09/01/16 00:44:55 noXB9V2U
好感度はもちろん気になりますし、一喜一憂しています。ただ、自分の信心が秘事法門であるという根拠がないですし、
異安心であるという根拠もありません。自分の信心が本物かどうかは、お聖教によって確認していく他はないと思います。
秘事法門には数多くの種類があります。あなたとよく似たことを仰る一派もあるようです。当然、私の言うこととそっくりな流れもあるでしょう。
何故なら、偽物は本物に似せてあるから似せ物、偽物なのです。もちろん、似ても似つかぬ物もあるでしょうけれど。
傍迷惑な話ですけれど、あなたが今ここを読んでいる全ての人にご自分の信心が本物であることを証明できないように、
私も誤解されたとしても仕方の無い話です。
789:神も仏も名無しさん
09/01/16 00:52:03 D2iUS+BC
秘事法門よりも怪しい渡海教
343 名前:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:15:02 ID:R9W9xUFx
>>341
>フリートークが難しそうですね。ゆるいテーマをもうけて、進行役みたいな人をつくって、自由に発言
する、みたいな感じでしょうか。
浄土真宗は、分からなくなったらまず先人の記録の中に知恵を求め、先人の知恵を批判的にたたき
台に使わせて貰って新たな世界を切り開くというのが順序です。
先人の知恵を鵜呑みにすることはいけませんが、先人の知恵を無視するのは非常にもったいないこ
とです。
愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば、面白きことあるぞと、前々住上人、前住上人へ御申
し候う。是また、仏法の方には、いよいよ肝要の御金言なりと云々
人は四人も集まれば、仮にその中で三人は愚者であっても、一人ぐらいは智者がいる。どのようなこ
とでも、話し合ってみるといいだろう。きっと面白いことが起きるだろう。蓮如は実如にそのように話した。
これは、仏法においては最も大事な言葉である。
原則としてテーマは設けない方がいいでしょう。しかし、テーマを設けないと話ができない。テーマを
持った方が話しやすい。そういうことであれば、テーマを設けるのもいいかもしれません。しかし、テー
マは特に無い方が、究極的には形式張らずに自然になると思います。
仰せに、身を捨てて、平坐にて、みな同坐するは、聖人の仰せに、四海の信心の人は、皆兄弟と、仰
せられたれば、我も、その御言葉の如くなり。また、同座をもしてあらば、不審なる事をも問えかし、信
をよく取れかしと、願うばかりなりと、仰せられ候なり。
壇を設けず同じ平面で車座になり、相手の顔を見ながら話せるといいと思います。足が悪いと座りに
くいという場合には、いすを使うのもいいでしょう。
蓮如上人、順誓に対し、仰せられ候う。法敬と我とは兄弟よと、仰せられ候う。法敬、申され候う。是
は、冥加もなき御事と、申され候う。蓮如上人、仰せられ候う。信をえつれば、さきに生まるる者は兄、
後に生まるる者は弟よ。法敬とは兄弟よと、仰せられ候う。仏恩を一同にうれば、信心一致のうえは、
四海、みな兄弟と、いえり。
790:神も仏も名無しさん
09/01/16 00:52:34 D2iUS+BC
344 名前:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:16:29 ID:R9W9xUFx
蓮如上人は順誓に対して仰った。法敬と自分とは兄弟であると。そのとき法敬は言った。これ
は思いもかけなかった光栄なことです、と。蓮如は言った。信心を得れば、先に信心を得た者が
兄、後に信心を得た者が弟である。だから法敬と自分とは兄弟である。仏恩を同じように受け、
信心が一致すれば、あらゆる人が、皆兄弟である。
前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人の御兄弟へ仰せられ候う。四五人の衆、寄
り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべきの由、仰せ
られ候う。
蓮如上人は、法談が終わってから、そこに集まっていた四、五人の門徒の方に仰っていた。
四、五人の方々、グループを作ってお話し合い下さい。五人いれば、五人の方皆さん、真剣に
相手の話を聞き、心を割ってお話し合い下さい。そのように仰った。
たとい、なき事なりとも、人、申し候わば、当座に領掌すべし。当座に詞を返せば、ふたたび
いわざるなり。人のいう事をば、ただ、ふかく用心すべきなり。是に付きて、ある人、相たがい
に、あしき事を申すべしと、契約候いし処に、すなわち、一人の、あしきさまなること申しければ、
さように存じつれども、人の申すあいだ、さように候うと、申す。此の返答あしき、との事に候う。
さなきことなりとも、当座は、さぞと、申すべき事なり。
仮に賛成できないようなことでも、相手が何か言えば、まず最初は相手の心、思いに共感し
てみてください。瞬間的に反論の言葉を返すと、その方はその後、黙ってしまうでしょう。相手
