手でとても明快であると思いました。
 ま~たしかに、一般論としては間違いは書かれてないですし、そしてとてもよく纏まっています。
 仏教には自力と他力の二つの方法論があるということで、自力仏教の例としての「密教」、他力仏教
の例として「念仏」をそれぞれ上げてキリスト教でいう罪からの「贖い」による救いの場合と比較し、その
上でキリスト教の優位性を論証しようとしています。

 まず一つ目は、自力仏教の例としての「密教」、他力仏教の例としての「念仏」とはいうけれども、これ
らはゴータマが教えたものではなく、遙か後世の人間たち(弟子の流れを汲んではいる)が自分勝手に
展開したものに過ぎません。確かに大乗仏教(一般にはこれが信仰仏教)との比較にはなっていますが、
本当の意味での仏教との比較とは成り得ません。
 また、氏の説くキリスト教の優位性なるものについては、わたし個人から見れば、ハッキリいってイエ
スの教えではありません。わたしの摂る立場はちょつとキツイ表現ですが、キリスト教はイエスの教えで
はない(含んではいるが・・)、というものです。


次からは、
個々の部分に対して、もっと具体的に話を展開します。


38:神も仏も名無しさん
08/10/31 20:23:35 3zcJxOjf
だいたい牧師が先生と尊敬されるってかWWW
創造主、全知全能の神なんか、>>33のようにくだらない迷いを人に与えるだけ。
だいたい全知全能なら、布教とか教えなんかいらない。
宗教の知者、知識ありと称される者ほど愚鈍。
全知全能の神なら、信じて下さいと布教したり、布教して信じて救われるなど
人に負担をかけない存在だと信じた連中は考えられるようになるのが普通。

迷い苦しみのある人が宗教的なものに頼るから、一切皆苦を説き、離欲による
心の安定統一を説いたのが釈迦。静寂により、心の安らいを求めるしか、苦悩
を取り除く方法はない。現実しかないんだよ。
世間では人の行い(業)。他人に苦痛を与えない行い。他人の苦痛を取り除く
行いを慈しみのこころづかいとして崇高とする。現実しかない。

法を島とし他を頼りとせず、自らを頼りとして生きる人々。何ものも信じず、
信じた対象からの救いはないという現実に生きることしかない。
信仰による救いは愚鈍な人間のやること。銀行に借金しまくって破産しまし
た、大変なことになったと騒ぐ連中のすること。
自分の心を制することができて、行いを制することができて、老いも死もこだ
わらないまともな人のやることではない。


39:神も仏も名無しさん
08/11/01 02:59:29 1pHBPNmv
それでは、
 更に『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』
URLリンク(www2.biglobe.ne.jp)
についての見解を述べます。


 『仏教では、「仏になる」方法として、おもに「自力仏教」と「他力仏教」の二種があります。自力
仏教の代表は「禅」、他力仏教の代表は「念仏」と思えばよいでしょう。』(仏教の「修行」キリスト教
の「贖い」)
>
 大乗仏教(一般にいうところの仏教)では確かにそうです。しかし、ゴータマ本来の教えには自力
と他力の二つというものではなくて、>>38で「法を島とし他を頼りとせず、自らを頼りとして生きる人
々」とあるように、「(法)ダルマ=真理=ゴータマの教え」を頼りに自己を拠り所として修行せよ、
というものでした(自灯明法灯明)。
 では、何を修行するのか?ゴータマの教えであるところの三十七道品であり、これを修行しなけ
れば成仏(解脱)はできない。わたしにいくら成仏を願ったところで、決して成仏することはできない、
とハッキリいいきったのです。
 ましてや、大乗には悪いが・・仏は願いごとをする対象でも、苦しみを救ってくれる(願いを叶えて
くれる)存在でもありません。有難い阿弥陀如来なる仏などはどこにもいません。阿弥陀信仰ほど
ゴータマから程遠い宗派はなく、紀元後200年頃にゾロアスター教(開祖/紀元前630年生)のアフラ
・マズダ神から取り入れたのが、おそらくは起源のようです。尚、禅は確かに大乗諸派の中ではゴ
ータマの教えにかなり似た形態を持つものだとはいえます。

40:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:00:46 1pHBPNmv
 『仏典には、人が「仏になろう」と決心してから成仏するまでの期間は、じつに、「三阿僧祇百大
劫」(さんあそうぎひゃくだいこう)だと記されています。「三阿僧祇」とは、仏教学者によると、3×
10の59乗という数字だそうです。「百大劫」は八〇〇〇劫と同じで、一劫=四三億二〇〇〇万年
ですから、これはなんと約一兆年の10の61乗倍を意味します。またはもっと控えめに、「三劫」
(一二九億六〇〇〇万年)だという仏典もあります。数字の上ではずいぶん違いますが、長大な
期間という点では同様です。
 いずれにしても大変な期間です。仏典にはそんなに長い間、一心に修行を積まなければ決して
仏になれない、と記されているのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 そういう数字そのものには、殆ど意味はありません。途方もない大きさや長さ時間といったもの
を示す際の仏教的比喩であり、経典特有の文学形式にしか過ぎません。
 しかし、ゴータマはそんな無意味な記述に過ぎない大乗のものとは異なり、もっと明確で具体的
な指標を示しました。それが四向四果(四沙門果)と呼ばれる修行の成果にみる解脱の段階につ
いての解説です。
 以下に原始経典の一つから掲載します。これを読めば、ゴータマが如何に大勢の在家信者を
抱えて育成、指導されていたかが瞭然とします。出家者だけにしか役立たないかのような誤解を
生ませる「出家仏教」との大乗からの批判は的を得ていません。またこれらは、主に在家信徒の
ケースを上げていますが、当然、出家僧の場合であれば解脱の進歩は更に格段と早いでしょう。
 修行せずは仏にはなれません。お願いごとで成仏できる、そんなオメデタイできごとは無いの
です。そういった話は全てマルチな嘘(だまし)に過ぎません。この世界にインスタントはない。

41:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:02:02 1pHBPNmv
  『アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れ
の無い【心の解脱】【智慧による解脱】をみずから知り、体得し、具現していた。したがって、この
比丘は今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
 アーナンダよ。尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再
びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷い(貪り
・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、【一度だけ戻ってくる者(=一来)】
となった。この信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に
入るであろう。
 アーナンダよ。在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、【聖者の流れに踏み
入った人(=預流)】となった。この女信者は、もはや悪しき世界に堕ちることはなく、必ず正しいさ
とりを得ることが確定している。

42:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:18:49 1pHBPNmv
 アーナンダよ。在俗信者のカクダは、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、
おのずから善き世界に化生した。この在俗信者はその天界から直接さとりの世界に入り、再びこ
の世に戻ることはない。同じように、アーナンダよ。カーリンガ、ニカタ、カティッサバ、トゥッタ、サン
トゥッタ、バッダ、スバッダなどの在俗信者も、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくした
ので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはその天界から直接さとりの世界
に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつけ
る五つの束縛を滅ぼしつくしたので、おのずから善き世界に化生した。これらの在俗信者たちはそ
の天界から直接さとりの世界に入り、再びこの世に戻ることはない。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、欲情と怒りと迷い(貪り・怒り・愚かさ)という三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、
【一度だけ戻ってくる者】となった。これらの信者はもう一度だけこの世に生を受け、苦を残りなく滅
ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
 アーナンダよ。このナーディカ村で死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつ
くしたから、【聖者の流れに踏み入った人(=預流)】となった。これらの信者たちは、もはや悪しき
世界に堕ちることはなく、必ず正しいさとりを得ることが確定している。』 (大パリニッバーナ経/ナー
ディカ村にて)

43:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:39:45 1pHBPNmv
四向四果(四沙門果)
 ・須陀桓(預流)(シュダオン・ヨル)
   =三結(身見・戒取・疑)を断ずる。天上界と人間界を
    七回往復する
 ・斯陀含(一来)(シダゴン・イチライ)
   =三結(身見・戒取・疑)を断じて、貪欲・瞋恚薄らぐ。
    天上界と人間界を一回往復する
 ・阿那含(不還)(アナゴン・フゲン)
   =五下分結(身見・戒取、疑、貪欲、瞋恚)を断ずる。
    天上界に生まれてこの世には還らない
 ・阿羅漢(仏陀)(アラカン・ブッダ)
   =以後、『有』を受けないと自覚できる意識境。無餘涅槃の人

