08/09/15 05:38:00 HJqOgNtZ
>>506=507
そんなに空威張してみても始まらんよ。
教会(員)ならば聖書に精通してゐることが望ましいことは基礎中の基礎。
教会・信仰と、現実の社会の動きを乖離させて語ってみても始まらんよ。
あたしゃ、何もシナに特定した物言ひはしてゐないのだよ。
N.K., S.K., 露, 米, 他にも基督の精神を逸脱してゐる(きた)状況(経緯)
があり、憂慮の姿勢を呈してゐる。
言っておくが、SDAの教会の歴史は浅い。
確かに、文字に表現すると、それなりの真理・教理といふものを掲げてゐて、
おぬしらの格好の拠り所となってゐる?のは悪いことではない。
だが、神の見方といふのは、おぬしらが思ってゐるやうな狭いものではなく
また、その愛と恵みは深く広い。と共に、厳しさもおぬしが思ってゐるやうな
生易しいものではない。
深みのない落書きで満足せずに、聖書は勿論のこと、他の有益な情報にも目を
留め、己の鶏冠で吟味し、洞察するのが有益だらう。
「偶像と異教折衷主義」云々と、いつも軽々しくホザイてゐるが、伝道といふ
ことからすれば、何故偶像があるのか、何故異教の神?があるのか、といふ
ことを、それに同意するのではなく、理解・研究しようともせずに、ただ単眼的
に一顧だにもせず、切り捨ててゐては、話し合いも糞もヘッタクレもないのだよ。
かういふあっしは、偶像や異教には些かも染まって、といふか、滲みさへも受け
てゐないのだよ。
おぬしの腐ったやうな目に睨まれても、痛くも痒くもないのだよ。