09/04/28 23:29:52 8HEUuP4p
>それぞれが親神様の思いに添って生きることこそ、信仰やろな。
それにはどうすれば・・
↓
現在おやさまと言葉を交わせる人はほぼいない
↓
しかし、幸いな事に原典がある。「みかぐらうた」や神様直筆の「おふでさき」や口述筆記の「おさしづ」が・・
明治三十二年八月二十八日
峰畑為吉三十九才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、どうも身上に心得ん。心得ん理いかな理であろ尋ねる。
・・・一時事情前一つ理はもう無くなった理、又改まりた理は、道順序の理。道の親、理の親、これ心にちんと治めてくれ。
神様は、私が「道の親」だ、俺が「理の親」という人間思案は「ちん」と心に治めてくれと仰ってくださっているのに未だに・・・・・・
二代真柱様の
「私はたすける人あなたはたすけられる人という思案では理は頂けないのであります・・」
「大教会長も分教会長も布教所長も同じ理である」
「月日の社の表札が天理王命である」
という発言・・
三代真柱様の
「たすけの主はおやさま親神様」
「おやさまこそ八方の神がおさまる天理王命様なのだから」という発言
今の私にはどれも「理の当然」という発言にしか思えません。
真柱という立場は「教えの芯」を示される・・
教えの芯は「おやさま親神様」であるのだから、教会長は「おやさま」の心を芯として実践に一筋になっていくことによって、
周りの者から教会のその地域の芯として、心にかけて頂けるようになるのではないでしょうか。