このようにしてゴータマは、
 どのような境地になれば、あと何回の転生が必要であるかかを明確に解説されたのです。


44:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:41:08 1pHBPNmv
 『けれども、「シャカは二九歳の時、王宮を出て求道生活に入り、六年後には悟りを開いて、仏に
なったではないか。いったいいつ、彼がそんなに長い修行を積んだというのか」という疑問を持つ人
もいるでしょう。しかし、仏教は輪廻説に立っている、ということを思い起こしてください。
 シャカは何度も何度も過去において生まれ変わりながら、「前世」(前生)で長いあいだ一心に修行
を積んできたと、仏教では考えているのです。そしてついに悟りを開いて、仏になったのだと。
 ですからもし仏教の考え方で行けば、あなたが先ほど述べた長大な期間の修行を、すでに「前世」
で終えているとすれば、あなたは現世を最後に仏になれるでしょう・・もっとも「前世」というようなもの
が、本当にあったとしての話ですが。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 それは正解です。
 ゴータマも6年間だけの出家修行だけで仏陀になったわけではありません。この人生の歩みその
ものも云わば大きな修行そのものなのであって、今生は前世からの継続であり、そして今生の人生
のあり方が来世にまた引き継がれていくのです。そしていつか学びの必要がなくなった段階に達す
れば、ピタッと転生は止むことになる。
 人間、死ねばそれで済む話はなく、自分の行為の結果は次の生において自分に返ってくることに
なります。善行は善果を受け、悪行は悪果の報いがあるのは当然のこと。あの世でどうこうではな
く・・人生経験について学ぶ必要があって生を受けているのですから、必要な学びが終了して卒業で
きるまでは繰り返し転生します。

 前スレで詳しく投稿したように、イエスの時代も生まれ変わりの考えはごく当たり前として民衆に浸
透しており、イエスも転生というものについては認めていた。そしてパプテスマのヨハネがエリアの転
生者であると名言しました。
 《[我汝らに告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。
かくの如く、人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言
い給ひしなるを悟れリ。》(マタイ17章12~13節)

45:神も仏も名無しさん
08/11/01 03:49:34 1pHBPNmv
 転生の教えはキリスト経の教義からは削除されたのです。
 イエスを絶対的な唯一の神の子とするには、あまりに邪魔な思想だったからです。イエスとて生ま
れ替りを繰り返してきた人間の一人に過ぎません。ただ、内なる神性をほぼ完全に具現した稀なる
人間であり、だから聖なる者でした。教会はこのような当たり前の見解でさえ、それは神に対する冒
涜として排除し、全ては力ずくで弾圧してきました。

 原因と結果の法則-転生については、また後で改めてやります。



 『密教では、即身成仏を説くために、有神論的な教理を持つようになりました。言い換えれば、有
神論にならなければ、"この身このままで救われる"という教えは、生まれてこないのです。---略---
 宗教的な感情の高まりによって、自分がそのような体験をしたと思い込む時があっても、ふと目覚
めてみれば、再び罪深い人間である自分の現実に舞い戻ってしまうのです。
 仏教の神秘主義である「密教」も、同様な理由で衰退していきました。"大日如来と合一する"という
理想を掲げながらも、実際にそのような体験をすることは、多くの人々にとってきわめて困難だった
からです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 密教、そんなものはゴータマの教えではありません。
 大乗徒の主張は誰でも簡単な修行で成仏できるというものでしたが、そんな程度で成仏できる筈
がないとして大衆からも飽きられ始めた時期と、ヒンドゥー教の勢力の拡大によって教団が圧迫さ
れていた事情があり、インド仏教最後の切り札として編み出されたものがこの密教でした。彼らの手
法はより具体的な修行体系を構築することと、そこにヒンドゥー教の要素を取り込むことでインド大
衆の人気を図ったことでした。
 しかし結果的には、逆に仏教としての独自性を失って、拡大するヒンドゥー教の大きな流れに飲み
込まれていきました。教団がこうして衰退を始めた時期において、更に決定的な打撃を与えたのは、
イスラム教徒の侵入によりナーランダーなどの僧院が破壊されて彼らの拠点を失ったからです。こ
うしてインド仏教は壊滅したのです。 


つづく

46:神も仏も名無しさん
08/11/01 04:22:35 aNhVWNFw
伝言ゲームも10人介すれば原型をとどめてない

47:神も仏も名無しさん
08/11/01 09:03:56 xnQqHVmm
>>45
continue

48:神も仏も名無しさん
08/11/01 10:26:12 qal3FhP+
>>38
汝を迫害する者のために祈りなさいとか聞いてた民衆はドン引きで去っていったらしいからね。
イエスが悪いわけではなくて、周りに教えの本質を理解できる者がいなかっただけで、キリスト教の迷いの根本はそこにある。

49:神も仏も名無しさん
08/11/01 11:28:40 xnQqHVmm
>>48
>教えの本質

教えの本質は仏教であるところ、これを教える教えが、明らかではないのだ。
「唯一」の神、と言うが、この真実の意味を理解する人は少ないのだ。
相対的に存在するものを、唯一の神とし、他の神を排撃することになる。
他の神を排撃すると言うことは、他の神の存在を認めていると言うことだ。
これでは、唯一の神ではない。唯一の神とは、「寂滅為楽」のことである。

 「諸行無常・是生滅法・生滅滅己・寂滅為楽」---涅槃経

50:神も仏も名無しさん
08/11/01 12:07:45 qal3FhP+
そうなんです。
そしてそのことが実感できるようになるまでは、かなり長い間
20年近く修行に打ちこんだはずなのですけど、福音にはその失われた期間は記されていません。

51:神も仏も名無しさん
08/11/01 13:14:26 qal3FhP+
バラモン教やウパニシャッドが無かったら、ゴータマさんも周りに理解できる人がいないからハブられていたかも知れませんね。
王子といわれる立場も功を奏しました。

52:神も仏も名無しさん
08/11/01 14:26:44 1pHBPNmv
>>48>>51
>
その見方は正しいと思います。

イエスの場合は大衆が教えを理解できなかった。
ただし、やや低評価ながらも使徒(弟子)たちはなかり吸収していました。

ゴータマの場合には、すでにインドに浸透していた業報輪廻からの解脱というテーマ
(ヒンドゥー教の前身たるバラモン教の思想)がすでに素地としてありました。
尚、ゴータマがアートマン存在を完全否定したというのは全くの間違いです。
ただ大衆の誤ったアートマン観について否定した(正しくは理解されていなかった)ことと、
またアートマン性質に対する細かな理解などは仏道修行においては全く重要ではないために、
無駄な興味を引かないようそれらの解説については提供しなかっただけのことです。
>>41-42の経で示されたように、
業報輪廻からの解脱が前提でなければ仏教の教えそのものが成立しません。
輪廻転生を否定する異端仏教者は、このような経を無視し軽視します。
(この問題は重要なので、これもまた後でやります)

ゴータマが通常よく摂られた態度とは、
「毒矢のたとえ」として知られる「無記」(形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ること)
という姿勢でした。つまり、意味がない場合には説かなかっただけのことです。
たしかにアートマン性質については特に解説はなかったけれども、
転生と解脱の関係については、>>41-42の経で示されたように詳しく解説を提供していました。
また、アートマン性質に対する議論と詳細にして膨大な解説というのは、
すでにウパニシャッドの教えにおいては語り尽くされています。

53:神も仏も名無しさん
08/11/01 14:29:35 1pHBPNmv
 『「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が
可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行
生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方が
あろうと、人間は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩は
ある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
 マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは
説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を
受け入れた。』(マッジマ・ニカーヤ/毒矢のたとえ)

54:神も仏も名無しさん
08/11/01 14:37:31 1pHBPNmv
「わたしが説かないことは説かないと了解せよ。」といったのです。
無いものはない、などとはいっていない!

ゴータマは霊魂を否定した(転生する主体がないから転生もない)
などという誤った「断見」に陥っている異端仏教者・・
尚且つ、水子供養なる商売を提供する似非仏教者・・たちには、
強く懸念を感じざる得ません。

55:神も仏も名無しさん
08/11/01 17:12:23 1vt71Kte
>>54
イエス、ブッダ同値論とブッダ優位論の方も同様に批判したら?