が言ったことは、十分に注意して聞いて下さい。例えば、こんな話があります。
ある人が、「お互いに悪いこともどんどん自由に言い合おう」、そのように提案し、皆の賛成
を得、そのような話が始まりました。その中の一人が相手の欠点を言い出しました。すると相
手は、「仮に貴方が言うようにそうだとしても、結局人が言っていることではないか。そうでしょ
う」と反論しました。このような対応はうまくない。そのように蓮如上人は仰った。仮に、自分は
違うと思っても、瞬間的には「そうですね」と、相手の思いにまず共感してみてください。
791:神も仏も名無しさん
09/01/16 00:53:28 D2iUS+BC
345 名前:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/01/13(火) 11:19:55 ID:R9W9xUFx
無駄話で終わらせないフリートークは確かに難しいかもしれません。僕は、五会念仏をやっている坊さん
に、是非、カウンセリング心理学を勉強するように言っています。
蓮如の考えていた談合は、アメリカの心理学者カール・ロジャーズ博士が提案した非指示的療法という手
法に酷似していると考えています。特に僕は、ロジャーズ博士が後期になって提案したエンカウンターグル
ープが非常に参考になると考えています。
エンカウンターグループは、僕がかつて勉強していたころと恐らくだいぶ変わり、最近はかなり技巧的に
なっているのではないかと想像します。それを考えると、五会念仏とエンカウンターグループとを結びつけ
るということ自体が非常に技巧的ですから、エンカウンターグループだけはできるだけ複雑な技巧を使わ
ない原始的でシンプルなものがいいと思います。
談合は、単純に車座になり、自己紹介をしたら自由な話を始めるといいでしょう。ただそのとき、五人から
十人に一人程度は、カウンセリングの心得のある人が含まれていることが望ましいと思います。
カウンセリングの心得のある人の役割は、最後の聞き役です。聞き役ももちろん自由に話すのですが、全
員が勝手なことを言うだけで、相手の話を聞く人がいなくなった場合、聞き役は、自分だけはどんなことがあ
っても相手の話を聞く聞き役になるぞと、そのように決意しているひとです。最後の聞き役がいるかいないか
で、フリートーキングが単なる無駄話の集まりになるか、意味のある心の向上になるか、大きく違ってきます。
一月二五日に新宿で新年会を予定しています。五会念仏は四百年の眠りから覚め、社会で既に動き出し
ています。五会念仏に共感してくれてグループを作り、盛んに念仏研修をしているひとも、新宿に来るようで
す。
もしよかったら、あなたもいらっしゃいませんか。お寺での念仏研修はどのようにされているのか、現実の話
が聞けるでしょう。
792:神も仏も名無しさん
09/01/16 00:54:13 D2iUS+BC
真実の渡海の姿
606 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/25(木) 16:07:31 ID:a4yDmwCD
>>604
渡海を精神秒呼ばわりすることは、精神病患者への差別です。
渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。
607 名前:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2008/12/25(木) 16:51:35 ID:5fsit5Cx
>>606
> 渡海は善良な精神病患者とは比べものにならない最悪の下劣な奴です。
あなたの発言は不法行為(民法709条)の不法行為に当たると思うんですよ。
一度、裁判所でゆっくりお会いしましょうか?。
損害賠償金の支払いをお願いをすることはないと思いますが、貴方の住所・氏
名・職業を公開して、2ちゃんねるの宗教板に、公式に謝罪文を掲載させて貰うと
いうお願いをするようになるかもしれませんね。
実際には、裁判所の許可を貰い、貴方の名前で、渡海難が渡海難宛に書くので
すが、確定判決後ですから、法的・社会的には、貴方が僕に実名で謝罪したこと
になります。
これを強制執行と言います。 ひとつ、考えてみましょう。
793:7
09/01/16 01:07:07 noXB9V2U
あてにすべきは、あくまでも阿弥陀仏。弥陀たのめ、と何度も教えられてはいませんか?善知識はあくまでも弥陀の代官だと聞いております。
また、人間が思い込みや幻覚と本物を区別出来ない存在であることは、悩みではなく事実に過ぎないと思います。
人間が人間である限りは、疑煩悩も消えないですよね?ところがそれが障りとならないから、無碍の一道なんですけれど。
無碍の一道に出させていただくお力が、真実信心、南无阿彌陀佛にはあるのですけれど、煩悩の厚い雲に覆われております。
おそらく、あなた様のご同行さまの中には、誰かが信心決定しました、弥陀に救われました、と皆に告白するひとがあっても、
しばらく、例えば一年とか、様子をみたり、大丈夫だと思っていた人がある日「違っていた」と求道を再開したりすることがありませんか?
