09/01/17 21:12:21 gR546rbQ
>>831
>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
何か怪しいことしとるやないかと思うわな。本山でもそのあたりは昔から調べてたりしとるわけ。
何の根拠も持たんあっやし~ことしとるところもあったりするから実際はごちゃごちゃやけどね。
行の一念と信の一念は一体やよね。そこんとこはよろしおまっか?
是非を凡夫が勝手に思い定めるんを信一念とは言わんのやわ。
お浄土間違いなしや。疑いの~なった。そんなん信一念としたらあまりにお粗末やわ。独覚やから自力の域を出てへんわけや。
疑心あることなしちゅううんは、阿弥陀さんの御心は清浄で疑心がありませんわ。
そこをたのみとする以外に信一念なんかないんですわ。
でもな、ある時点でわしは阿弥陀さんの誓願をたのみとしたんで万事OK!やとなると、
一念義っちゅうもんになって、これには相続心ちゅうもんがないんや。
阿弥陀さんの誓願をたのみとする心ちゅうもんが、何で金剛心なんちゅうもんに喩えられるかっちゅうと、
それは摂取不捨のお約束があるからなんやね。ここは大事なことやと思うよ。
行の問題の件やけど、お称名は真宗ではあくまでも御恩報謝やといわれとるわけや。
けどな、信は必ず念仏を具すとあるんや。信があっても念仏せんのは栓なきことなんやて。
真実の行はあくまでも称名念仏や。これは宗祖が言われとるから間違いないやろ。
三業派の人はこの称名念仏をもっと細やかに言わはったようやで。
念仏は五念門のご修行のかたまりなわけや。やから、簡単に言うと礼・讃・作・観・廻を念仏の行としはったんよ。
37願あたりはそれをよ~あらわしてるんちゃうかな。
ま、種々の方便でご信心を発こさせるちゅうて言われとるわけやから、
三業派の人の中にも真実信にたどりつく人もおるんかとも思いますわ。