56:神も仏も名無しさん
08/11/01 21:17:34 EhIjJ9b4
批判するよりも久保牧師の考えから真理真実を学び、仏教者の言い分からも
真理真実を学べばいいことです。「我以外はみんな師」…を私自身はまったく
実行してませんけど。

57:神も仏も名無しさん
08/11/01 23:26:17 HU4EGUGY
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課

二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪


58:神も仏も名無しさん
08/11/02 01:02:35 R627J5Cd
---続き


 『聖書によれば、罪の性質は人間の本性にまで及んでいます。それは外面についている"埃"(ほこ
り)のようなものではありません。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 言い換えるからば、人間の原罪の元となったという林檎をバクつかせた蛇もまた神の作品であり、
蛇の行動についても神は当然のごとく、その全てをお見通しの筈でした(全能の神ならば)。それが林
檎を食べたくらいで、どうして神は怒り心頭に欲し、未来永劫まで人間に罪を背負わせたのか?本当
は神は怒ったり喜んだりなどもしないのだが・・そんな自己の感情も制御できない自分勝手な意識とは
何かわかりますか?
 善悪を知る知識というのは人間として生存し、且つ成長を遂げるためには必要なものなのです。で
は、このときアダムとイヴが林檎を食べなかったら、一体どうなったのだと思いますか?それが望まし
いことだとあなたは考えますか?このときの神の怒りとは何だったのかを理解していますか?ここでは
霊と物質の関係について理解する必要があります。

 これらは仏教でいう煩悩と似たようなものなのです。それは人間存在として生存するには必要不可
欠な部分も含むのであり、そして人間として生を受けたからこそ成長を可能にし、ついに気付きが起
こり、更には仏教に触れて、それについても理解することが可能になります。


59:神も仏も名無しさん
08/11/02 01:03:34 R627J5Cd
 『自分の力で律法の一つ一つを完全に全うし、長い律法の"鎖"を登りきることのできる人は、ひとり
もいません。私たちは、自分の力で鎖を登ろうとするのではなく、天から差し出された力強い腕に、つ
かまればよいのです。
 この天からの腕こそ、神と人との間の仲介者であり私たちの救い主である、イエス・キリストの差し出
された腕です。私たちがその腕につかまりさえすれば、キリストは私たちを難なく、天にまで引き上げて
くださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 特に異論はありません。
 ゴータマは法(わたしの教え)に拠って自己の修行によって解脱するよう説きました。イエスもほぼ同
じことを話したと思います。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではな
く、 天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。」(マタイ伝7章21節)  というのは、イ
エスにお願いをすれば救われるというものではないことを意味します。「わたしの父のご意志を行なう者」
とは真理の実践を意味し、これがゴータマの説く修行に相当する部分になります。イエスを信じれば救
われ、信じなければ救われないということはない。人のその行為に応じた結果がある、それだけのこと
です。イエスを知らない者もその行動が正しければそれに相応しい結果があり、「イエス様イエス様!」と
いくら繰り返し嘆願しようとも、悪行はそれ相応の結果(悪果)が返るだけです。天に引き上げる力とは
イエスの説いた教えの実践によるものでしょう。
 ゴータマもイエスの場合も、その本当の有難さとは真理について語り教えてくれたことにあります。もち
ろん信仰心の強さによる効果というのがあり、イエスを想い慕う心により、より困難に立ち向かう精神的
な強さを得ることに繋がります。

60:神も仏も名無しさん
08/11/02 01:05:47 R627J5Cd
 最後の部分として---「キリストによる贖い」~「信仰による救い」の項に至っては、ハッキリいって誰が
何を信じようともご自由ですが・・ここが全くナンセンスでお話にならない最大の部分です。イエスはそん
なことは教えなかったと思いますよ。
 イエスを尊敬し大好きなのは大いに結構なことです。イエス(の教え)が好きならば、何故そんなキリス
ト教の信者となってるのかがわたしには不思議でなりません。イエスの教えとはあまりに異なる、そしてイ
エスが教えもしなかったことばかりを説く教会などに何故、あなた方は熱心に自分自身の身を置くのか?


つづく

61:神も仏も名無しさん
08/11/02 08:06:42 QNxLCdmi
イエスは病気を癒したりが聖書に書いてあるので、
地上天国を夢見る御利益に走る人が、少なからずいるのがイエスに対する理解が足りないところでしょうね。
それでも賢者は本当の教えを求道すると思います。


62:神も仏も名無しさん
08/11/02 08:19:51 QNxLCdmi
イエスの創造主に対する父とは、ユダヤ、イスラム、キリスト教の同じ経典の創造主なのです。
同じように仏教徒とキリスト教徒で世界の法則に何か変化があるのでしょうか
悪人にも善人にも太陽は登るし、雨も同じように降るのだとイエスは教えたのです。
わたしの神、あなたの神と勝手に解釈して争うことが、イエスの教えには程遠いはずなのですから。

63:神も仏も名無しさん
08/11/02 08:42:51 QNxLCdmi
悪人にも善人にも等しくあれ
天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさいと説いたのです。
これは仏陀の至った境地と同じものだと感じます。

64:神も仏も名無しさん
08/11/02 08:52:45 SLL3D8cu
仏教では、妄執が一切のものを作り出した、といい、キリスト教では、
神が一切のものを創造した、と言う。
仏教に言わせば、キリスト教の神は妄執に他ならないと言うことになる。
更に妄執とは悪魔であると仏教は言う。
 キリスト教のここ(創造説)に不合理が有ると、キリスト教会の中の理性を重んじる人々は、
戸惑っているのだ。
 仏陀は、この世は生老病死の苦が有る、と言う。キリスト教の神は、この世を創造したのであり、
創造し終わって、「はなはだ良かりき」と自賛したとある。
キリスト教の神にとっては、生老病死は、苦しみではないのであると言うべきである。
悪い行為をするものがいることは、神にとって、不愉快なことではなく、「はなはだ良かりき」なのである。
人々が、老病死する様は、神にとって悪い事ではないのである。神自らは
生老病死から離れているのだ。


65:神も仏も名無しさん
08/11/02 09:28:01 QNxLCdmi
イエスはわたしと父とはひとつであると言われました。
それらの発言から、迷妄からも当然離れていたと思われます。

66:神も仏も名無しさん
08/11/02 09:48:34 SLL3D8cu
キリスト教の神は、この天地を幻として創造したのである。ところが、
愚か者は、この幻に実体があると思い、それを追求するのである。
神にとっては創り出したものは幻であるから、それはよくも無く悪くも無いのである。
それ故に、はなはだ良かりきなのである。そこにはいかなる差別も無いのであるから。
神の創造したものは、あらゆる状態を持つ。ナンデモアリなのである。
愚かな人間は、その様を見て苦悩し神を呪うのである。しかし神に罪は無い。
人間が、神の創造されたものが、幻である事を知らなければならないのである。

67:神も仏も名無しさん
08/11/02 10:00:18 SLL3D8cu
神の創造したものに実体があると思うこと、これが人間の妄執である。

68:神も仏も名無しさん
08/11/02 10:09:09 SLL3D8cu
人間の妄執が創造したものは、一切が実体あるものであり、その一切が
自己を主張しお互いに争っているものである。これが良い、これは悪いといって。

69:神も仏も名無しさん
08/11/02 10:40:12 10Yw4iyM
>>60
最後の「つづく」というのが可笑しいです。期待してます。

70:神も仏も名無しさん
08/11/03 08:00:33 HGtlBTXo
なぜ神の創造したものが幻なのか?それは仏教の言う縁起現象に他ならないからである。

71:ヨワネハク
08/11/03 08:42:11 4zDgJVd/
「井の中の蛙、大海を知らず」というだろう。
人間は物質界より他を知らないんだよ。
物質界は、考え方で言えば、井戸の範囲なのだ。
外の大海が神の家。


72:神も仏も名無しさん
08/11/03 08:54:46 3xPWwklo
>>70
神の創造したものが幻なのではない。
阿頼耶識に現じたものが幻。間違えないように。

73:神も仏も名無しさん
08/11/03 09:07:43 HGtlBTXo
>>72
>阿頼耶識に現じたものが幻

これは何?詳しい説明を求む。

74:神も仏も名無しさん
08/11/03 10:36:03 /wTIHHve
イエス語録が少なすぎる、
野球に例えれば、イチローのような名選手だけでなかっただけでなく、名監督にもなりえただろうに。

75:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/03 11:39:10 sFQDUxEq
《人格神(言葉を語る霊は存在する)》
 神仏を信じて、宗教を戒めとして、慎ましく暮らすこと、正しく暮らすことを善いと思える人をつ
 くること。人が信仰対象の正邪を語るだけで、神は全てに対して寛容である。

《諸行無常》
 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じ滅びるからで
 ある。それらの静まるのが安楽である。
 「地上のものに心引かれるな」「肉の欲、目の欲、持ち物の誇りを捨てよ」「衣食があれば足れり
 と思うくらいの暮らし」出家せよとは言われないが、禁欲的な言葉ばかりを語る。言うことを聞か
 ないと「苦労をせよ」「つらい生き方をせよ」と。