また、救われていない人を、真剣に仏法を聞き求めていないからだ、と責めたりしてはいないでしょうか。
そういう異安心があると聞いたこともありますので、心配しております。
794:神も仏も名無しさん
09/01/16 12:52:43 gNYEJvNc
>>788
>ただ、自分の信心が秘事法門であるという根拠がないですし、 異安心であるという根拠もありません。
根拠はありますよ。儀式でもらう信心であること、善知識に認定される信心であること、
赤ん坊にも信心を「授ける」というのも、秘事法門の特徴と思います。
>自分の信心が本物かどうかは、お聖教によって確認していく他はないと思います。
ええと、>>783で
>人から認定してもらわないといけない信心ではないのは、当然です。そして、自分もその人の一人であります。
と名言されましたので、>>784で
>つまり、「善知識」から「これであなたは信心得たのです」と認定されて
>得たことになった信心は、本物ではないと言うことですね。
と書きました。なぜこの部分を無視して、「本物かどうかは、お聖教によって
確認していく他はない」となるのか、教えて頂けますか。
795:神も仏も名無しさん
09/01/16 12:54:26 gNYEJvNc
>>793
>また、人間が思い込みや幻覚と本物を区別出来ない存在であることは、悩みではなく事実に過ぎないと思います。
これって結局、信仰のあきらめの表明なんですよ。
自力で他力を理解しようとすれば、結局、そこに留まらざるを得ないと思います。
他力信心には、そういう人間の思考の堂々巡りというか硬直を、洗い流すというか、
溶かす力があるんです。
>そういう異安心があると聞いたこともありますので、心配しております。
阿弥陀仏と本人の間のことですので、「様子をみる」とか、責める、とかいうことは
ありませんね。
阿弥陀仏に会えた、と言う人がいれば共に喜びますし、
阿弥陀仏のことをもっと知りたいと、求道を再会する人があればやはり共に
喜びますし、お慈悲がわからないと悩む人があれば、一緒に悩んで話をします。
共に喜ぶし、共に悩む、それだけのことです。ただ7さんたちのように、
儀式で信心得ましたという人がいれば、それは違いますよ、とお伝えします。
796:神も仏も名無しさん
09/01/16 13:21:06 33tFRJpC
>>785
問題をすり替えてませんか?
麻薬や覚せい剤は、人に迷惑をかけないとお思いですか?