              【ありのまま、そのままで表現】
地上のものに心引かれず、肉欲も存在せず、平安と安らぎに満ちた不死の霊の世界。修行僧は、何も
持たず、我がものという執着心もなく喜んでいる世界をそのまま行った。快を貪らず、享楽・欲楽を
捨て去ることに努め、この世で安らぎに安住することに努め、死後も安らぎに安住できるように努め
た。
「哲学で終わるな」が人格神。実際に行っていることが重要で、神仏を信じて、宗教を戒めとして、
快楽・物欲に生きないことは善いこと、正しく暮らすことは善いことと思える人をつくる。
修行僧のように、物欲や快楽を一切捨てることを強く望まれるが、宗教によりそれと正反対にならな
いなら、別にどのような宗教も区別なく認められる。物質的な喜びなどを求め、この世の災いの回避
を願い求めたりしても聞いてくれない存在。この世で生き続けるなら、自分で耐え忍んで生きなけれ
ばならない。


76:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/03 11:40:54 sFQDUxEq
《平安・安らぎから離れ、栄華や権威・五欲の対象を思慮できる人》
栄華や権威の拡大を思い、他を打ち滅ぼすという妄執(悪しき者)に従い、物質的な喜びや、五欲の
対象を好いと思慮できる人となり、敵意や憎しみ・怨み・怒り・冷酷・残忍・無慈悲な行いを思慮で
きる人となった。
《宗教的に特異な知識・知者はいない》
何ものも存在しないものから、人間の思慮を得たので、宗教的な特異な知識で対立し人を制覇できる
ような人は誰も存在しない。

《人格神・この世では「良識」「愛」》
「下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない~そなた
のために仕事をしてくれる人々がいるのではない」(悪魔との対話)
「肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌み嫌いなさい」「働こうとしない者は、食べることも
してはならない」(聖書)
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)
「空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったと
きに着せ、病気のときに見舞い」(聖書)
「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみな
がら」(悪魔との対話)
「人をさばくな~人を罪に定めるな~ゆるしてやれ」(聖書)

77:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/03 11:42:17 sFQDUxEq
《下界はこの世、神にとって地に繋がれた地獄(ちごく)》
「大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは
貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう~神は、罪を犯した御使
たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれ
た」(聖書)

 地上のものに心引かれず、肉欲のない安らぎに安住しようと努めないから、地で生き続け人間の
 苦楽を味わう者となる。人格神からすれば、この世は地獄で、人々はそれを知らないと。

《この世で生きる人として》
しかし、全知全能の唯一の神は、五欲の対象もない世界より、五欲の対象を享受することもできる人
間をそのままゆるし造られた。「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深い」

 欲望を自制せず恣であること、富だけ欲して誠実に働こうとしない、目の前の人が飢えたり苦し 
 んでいるのを助けられるのに助けようともしない、離欲であれ何であれ、他人を自分の考え通り
 にしようとすること、敵意や憎しみを抱いて、また無慈悲にも暴力を行い、争ったりすること、
 おおよそ人にもわかる善悪の思慮に反する人々が、この世で幸福を求めても得られない者となる。
 法に反する人は、その人がこの世で苦渋を受けるから、人が他人に対して我がものとして支配し
 なくてよいと。ひとりひとりを尊重することによって、自然にも法律が作られるだろうし、人で
 ある以上、「愛」に背くといつかは不幸となる。

この世に打ちひしがれた人、世より素晴らしい完全な世界に生まれようとする人は、世を厭い離れ、
欲望を制し、肉欲を制し、信仰により自己の心の安定を求めるだろうし、世の中に害いを見て、遠
ざかり離れようとも努めず、悪いと思うだけの人は自己を害っている。






78:神も仏も名無しさん
08/11/03 22:49:07 HGtlBTXo
福音書に、イエスの言葉として、「あなた方は神々である、と聖書に書いてある。
それなら、神の言葉を託された私が、神の子であるといって何が悪いのだろう?」
 それ以上に、イエスは「唯一の神と私は一体である」といっている。
 又、アブラハムの神、イサクの神、モーゼに神、と言われている。
 これらは何を意味するのだろう?
 仏陀は、シャリホツが修行を完成させているものと認めている。大乗教徒にいわせるなら問題が
有るかもしれないが、シャリホツは仏陀となったのである。仏陀とは真理真実を体得した人である。
ここの二人の仏陀がいるのだ。>>41-42にあるような悟り得の道に入り、後戻りしない人々これらの人も、
いずれ仏陀となるであろう。
 仏陀とは神の事であり、神とは仏陀のことなのである。修行とは神になること、仏陀になることなのである。
真理真実を体得する事なのである。真理真実が「唯一なもの=一相無相空相」なのである。
 そこで、神と神が対立してるものなら、その神は実の神ではない。神と神が仲良しなら
、平等なら、差別が無いなら、その神と神は「唯一=一相無相空相」なのである。
阿弥陀の浄土は、この神々の世界の直前の国、であると言わなければならない、と思うが、どうか?

79:神も仏も名無しさん
08/11/03 23:11:15 HGtlBTXo
そこで、上に上げた神々は、それぞれに於いて、幻としてこの天地を創造したのである。
ところが、自分の創造した天地の、あるものに執着して、神の身分を失ってしまったのである。
しかし、思い起こし、執着から離れ、被創造物から解脱するのである。
 幻としての天地創造をも、一切見ない時が来なければならない。
それは修行が完成するときである。阿頼耶識が消滅しなければ修行は完成したといえないのである、と思う。
 創造とは何か?輪廻=縁起のことを知る事である。これすら消滅しなければ智慧の完成:修行の完成 はない、
のではないだろうか?


80:神も仏も名無しさん
08/11/03 23:12:37 OFF8uN89
【神の】俺は選ばれた人間だ。【選民】
真理が示されたスレだ。熟読しておくように。

81:神も仏も名無しさん
08/11/04 07:02:47 6mMJaGBY
確かにキリスト教では、マリア像と像を削りだした木とが等しく観れるような考え方はしていないですよね。
だから教会の聖堂内だけ非常に美しく飾り立てる。
イエスは悪人にも善人にも等しくあれと説いたのですから、他のものも等しく観るべきなのです。

82:神も仏も名無しさん
08/11/04 08:34:23 ueIHnyH0
---続き



 「エホバの証人」のバンフにはこういう説明が載せられています。
 「サタンは、地に対するエホバの支配権の正当性と、エホバの支配が義にかなっているかどうか
を問題にし、いまや全人類を真の崇拝から引き離すことができると主張して神に挑戦しました。神
は、その挑戦が本当に正しいかどうかをサタンに証明させるために、約6000年の期間をお与えに
なりました。」 
 つまりは、サタンによる世の支配を認め、そしてサタンによる人類の苦悩を神は見過ごしている
というわけです。このあまりに馬鹿げた矛盾は神学の根本原理なので、何もエホバに限ったもので
はないようです。
 いや、そうじゃない!神は人類のためにちゃんと救い主であるイエスを遣わして下さり、そして教
えを残されたのです。だから、あとは我々の選択の側にかかっているのだと・・こういうかもしれませ
ん。もう正直、こうなってくると、殆どまるでゲームのような感覚です。
 湾岸戦争の勃発でさえ、ハルマゲドンの始まりだとして---自分らの永遠の生命が近づいたことを
意味するから---ミサイルの雨を歓喜の想いで眺めていたクリスチャンすらもいたという。一部のキ
リスト教徒は戦争で人が死ぬかもしれない、という悲劇に対する当たり前の感覚さえも失っているよ
うです。


 ではこの、「キリストによる贖い」が必要とされる根源的理由の、その「原罪」を背負う羽目となった
神学、“林檎パクつき事件”でのあまりの非論理性について、今回は本当にとても良い機会なので、
以下にこのテキストを掲載して紹介することにします(おそらくはネット初登場?となる名文です)。


83:神も仏も名無しさん
08/11/04 08:35:16 ueIHnyH0
 「そういうわけでアダムとイヴは枝からリンゴをとったのではない。誘惑者がいたのだ。サタンまた
は蛇が。が、すべては神がつくりたまいしもの、とわれわれは習っている。となるとサタンもしくは蛇も
神の製品なのだ。善なる神がサタン、蛇をつくり、その力で単純な人間二人を欺いたというのか? 
もしそうなら、神はなぜリンゴを食べたぐらいで侮辱をおぼえ、その世界に(救い主が現れるまで)
《原罪》が根をはることになったのか? どうなるかはあらかじめご存知のはずなのに・・・・・。
 神学者はここで私の袖をひっぱる。そうじゃなかったんだよ! 悪魔ルシファーは神の国で背いた
存在なんだ・・・・・神の国で背いた? どういうことです? 《天国》が(われわれに約束されているよ
うに)《幸福》と同義なら、そこでの反対勢力なんてあるはずないでしょう。これか---あれか。神の国
が完全な幸福状態を保証するなら、ルシファーも神に対抗しようという気など起こさなかったはず。
だが、天国に絶対幸福がなかったなら、神は完全な全能ではなかったことになる。ここも神学論争
の泣きどころ。神とルシファーの争いを神学者はうまく解釈もできないし、論理的動機づけもできない。
ルシファーがアダムとイヴを誘惑に来る前に、それが成功することを神は知っていたはずなのだ。ア
ダムとイヴの《自由意志》という問題は、ルシファーを登場させても、身勝手な解釈というほかない。
ルシファー、アダム、イヴ、もしくは蛇にしても、全知の神の意志で行動したのだから。
 教えられたことをそのまま受け取る人にとり、状況はこういうことになる。神は至福なる天国に住み、
そこには反対勢力がある---ルシファーは例のことをやりに楽園に来、アダムとイヴは彼にそそのか
され、神の予測どうりに罪を犯す---リンゴをぱくついたのである。以後、生まれる人間はすべて、お
ぎゃあといった瞬間から《原罪》を背負っている。

84:神も仏も名無しさん
08/11/04 08:37:39 ueIHnyH0
 あわれな人類がこの重荷をおろすにはどうしたらいいのか? 救い主によるほかない。聖書はこう
いっている。<神は人間を愛し、みずからの御子を犠牲となりたまえり>
 唯一の神が家族を持っているとはちょっと想像しがたいが、いきなり息子なるものが現れてくる。う
らやましい息子である。《天の》父を持つのだから。愛と善と配慮に満ち満ちた父を。と考えたくなるが、
そうではないのだ。息子は(原罪に苦しむ)人類のため、兄弟姉妹を救うべく、犠牲とされる。神の息
子は十字架につけられ、出血多量で死なねばならぬ。しかし、《御子》の死後、神のご機嫌は直った
のだ! この酷い話は野蛮な異教の要素を含んでいないだろうか? この救済ドグマはどうも原始宗
教への後退に思えるのだ。怒れる神を血の生贄によって鎮めるため奴隷を要求するということではな
いか。
 十字架での死はシンボルとして理解すべきだ、と神学者はいう。何故それを普通にいわないのだ
ろう? 私の娘リラは---それまでの世代と同じように---イエスは《人の子となった神の御子》で、苦し
み(=原罪)を《人として共に感じた》のだ、と習っている。人として死んだ者は、人として苦しんだのだ。
すべての苦悩を持って。しかし、アダムとイヴが罪を犯したため(それだって神がその気になれば防げ
たはずなのに)自分の息子をそれと知りつつかくも苦しめた神が、息子の死後、彼を殺した人類と和解
するとは、どういうことなのか? (この酷い結末で事実上、原罪はこの世から追放されたということに
なっているが、それは今でも盛んなのだ)」(エーリッヒ・V・デニケン著/奇跡)


 イエスが好きでイエスの教えを学びたい、それは大いに結構なことです。ならば何故、イエスが教えも
しないような教会の伝統や教義などを鵜呑みにし、イエスの意志に反することばかり教えるキリスト教
なんかを信仰するのか?


つづく

85:神も仏も名無しさん
08/11/04 16:14:05 6mMJaGBY
アートマンとかブラフマンといわれるものが何のことなのか?
それらは宗教だけでなく、人生そのものを通して理解を深めなければならないのかも知れませんし
心や思考とか感情それらではないとは伝えられています。

86:神も仏も名無しさん
08/11/05 07:55:26 +YXUujYc
林檎パクつき事件や天地創造を文字通りに受け取ってはいけませんよね。
聖書は科学を教えるものではなく、人に救いを教えるためにあるのですから。

87:神も仏も名無しさん
08/11/05 20:26:53 +YXUujYc
突き詰めたらQ資料とダンマパダ
それだけで良いのかも知れません。
聖者シャンカラも文法の規則を暗記しても救いは得られないと言っていますし
膨大な経典を暗記しても実践無くしては意味がありませんから、人にとって特別な才能とは前世の賜物だともインドの経典は教えてくれます。
ゆっくりじっくり蟻にように着実に進むべきなのです。

88:神も仏も名無しさん
08/11/06 11:06:37 oVOU0KoQ
---続き



 『キリストは、永遠において神より生まれ出た神の御子であって、父なる神と一体になっておら
れるおかたです。そのかたが、今から二千年前に、肉体の姿をとって、ユダヤのベツレヘムに
降誕されました。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 「処女懐妊」及びマリアの「無原罪の御宿り」なる教義については、ここで強く否定させて頂く。
人間には、一人とて例外的な特別というものはなく、それぞれが個々の持つ神性の具現する度
合いが違うだけのこと。

 キリスト教徒ご自慢の「処女懐妊」の奇跡なるものは、何もイエスに限った専売特許ではない
といっておきます。インドの聖英クリシュナ(紀元前3000年頃)はデバキという貞淑な処女から産
まれた。ゴータマにもマーヤー(マリアと名前が似てるという指摘もある)が白象に脇腹を牙で刺
し込まれる夢を見て懐妊、それまでは処女だったという伝承がある。ペルシャのゾロアスター(ゴ
ータマよりも170年ほど前)や王キュロスもそうであり、タイや中国にも処女出産の聖者がいる。
ゾロアスターはイエス同様、誕生以前から数々の奇跡現象によって予言者たちによって未来の
誕生が知られていた。エジプト神話のホルス神は処女神イシスから産まれたというのも同じこと・・。
 これらが意味するものは何か?ちょっと感のイイ人ならばすぐに分ることです。つまり、これら
は後世の人間(信奉者)による神格化の意図で作られた逸話であり、処女性の持つ汚れ無き神
聖なイメージを結びつけたものに過ぎないということ。

89:神も仏も名無しさん
08/11/06 11:07:39 oVOU0KoQ
 『イエス・キリストは、罪のない清いかたでしたが、私たちの代わりとなって罪をその身に負い、
身代わりに十字架上で死んで、裁きを受けてくださったのです。神は、積もり積もった私たちの罪
咎を、すべてキリストに負わせ、キリストはそれを、私たちのために背負ってくださいました。
 これをキリスト教では、「贖い」と呼んでいます。贖いとは"代価を払って買い戻す"という意味で、
キリストの命が、私たちを神のもとに回復させるための代価となったのです。』(仏教の「修行」キ
リスト教の「贖い」)
>
 あのような非論理的で実に愚かな原罪思想(>>83-84)を、いつイエスが認めたというのか?
 キリスト教徒らは、人間は原罪を背負っているからキリストの贖いにすがる以外に救いはないと
いい、だからイエスが磔刑によって人類の罪の身代わりになったのだと教える。更にはなんと、
我々も全員イエスにひたすらすがる他には道がないとして、無力な人間は今でも原罪に毒されて
いるのだと主張している(十字架の磔刑で救ってくれたのではなかったのか?)。

 そんなことは断じて絶対に有り得ない。イエスが永い転生の繰り返しの中で、自らの意志による
困難な霊性の歩みによって、己れの神性を完全なまでに具現するほど高い意識境に到達した非
常に稀なる人間であったことは賞賛に値いします。しかし、如何にイエスといえども、他人の罪を
代わりに背負ってあげるなどいうことは、決してできよう筈がないのです。
 自己の行為による果報を自ら受けるという、原因と結果の因果律はこの宇宙の絶対法則。懺悔
(反省と祈り)することは良いけれども、それによって行為の結果を受けないで済むなどということ
にはない。
 「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたも
のを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、
霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、
実を刈り取ることになるのです。」(ガラテア人への手紙6章7-9節)

90:神も仏も名無しさん
08/11/06 11:09:29 oVOU0KoQ
 『私たちは、善行によって救われるのではありません。善行によるなら、救われる者はひとりもいま
せん。善行は、救いの"条件"ではなく、むしろ"結果"なのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」)
>
 もう、完全にあべこべです・・。
 キリスト教徒はイエスを見習おうとすることは恐れ多く、それすら誰にも許されていないものと考
える傾向がある。しかし、イエスはなんていったか?
 「天の父が完全であるように(あなたがたも)完全でありなさい。」(マタイ伝5章48節) そして、
「わたしは父のもとにに行くのであるから、あなたがたはわたしがなしたことよりも更に大いなるこ
とをなすであろう。」(ヨハネ伝14章12節)といい、イエスは、私たちも彼のようになれることを、その
可能性を、自ら手本を示すことで教えたのです。

 その私たちに潜在(内在)しているその可能性を「キリストの原理」、または「キリスト意識」と呼ぶ。
このことは原始キリスト教の時代ではよく知られていた。これがパウロの「汝らの中に在すキリスト
にして栄光の望みなり。」(コロサイ書1章27節)といわれた所以です。いずれ私たちもキリストのよ
うに完全なる段階に達することにより、「キリストの満足れるほどに至る。」(エペソ書4章13節) 
までになるのです。
 『あなたは、生まれたばかりの神の子(赤ん坊)なのです。あなたが成長することを、神は楽しみ
にしておられます。その成長は、あなただけの力によってできるものではありません。あなたの内
におられるキリストが、助けてくださるのです。』(仏教の「修行」キリスト教の「贖い」) 
 と、ちゃんと解かっているようですが・・ならば何故、イエスが教えもしない贖いなどというものにす
がろうとするのか?