宗教だって、詐欺だって、金儲けの手段にしている輩からしたら、騙すという立場に変わりは無いと思いますよ。
偽ブランドを本物だと信じて人に売ってしまう人だって居る訳だし、金儲けの為に、人を騙してお金を取る人間だって居るし、
人間には、欲という物があるのだから、騙すも騙されるも、信じるも信じないも
その人の思いひとつだと思いますがね。
善知識は、弥陀の代官ですよね。
だからと言って、善知識だと名乗る人間が、
『私は、弥陀の代官だ。私の言葉は弥陀の言葉だ!』
なぁんて言ったらお終いだと思いますがね。
偽者を本物だと思い込んでも、その人が満足していればいいじゃない。
結局、宗教や倫理に、何が正しいかなんて基準は無い訳だし、御文には、社会の通念を大切に、
世の中で決められたルールを守って生活をするようにと書かれている訳だし。
真剣に仏法を聞くって、私には、到底出来ない。
阿弥陀仏をたのむ事、頼りにする事、縋る事が必要であって、信じる事は必要ないものだと思います。
信じる心は、後から附いて来るものですよ。
信心とは、真の心と読むんだそうです。
弥陀を信じろなんて誰も言ってやしない。
弥陀をたのめとしか言っていない。
善知識から、南無阿弥陀仏が何であるか教えて頂いたからこそ、信じる心が芽生えるものです。
信心決定という言葉が近年、独り歩きをしてしまっている様に感じます。
信心決定が、とても特別なものに思われてしまっているのは、どうかと思います。
797:神も仏も名無しさん
09/01/16 13:44:50 gNYEJvNc
>>787
「五.白と黒との区別は誰でも判りますが、白と白との区別はなかなか解らないものです。 」
これは私も、よくわからないというのが正直なところです。
ただ、「信じる」と「信ぜしめられる」の水際なのかも…と思います。
自力と他力、「たのむ」と「たのみになる」との違いと言いましょうか。
他力を知るとは、白の外に広がる白を知るようなものなのかなあ、と。
他の方の感想もお聞きしてみたいものです。
798:神も仏も名無しさん
09/01/16 13:53:08 gNYEJvNc
>>796
偽物を本物と言い紛らわす人が、どんな風に迷惑かといえば、ブランド品の偽物を
(たとえその人はそう信じて幸せだったとしても)これ本物なのよ、と言って他人に
見せたとします。そして見せられた人が、なんだ、大したこと無いなと思ったとします。
これは、そのブランドを傷付けることになるわけですよ。
ブランドというのは、質の良いものを作り人を喜ばせようと努力した、職人さんの
誠意の結晶と言っていいと思います。
その誠意を、偽ブランド品はめちゃくちゃにしてしまうんですよね。
>信心決定が、とても特別なものに思われてしまっているのは、どうかと思います。
これって、偽物を本物と言って見せられた人が、「ブランド品といっても特別じゃないよ、
100円ショップでも売ってるよ」、というようなものなんですよ。
799:神も仏も名無しさん
09/01/16 14:58:34 syRzC3zL
>>798
で、君は真実のブランドを持ってると思ってるわけだ。
そう思い込んでるだけとも知らずに。
真実のブランド持ってるって思ってる自体が既に偽物だと気が付くまでに
もう十劫くらい時間が必要かも。
800:神も仏も名無しさん
09/01/16 15:50:52 gNYEJvNc
>>799
いつも間違い通しの私だと、気づかせていただいております。
十劫も兆歳永劫も、阿弥陀様とご一緒なら楽しい道行ですね。
有り難いことです。
ところで、偽物を本物と言い紛らわすことの弊害は、判っていただけたでしょうか?
801:729
09/01/16 19:06:50 sh67oOyD
>>797
レスありがとうございます
こうして2つの「白」が定義されると、栃平さんが言いたかった(かもしれない)ことが推測できます
原文のままでは、何を言いたいのやら、さっぱり?って感じです
私は、ID:gNYEJvNcさんが「自力の源は他力だ」と仰っているんじゃないかと思いました
そうすると、根っこは他力(仏力)だから、自力も他力によって作り出されたもの
それならば、どっちも「白」ってことですね
ホントは、自力も他力もない全他力ってことで
しかし、自分の業に意識が向いて他力をたのみとしていない時は
白(自力)の外に広がる白(他力)に気付いていない
それを栃平さんが
> 白と白との区別はなかなか解らない
と表現されている
このようにID:gNYEJvNcさんは解釈されたのかな?って思いました
802:神も仏も名無しさん
09/01/16 21:27:02 pkrsr+v9
>>797
初地以上の菩薩である聖者の積む善
と
阿弥陀仏が一切衆生に回向されている善
両者とも白
ただし前者すら聖者でなければ修められない
803:神も仏も名無しさん