つづく

91:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/06 20:13:23 DVFCZF1c
         【多くの思考の共通は神、洗脳は悪魔】
神は人の思考の迷いなど当てにしてない。
人の手で造られたものへの喜びも無く、地上のものに心引かれること無く、苦悩も無く、平安で安ら
ぎに満ちている。真理を見る人には何ものも存在しない。

地上の栄華や権威、色あいや味わいといった五感、人間的な思考を得たのが人。それらに執着心あり、
得ようとする心を得たのが人。諸々の欲望に関する貪りがあるのが人。(悪しき者に従い得た)

《記憶になくてもよい》
しかし、人として、自分が食べる飲む得るという生命の維持や物を得て享楽・欲楽に生きる以外に、
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに
宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い」(聖書)
「信仰心あり、学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ」
「貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話)

 目の前の人が飢え、苦しんでいるのを助けることは善いことだと思う心が人にはある。人として、
 このようなことが妄執を乗り越え、つくられざる善なる存在を知ろうとしていることである。
 特異な宗教的知識などに執着しても、悪しき者を乗り越えていない。人の手で造られた偶像に執
 着しても悪しき者(妄執)を乗り越えていない。つくられざる者は、無意識にあり、人が知らぬ
 間に善いこととして(善いとも意識しないくらいにして)、世の人に影響を与えている。


92:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/06 20:14:30 DVFCZF1c
「園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功
徳は昼夜に増大する。」(神々との対話)
「誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。信仰心あり在家の生活を営む人~もしも
この世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、~バラモンども
に問え」(スッタニパータ)
「肉による主人に仕えなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕
として心から神の御旨を行い」(エペソ人への手紙)

 富に仕えるよりも、人に誠実に仕え世に益がもたらされる、人に考えや意向を押し付けて従えさ
 せるよりも、相手の考えや意向に仕えて交友を結ぶ、何ものも存在しないものから、肉欲ある人
 間と人間の考えがある人をゆるされ造られたように、肉をゆるし仕え、他人の意向に仕える。

悟りの境地に達し、一切皆苦を悟った釈尊のように、好ましく愛すべく意に適う五欲の対象や物質へ
の執着は苦しみである。人はあくせくした日々や、それらから逃れて自然の中で開放感を味わうこと
だってある。快楽に耽溺している人より「美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い気持ちもよく起き
上がった」ような人のほうが健康的に見られる。

「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、良き心あり、こ
だわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって」(神々との対話)
 

93:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/06 20:16:28 DVFCZF1c
【神は人の善悪感情関係無い。現象を世にもたらす】
栄華や権威・富の拡大に執着心ある人、一方「あくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮ら
している」(神々との対話)「一日の苦労は、その日一日だけで十分」(イエス)
 悪魔に従って世の興亡盛衰をもたらす。世の人々に、興亡盛衰をもたらさない現象を与えようと
 した。

《人を乗り越え霊の世界に生まれる道》
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ~この身は泡沫のごとしと見よ。
この身はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」「今からは妻のある者は
ないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持た
ないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この
世の有様は過ぎ去るからである」(聖書)

 絶対善とともに在る時は、人間の思考から生まれた特異な教義はない。洗脳されることもない。

《人格神・釈尊》
物質文明社会は「左」「狂った世」と手厳しい。世俗的なことから離れ、「地上のものに心引かれ
ず、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを捨て、衣食があれば足れりと思うくらいにして、離欲に努め、
苦悩の無い安らいだ世界に生まれられるようになれ」

《イエス》
神に義なら、悪しき者(妄執)を乗り越え神通力あり。地上の欲楽を厭う。冷酷・無慈悲など無い。
神には罪しかないと認め、自分を誇らず、愛という現象を信仰により世にもたらそうとした。神(平
安)とひとつになり、悪しき者を非常に厭う存在となった者が、聖霊による救いを世にもたらそうと
した。釈尊も慈悲をこの世では崇高と説き、妄執を厭い、邪まな見解を捨て去れと説いた。


94:神も仏も名無しさん
08/11/06 23:19:41 gZA1wPrF
人の心を束縛するもので、何が一番であろうか?
嵐で家屋を失っても、地震で自分の愛する家族を失っても、過失で老人が高速で運転を誤り、
後続の何十台もの車が追突事故が発生し、その事故で、最愛の人を失っても、
これらの原因だと、それほど、失ったこと及びその原因に対して執着しないのではないだろうか?
 一方契約又は、身近な法律を破られることにより、被害を受けとき、相手に対して、何時までもうらむだろうと思う。
他人が自分の物を盗んでも、その行為は、縁起なのである。その人の五蘊は、空性なのである。
自分の五蘊も空性なのである。そこには真実には、何も生じていないのである。
悪人はおらず、悪なる行為は無く、善人はおらず、善なる行為は無いのである。
善も無く、悪も無いのである。
 縁起してるものは空性であるとは、この意味なのである。人間などいないのである。
この真実の教えは、実に人を苦しみから救いとる。一切の苦悩から人を救いとる。

95:神も仏も名無しさん
08/11/06 23:39:33 gZA1wPrF
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」

 真実を知った今、さ、みなさん浄土への旅をしましょう!

96:神も仏も名無しさん
08/11/07 00:21:03 XXuloQqE
小乗非仏の根拠は明確だ。
史実により、釈尊の戒律作りは
問題が起きてから対策を始めるという
泥縄そのものであり、
なくて済むならないほうがいいという
基本方針を通しているからだ。
他の教団の状況も知っているのだから
それらの問題が起きることは
とうぜん予測の範囲内であったろうが、
あえてこういった方針で行動することで
範を示していたわけだ。

で、当時の同地方の他の宗教や慣習との対比において、
在世およびそれ以降の仏教教団の選択内容から見て、
小乗の側にどんな理があるのか? さあ、何でもどうぞ?

97:神も仏も名無しさん
08/11/07 06:49:00 fK868WNN
>>96
>
小乗と呼ばれても仕方ないグループが在ったことは確かですが、
あなたはゴータマそのものも小乗呼ばわりするのですか?


98:神も仏も名無しさん
08/11/07 12:00:59 fK868WNN
---続き


 イエスの十字架による磔刑(罪を背負ってくれたの)で人類は救われた、などいうことはない。
ひたすら救いを嘆願する贖いの信仰などは、イエスご自身は推奨していない。「わたしに向かっ
て主よ主よ」といってもダメだ、といっているのに、「イエス様、イエス様~」と嘆願したって、それ
は同じこと。
 懺悔と祈りは自分の心の浄化作用には効果はあるが、しかし、イエスに対する過剰なまでの
崇拝行為を繰り返したところで、それをイエスが喜ばれることはないだろう。イエスならばきっと、
そんな暇があったら道端で倒れて苦しんでいる人々に手を差し伸べてきなさい。などと、多分そ
ういうことをいうに違いないからだ。

 キリスト教はかつて大量殺戮を行ってきた血に塗られた歴史を持つ。キリスト教の(教会によっ
て勝手に作られた)教義に反するものは凡て異端であり、神に対する冒涜であるとみなしてきた。
そして相手をサタンの惑わしであるとして罵って、人の命さえも平気で奪ってきた。中世における
異端尋問、いわゆる魔女狩りでは600万人以上の人間を生焼きにし、12世紀には十字軍を起こ
してパレスチナを奪還すべく、何十万というイスラム教徒を虐殺した。コペルニクスとガリレオに対
する迫害の話もまたよく知られているところ。
 これらの出来事は昔のものであり、ごく一部の異常な司祭らによるものと思いたいところだが、
しかし、残念ながらキリスト教としての基本的性質と考え方は現代でも殆ど進歩がない。
 対する仏教徒の場合には、その根底にはインド思想のアヒンサー(不殺生非暴力の実践)の教
えが息づいており、破壊行為は必ず自己を破滅に導くものであるとして理解している。無害の実
践(破壊行為をしない)は何にも増して最重要であって、これは仏教についての理解や修行の進
歩の云々、以前に最大限に必要なものだとしている。