09/01/16 21:39:36 gNYEJvNc
>>801
ありがとうございます。
概ね、書かれたとおりと思います。ただ、「自力の源は他力」というのは少し違うかも…。
少し、「妙好人」(鈴木大拙さん・ただしこの部分は楠恭さんという方が書かれたようです)
から抜粋してみますね。
「どうにもならぬ自分というとき、同時にはやすでにそこにそのどうにもならぬ自分を
眺めているもの、外に立ってそれを見ているもの、即ちその苦しむ自分を
超えているものがある。そうしてこれあるがために、どうにもならぬ自分はそのまま、
直ちに自己を超えている。即ち救われている。ここに弥陀の本願の働きが実感せられる。」
このように分析的に書かれると、何か違うもののように感じられてしまうんですけどね。
多分、頭で理解するのは簡単なのですが、実感として感じられるかどうかが
大切なのだと思います。
この栃平さんという方のお手紙の一部を書きだしてみます。
「わたしは五よくの世かいに、まよわせてもらいながら、ああ五よくがあればこそ、
転じかわらせてもらいるのです。ああありがたや、なむあみだぶつ。してみれば、
仏だね(種)とわ、どこにあるのですと、さがしてみましたら、よそになかった、
この私のあくだねでありました。」
804:神も仏も名無しさん
09/01/16 21:52:40 gNYEJvNc
>>801
>しかし、自分の業に意識が向いて他力をたのみとしていない時は
>白(自力)の外に広がる白(他力)に気付いていない
これを読んで、次のお言葉を思い出しました。
「この如来、微塵世界にみちみちてまします、即ち一切群生海の心にみちたまへるなり。
『草木国土ことごとくみな成仏す』と説けり。この一切有情の心に方便法身の誓願を
信楽するが故に、この信心すなはち仏性なり、この仏性すなはち法性なり、
法性すなはち法身なり。」(唯信抄文意)
>>802
なるほど、そういう味わい方もあるんですね。
でもすみません、よくわかりませんでした…もう少し詳しく教えて頂けますでしょうか?
805:7
09/01/17 01:21:29 x1ki09sr
>>794 秘事法門で検索すれば、世にはいろんな儀式があるようですね。
儀式で信心をもらうのが秘事法門なんですね。
私はそのような信心を知らないです。たのむ一念の時阿弥陀仏から頂くのが信心だと思っています。
あなた方の信じる阿弥陀仏は、赤ん坊には力及ばずなのですね。本願に矛盾すると思います。
男女老少を選ばず。なぜお聖教を無視されるのか、残念に思います。
806:7
09/01/17 01:41:51 x1ki09sr
後半の質問部分ですが、「何故お聖教によって確認するんだ?」ということですね。
「人から認定してもらう必要はないんですよ。それどころか自分自身で認定する必要もありません。」という意味の話を書きました。
そう書くと、あなたが主張する「本物だと分かるから本物なんだ」という意味で受け止めてしまうのでしょう。
そう受け止めてしまうと、「何故お聖教によって確認が必要なんだ?」と疑問に思われるのでしょうね。
お聖教によって本物かどうか確認していくことが出来ない信心があったとしたら、お聖教と矛盾する信心があったとしたら、
それは偽物かも知れないからです。
「本物だと分かるから本物なんだ」という主張だけでは、説得力が無いのです。
お聖教に根拠がなければ浄土真宗ではなくなってしまうでしょ?私が問題とするのはそこです。
807:神も仏も名無しさん
09/01/17 08:10:49 RAm39DxT
>>805
>たのむ一念の時阿弥陀仏から頂くのが信心だと思っています。
言葉の上ではお聖教のとおりですね。でも中身が肝心です。
善知識に、弥陀たのむ方法を教わり、指示通りのことをして、「たのむ」。
そして善知識に、これで信心授かったのですよと言われて信心決定したことになる。
これを儀式と言います。
>あなた方の信じる阿弥陀仏は、赤ん坊には力及ばずなのですね。
上に書いたような儀式で、赤ん坊に信心を「授ける」ことが問題なんですよ。
>>806
>後半の質問部分ですが、「何故お聖教によって確認するんだ?」ということですね。
いいえ。>>784で、
>つまり、「善知識」から「これであなたは信心得たのです」と認定されて
>得たことになった信心は、本物ではないと言うことですね。
と書いたとおりです。7さんが信心を「頂いた」時のことを考えてみてくださいね。
>お聖教によって本物かどうか確認していくことが出来ない信心があったとしたら、
>お聖教と矛盾する信心があったとしたら、 それは偽物かも知れないからです。
ということは、赤ちゃんはお聖教をまだ読めませんから、本物かどうか
確認できないわけですね。
あなた方の一流では、赤ちゃんが信心決定したと、どうやって判断されるのですか?