99:神も仏も名無しさん
08/11/07 12:02:48 fK868WNN
 キリスト教徒たちは、イエスが異なった思想を持つ者にも寛容であり、受容的で広大な愛を説い
た人であったことをすっかり忘れている。キリスト教の伝統的思想から外れる者は皆、地獄に落ち
る運命にあるとする傾向に関して、次の言葉を贈らせてもらう。
 「自分が裁かれないために、人を裁くのを止めなさい。」(マタイ伝7章1節) 「他の人を裁くその
事柄において、あなたは自らを罪に定めているからです。」(ローマ人への手紙2章1節) 「たとえ
わたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい
鐘やシンパルと同じである。たとえ山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わた
しは無に等しい。」(コリント人への手紙13章1~2節) 「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに
愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ
ネ伝13章34節)
 「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、誰一人、父のもとに来るこ
とはありません」(ヨハネ伝14章6節) これをキリスト教徒は誤解し、キリスト教のみが唯一の真理
であって、これに拠らない限りは天国に行くことはできないとした。しかし、私たちは以下の言葉を
見出すことができる。
 「キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(コリント人への第一の手紙15章22節) 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」(ローマ人への手紙8章35節) 「高いも
のも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたち主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたし
たちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙8章39節) 「わたしの父の家には、
住まいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。」(ヨハネ伝14章2節)
 「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリ
スト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテア人への手紙3章28節)

100:神も仏も名無しさん
08/11/07 12:05:39 fK868WNN
 ローマン・カトリックの金銀財宝、あの煌びやかな教会装飾は一体、何なのか?そんなところに莫
大な金銭を使い、聖職者らに宮殿のような教会に住めなどとイエスはいったのか?イエスの人生そ
のものが貧しく虐げられた人々の中に同じく一緒に住んで、共に行動していたことを思い起こすなら
ば有得ないことだ。そんな教会の中で神に対する賛美歌を歌ったところで、イエスが喜ぶとでも思っ
ているのか?


 スレタイから外れて・・話が拡大してきたので、これで終わりにします。
『仏教の「修行」キリスト教の「贖い」』に対して思うところは、取り合えず以上です。

この話の投稿
 >>37
 >>39-45
 >>58-60
 >>82-84
 >>88-90
 >>98-99

101:神も仏も名無しさん
08/11/07 18:00:55 4uBHCP60
イエスの人を裁くなとは、私たちの体は細胞やDNAひとつ取っても神の力、法則で行われているんだよね
他人を見るにしても何にしても、神から与えられた視力や肉体で何かをおこなっていることになるから、
生きてるからこそ日差しや風を感じて、気持ちが落ち込んでいても立ち直れるわけだし
それくらい我々は本来無力なんだから、人を裁くのなんてもってのほかみたいな感じだと思っている。
ブラフマンは偉大だ。

102:神も仏も名無しさん
08/11/07 18:02:25 4uBHCP60
ハレークリシュナ、ハレーラーマ。

103:神も仏も名無しさん
08/11/07 23:08:09 4uBHCP60
URLリンク(www.geocities.jp)
>「トマス福音書」では、トマスがイエスを認めるや否や、イエスはトマスに向かって「私はあなたの先生ではない」と言い、
>「私はあなたと同じ泉から知恵を授かった存在であり、あなたと私は対等にして同一の存在である」と語ります。
>正統派キリスト教では、神と人間は主僕の関係ですが、
>グノーシス派の福音書によれば、神は人間の内部にも存在し、人間は覚醒することによって、神と合一し得る存在と考えています


104:神も仏も名無しさん
08/11/08 00:08:36 x1EPflHm
>>103
>
教会によるキリスト教としての勝手な教義の編纂(制作)というのが先にあり、
これが絶対視され、そこから外れたものは凡て排除してきたわけです。
聖書の正典もそのような視点で選抜された。

これは何もキリスト教に限ったことではありませんが、
自分たちにとって都合の悪いもの、異なった思想や新情報/新発見には目を塞ぐ傾向がある。
見ない聞かない・・。

このような、
「疑ってはならない」という指導方針や
異なった思想に対する強制的弾圧の姿勢というのは全て、
自分自身の弱さの現れ以外の何ものでもないということでしょう。
本当に自信が在るならば、むしろその逆なのであって、
「大いに疑って調べてみなさい」というべきなのです。
そうすることで教えの正当性がより明確化することになるのだから。
この点は新しいカルト宗教も酷いものです。

105:神も仏も名無しさん
08/11/08 00:19:18 y5LflC1h
『月の光の祝詞集』~ツキを引き寄せる究極の言葉、それは祝詞です。
URLリンク(www.happyget.jp)

5度の岩戸閉め、岩戸開き、建替え建直し 月の光
URLリンク(hwm5.gyao.ne.jp)


106:神も仏も名無しさん
08/11/08 00:29:50 x1EPflHm
---------------------------------------------
 「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、誰一人、父のもとに来るこ
とはありません」(ヨハネ伝14章6節)

 「スバッダよ。わたくしは二十九才で、何かしら善を求めて出家した。スバッダよ。わたしは出家し
てから五十年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には『道の人』なる
ものも存在しない。第二の『道の人』なるものも存在しない。第三の『道の人』なるものも存在しない。
第四の『道の人』なるものも存在しない。」(大パリニッバーナ経/スバッダの帰依)
---------------------------------------------
 「私はあなたの先生ではない。私はあなたと同じ泉から知恵を授かった存在であり、あなたと私は
対等にして同一の存在である。」(トマス福音書)

 「アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか? わたくしは内外の区別なしに(こ
とごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、
存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくし
に頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向
上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまは
わたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語る
であろうか。」(大パリニッバーナ経/旅に病む―ベールヴァ村にて)
---------------------------------------------

107:神も仏も名無しさん
08/11/08 09:47:17 Ka1Cqq/K
縁起してるものに執着してはならない、という。
身近なものにそれを適用するのは、容易である。
しかし、身近なものも、実は大きなもの、遠いものと縁起してるのである。
政治経済である。政治の中でも、医学、教育であるが、これ等の教えも縁起してるものゆえ、
執着してはならないのであるが、特に医学に対する執着は、身近なものであろう。
医学関係の人は自分たちの存在を誇示するかのように、盛んに医学上の知識をばら撒いている。
これらの存在は、修業してる者に襲い掛かる怪物のようなものに違いない。
原始経典に、修行僧に、悪魔が怪物の姿をとって、修行僧を恐れさせようとするシーンがでてくる。
これらの脅迫に対峙した修行僧のように、現代の我々修行僧は、医学や政治上の脅迫、強要に、
打ち勝たなければならないのではないだろうか?
 「全てを超越せよ」とは原始経典の仏教である。
 縁起してる怪物に支配されていることに気づかないでいてはならない、と思う。

108:神も仏も名無しさん
08/11/08 11:16:06 Ua1J5fW8
>>107 君は執着してるな
適切な関心を払うことと執着を持つ事は両立しないし、
人には社会的な相互の関わりと責任が必ずある。
 灰身なれば即身ではありえず
 滅私なれば成仏の義もなし
たまにでいいからそういった真実も考えたほうが?

109:神も仏も名無しさん
08/11/08 11:44:59 x1EPflHm
>>107
執着なしに医学の問題に対峙したり、病気治療にあたることはできる筈です。
ゴータマは、肉体は無常であり実体(永久不滅の存在)ではないから、
「病人を放置していなさい」とか・・
苦しむ病人を前にしていながら
「病気というものはない」と説いたりはしないでしょう。

医学や政治上の問題を自身に関わることへの「脅迫」とみなし、
それに故意に目を背けようという意識が一つの執着の姿勢となります。

賢者とは、
執着なしに必要な事柄のみを淡々とこなす人をいう。

110:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/08 11:52:44 Bb3zHQJM
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ~この身は泡沫のごとしと見よ。
この身はかげろうのごとしと見よ」(感興のことば)
「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」「今からは妻のある者は
ないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持た
ないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この
世の有様は過ぎ去るからである」(聖書)

 唯一の父なる神のもとでは、このような今のような生存状態ではなかった。地上のものに心引か
 れず平安と安らぎの境地のままであった。
 しかし、地上の栄華や権威を欲する罪を犯した。「栄華や権威を貪り拡大し他を打ち滅ぼしてし
 まえ」という「野望の妄執」の悪魔に従った。
 そして人間の個性・好み・性分・考え・感情など諸々のものを得た。

「世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみ
ながら、われは眠る」(悪魔との対話)
「人をさばくな~人を罪に定めるな~ゆるしてやれ」(イエス)

 父により人間は決して善人と誇れないように造られた。「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人
 にも、なさけ深いからである」(イエス)人のあやまちをゆるしてやらないと、父を否定、知ら
 ない者となる。

>>103 正統派キリスト教は人を悪魔のみに仕立て上げることになる。神と言って貪欲に生きると
   神から離れる。 

111:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/08 11:56:05 Bb3zHQJM
「他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真
理から遠く隔たっている」(感興のことば)
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(イエス)

 様々な人がこの世に生まれ、それぞれの考えや意思に従って生きている。人として世の中で生
 き、欲を捨て去ろうと努めない限りは、「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなか
 ったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」としないと、真理から
 離れ、悩みが増す。父は欲ある人間を完全に造ったわけではない。自分に気をつけ、他人のあ
 やまちをゆるすなら、他人への悩みも少ない。そういった人が世の中に増えれば、他人から少
 々のあやまちをゆるしてもらえる。

「平安の境地に達して~一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ~上
に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし~この世では、この状態を崇高
な境地と呼ぶ」(ブッダのことば)
「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ~あなたがたの父なる神が慈
悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」(イエス)

「奉仕を楽しむために~生活を送っている人々がいる~この二つの極端説を知って、そこにとどこ
おっていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない」(感興のことば)
「思うべき限度を越えて思いあがることなく」(聖書)

 冷酷・無慈悲・残忍は悪魔(妄執)からで、この世でどのような状態であろうと、人によくし
 てやることは善いことと思うことは、妄執を乗り越えた神の領域に近い。思考が慈悲に結びつ
 けば、その人の心の内は妄執と結びついていない。


112:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/08 11:57:39 Bb3zHQJM
【世界の終極・太陽も月も無い】

「欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」「ああ、この世は滅びる。ああ、この
世は消滅する」(悪魔との対話)
「修行僧は、瞑想を修め、心が解脱し、心の達成を望め、世の興亡盛衰をさとって、良き心あり、
こだわることなく、そのとき、すぐれた益をもたらすものとなって」
「世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。
かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない」(神々との対話)

「わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることで
ある。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。
そして、わたしはその人々を終わりの日によみがえらせるであろう」(イエス)

 諸々の欲望に関する貪りを取り除いて、心の平穏と安らぎを楽しむ修行僧。
 地上のものに心引かれることなく、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを捨て去ることがすぐには
 難しいので、信仰対象となったイエス。「欲に慣れ、のろいの子となっている。彼らは正しい道
 からはずれて迷いに陥り~ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み」

地上のものに心引かれることなく、神の平安と安らぎに満ちた不死の世界。釈尊もイエスも、敵は
栄華と権威を貪る悪魔で、肉欲に生きる人々は、最後には大苦難の後、滅ぼされる。
五欲の対象の貪りや自分の考えが正しいと言い張る(六つ)の欲望、富や栄華の貪り拡大などを離
れるために信仰対象となった。
「思考の及ばない静かな境地は~太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を」
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」「天体は焼けくずれ」


113:神も仏も名無しさん
08/11/08 15:33:47 x1EPflHm
>>107
>現代の我々修行僧は、医学や政治上の脅迫、強要に、
>打ち勝たなければならないのではないだろうか?
>
まぁ・・気持ちは全く分らないでもない。
私は僧じゃないが、まるで出家僧のようだった時期もあったw

TVも見ないしラジオも聴かない。
新聞も読まないし、流行の曲一つ聴かない。
肉食を絶って菜食主義で食し、すべての時間を瞑想やら霊性の行に当てていた。
Winkが絶頂期だった数年もの間、それすら全く知らなかったんだな(笑)
自分ひとりで過ごしている間は何も問題はないが、
他の人間と接するときに、違和感が生じて関係がギクシャクしてくる。
「この人は普通の人間じゃない」と見られることになるw

それはやはり、山林なり河川なりに行って暮らすのが適してる。
人によっては確かに、そういう時期が必要な生涯も1度は来るものかもしれない。


114:神も仏も名無しさん
08/11/08 16:10:42 Ka1Cqq/K
>>113
無相と言う真実を認め、それに少しでも邁進しようとする者を修行僧と名づけました、勝手に。
ですからここにおられる人達のほとんどが修行僧であるといえると思うのです。
僧院に隠遁してる人達を指しているのではありません。

 世俗の生活をしていますと、今頃なら、年金の事、株安の事、それから、
医療の問題、です。
 医療の問題では、やれ定期健診だとか、癌だとか、煙草の害だとか、そのような話で溢れています。
これらの心配事は、無相に近づくために、12縁起の修行をするものには、何の力も有ってはならないものです。
病気を恐れて、それを避けるために、行為するなら、無明に従うものでしょう?
年金の額を恐れて行為するなら、これも無明に従うものです。
 このような意味で、医学や政治上の脅迫と言ったのです。


115:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/08 18:14:45 Bb3zHQJM
不死の境地、平安の境地を知り、それがきっかけで仏典や聖書を読んだが、

「人への愛」「慈悲がこの世では崇高として邪まな見解を捨てよ」というくらいの信仰で、妄執に従
属(悪しき者)に従い生まれた敵意や憎しみ、怨み、怒りもある人間の境地のまま生きるのではなく、
平和で幸せに生きることだと思っていた。

「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富ん
でいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」(聖書)

 今の世の中は、昔と違い、様々な物質的な喜びができ幸せだ、と思って暮らしていた時、
人格神が現れて、「お前は右か、左か」と問われ、私は「右」と答えてしまった。
 「地上のものに心引かれるな」「ぬるいのは嫌いだ」と文明的な暮らしの喜びをことごとく否
 定されるのである。「浮世」とも。物質文明の楽しみを全て否定されるので、何もできなくな
 ってしまう。否定されないのは自然を楽しむくらいである。言うことを聞かないと「左だ」と。
 「地で生き続ける」「つらい思いで生きる」「苦労をする」「老いと死を受け朽ちる」と。

輪廻転生する人は「良識」的な知識や「愛」、霊からすれば「地で呪われている」と。
霊の世界に生まれられるようになるには、世俗的なことから離れ、離欲に努めないといけないという
のである。
人の世は人次第、霊の世界に生まれようとするのは、その人の離欲の努力次第。

信じることを大切にするのは、悪を滅ぼす戒めとして大切なこと。悪業をつくらないようにするため。


116:神も仏も名無しさん
08/11/08 20:26:23 N/31ZnzQ
>115
地で生き続ける、つらい思いで生きる、苦労をする、老いと死を受け朽ちる。
全てが,素晴らしい事。恐れることは、ひとつもありませんよ。

117:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ
08/11/08 21:40:17 Bb3zHQJM
「何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、善悪を
なすによしなく、欲求を捨て去った人、――かれこそ実に最上の人である。
~人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれ
は快楽を求めないからである」(真理のことば)

 世俗的なことから離れ、離欲に努めて二度とこの世に生を受けないように努める人々は、宗教的
 行事をも捨て去る。

 世間にいて世俗的なことから離れられない人は、神仏を信じること(宗教)が人格神には大事な
 ことらしい。信仰を戒めとして、慎ましく暮らすことは善いこと、正しく暮らすことは善いこと
 という人をつくろうとする。信仰対象で優劣を争うのは人だけで、人格神は寛容。

人というものは妄執に導かれ貪欲で、慎ましい暮らしを善いことと思えぬ存在になっていると。また、
妄執に導かれ悪い事を行いやすいと。人格神は、今のこの世を喜んでおらず、「貪欲で狂った世の中
だ」と。信仰によりその貪欲の炎を消すことができ、信仰している人のほうがまともだと。



118:神も仏も名無しさん
08/11/09 11:12:40 CFrrcpYs
イエスが言った、「もしあなたがたを導く者があなたがたに、(見よ、天国は天にある)と言うなら、天の鳥があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。
彼らがあなたがたに、(それは海にある)と言うならば、魚があなたがたよりも先に王国へ来るであろう。
そうではなくて、王国はあなたがたの直中にある。
そして、それはあなたがたの外にある。
あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。
そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。
しかし、あなたがたがあなた自身を知らないなら、あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である」。   
           <ナグハマディ文書、トマスによる福音書から>


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