808:神も仏も名無しさん
09/01/17 08:43:54 CFqyiysd
お聖典を読めば、蓮如上人が、宿善の無い者には、一切を隠していた事が明らかです。
それに、信心を得た者には、この方を知らない者には、死んでも教えてはならないと口止めもしていますよ。
蓮如上人も秘事法門って訳だ。。。
老若男女という言葉の中には、生まれたての赤ん坊も死にかけている者も含まれていますが、赤ちゃんが含まれないとしたら、一切衆生を救うという阿弥陀様の誓い自体、否定してしまう事になりませんか?
知恵の無い者も救うと言う事は、どう説明するのでしょうか?
赤ん坊は喋れないし、知恵もありませんよね?
人間が勝手に区別しているだけでしょう?
信心を得たかどうかって、人間が判断するものではなく、阿弥陀様が判断する事でしょう。
所詮、人間の浅知恵なんて一番不確かなものだと思います。
阿弥陀仏にすべてをお任せできるか否かが問題であって、知る必要は無いのが、この教えです。
自我の心に囚われている内は、弥陀をたのむ事は困難なものなのかも知れないですね。
善知識は、弥陀にどうたのんだら良いのかを懇切丁寧に教えるだけですがね。
極楽に往く為の他人任せで行う修行が、南無阿弥陀仏の念仏の修行です。
自力も他力も修行するものです。
自力の修行を選ぶか、他力の修行を選ぶかの違いです。
他力の行は、阿弥陀仏の功徳をそのまま、丸貰い。
だから簡単なんですよ。
阿弥陀仏の編み出した行には、落ち度が無いという事です。
809:神も仏も名無しさん
09/01/17 09:13:50 RAm39DxT
>>808
>お聖典を読めば、蓮如上人が、宿善の無い者には、一切を隠していた事が明らかです。
この読み方がすでに歪んでいるのですけどね。>>769の通りです。
今の日本のように、宗教の自由と安全が曲がりなりにも保証された状態では、
隠す必要も無いんですよ。どうぞ安心して明らかにして下さい。
>善知識は、弥陀にどうたのんだら良いのかを懇切丁寧に教えるだけですがね。
「そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
ひとをすすむべきばかりなり。」
蓮如上人のお言葉と、あなたの言うことには決定的な違いが有りますが、
わかりますか?
>老若男女という言葉の中には、生まれたての赤ん坊も死にかけている者も
>含まれていますが、赤ちゃんが含まれないとしたら、一切衆生を救うという
>阿弥陀様の誓い自体、否定してしまう事になりませんか?
>知恵の無い者も救うと言う事は、どう説明するのでしょうか?
問題のすり替えですね。
もう一度聞きますけど、あなた方の一流では、赤ちゃんが信心決定したと、
どうやって判断されるのですか?
>所詮、人間の浅知恵なんて一番不確かなものだと思います。
これが、あなたの一流の教えなんですね。
だから考えることを放棄して、「100発100中、信心決定させられる善知識」をたよりにし、
その言うことを聞いて自分が「弥陀をたのんだ」という体験・儀式に縋るわけですか?
810:7
09/01/17 09:25:58 MBoQSJKl
「善知識に、弥陀たのむ方法を教わり、指示通りのことをして、「たのむ」。」これを儀式だといわれるのですね。
そうすると、あなたは、善智識に、弥陀にどうしたら救われるか、聞いたことは一度も無いのですか。善智識の言われることに従わず、
全て否定して、ついに信心決定したのでしょうか。
善智識や同行に囲まれて、自分の信仰の現状を告白して、皆に詰められて、その時に、あるいはその後に、信心決定したり出来なかったりする儀式はどうなんですか。
811:7
09/01/17 09:32:21 MBoQSJKl
また、あなたのような信心を得るには、知恵才覚が必要だということですね。読解力や思考力、記憶力、観察力、いろんな力を必要としていらっしゃるようです。
認知症のご老人、生まれたばかりの赤ん坊は救えないと、断言されるのですね。
御文章と矛盾しませんか?知恵才覚もいらず、と言われている言葉を、そのまま受け止めることが出来ないのですね。
812:神も仏も名無しさん
09/01/17 09:33:49 RAm39DxT
「思い込みでもいいや、どうせ人間の判断力なんてたいしたものじゃないんだから…」
これは信仰のあきらめです。ここの壁を破れるかどうかが、難中の難を
突破できるかどうかの変わり目なんです。
思い込みでないことは阿弥陀様と三世諸仏が証明してくださるんです。
善知識でもなく、体験でもなく。
そこまで聞き抜かず、「心得たり」と思っている…7さんたちの一流も
そうなんでしょうけど、悲しいことですね。
813:7
09/01/17 09:36:31 MBoQSJKl
確認作業など、救いの条件ではないですし。信心決定した直後に寿命が来て、死ぬ方はどう確認したらいいのですか。時間などありません。
赤ちゃんが信心決定したかどうかは、阿弥陀仏にしか分かりませんよ。それでも弥陀をたのめば0歳児だって御同行です。
814:神も仏も名無しさん
09/01/17 09:40:31 RAm39DxT
>>810
「弥陀にどうしたら救われるか」聞いたことはありませんよ。
「どうしたら」は自力です。
自力の方法を教わって、他力に救われると言うことはありません。
>全て否定して、
極論ですね。一心一向に弥陀をたのみたてまつるべし、のお言葉の通りになった
(「した」ではありません)。否定はしておりません。
>善智識や同行に囲まれて、自分の信仰の現状を告白して、皆に詰められて、
どうなんでしょうね。そういう「儀式」に出合ったことが無いので知りません。
信心の沙汰は、蓮如上人が勧められていることですし、7さんも否定はされないですよね?
>>811
断言していませんよ。>>809を読んでくださいね。
しばらくレスできませんが、ごめんなさいね。
815:7
09/01/17 09:53:25 MBoQSJKl
>>812 思い込みでいい、そんな主張をしたことはないですから、それこそ思い込みが激しいと思いますよ。
「聞き抜く」という言葉がお好きなのですね。壁を破る力をお持ちの方が、救われる教えなのですね。
どうも他力から離れてしまっているような。あなたの救いが、思い込みで無ければいいのですが。
816:7
09/01/17 09:59:44 MBoQSJKl
>>814 「どうしたら」は自力であると聞いたものだから、全ての「どうしたら」を否定しないといけないようですね。
自力は自力では絶対捨てられないのですから、どうしたら「どうしたら」を捨てられるだろう、という無限パターンの苦しみにハマルだけです。
そこでとことん追い詰められて、精神的限界から突然新しい心境に総転移することがあるかも知れませんけれど、それが信心だと思い込みがちです。
817:神も仏も名無しさん
09/01/17 13:38:05 CFqyiysd
真剣に聞く事が必要だったら、救われる範囲が限られてしまいますね。
「聞き抜く」には、どういう事をしたら良いのでしょうか?
理解するだけの能力が無いと、どんなに救われたいと思っても無理という事になりますね。
知恵が要らないという事は、物事を理解する能力が無い人と取れます。
人間真剣になんて無理なんですよ。
こちらから、何もしない事、阿弥陀様に身も心も委ねる事が出来れば、あとは、何もいらないはずです。
自分で行動を起こすこと自体が、自力ですよ。
自分は何もしない事が肝心なんです。
仏法は、赤子になりて聞けと言われていますよ。
浄土真宗の教えは、知りそうも無い人に相尋ねよと言われています。
宿善のある人には、とても開かれた教えですけど。
浄土真宗は、どんなに知恵才覚があろうと、馬鹿に徹する事が一番だと思います。
浄土真宗は、理解しようと思えば思う程、教えから遠のいてしまうと思います。
赤子に聞けっこないと決め付けているうちは、到底弥陀の慈悲がどれほど深いか感じる事は出来ないと思います。
赤子でも聞ける教えとは、いかなるものか?
儀式なんてしていませんよ。
阿弥陀仏に帰命しただけですから。
818:神も仏も名無しさん
09/01/17 13:43:28 wU3yiOkU
蓮如上人は獲信者?それとも相承の口伝を受け継いだ善知識?
819:神も仏も名無しさん
09/01/17 13:46:11 wU3yiOkU
>>630
これは気になる。誰か答えられる人いないの?
820:神も仏も名無しさん
09/01/17 13:52:51 wU3yiOkU
善知識が宿善・無宿善を見分けることが出来るという。
善知識は普通の人間とは違う特別な能力を得るのでしょうか?
821:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:08:00 CFqyiysd
>>818
獲信者であり、次第相承の面授、口授口伝を受け継いだ、真の善知識ではないのですか?
善知識が宿善の有無を見分ける訳ではありません。
阿弥陀仏以外に誰が見分けられるというのでしょうか?
822:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:10:31 wU3yiOkU
宿善のないもの(生涯善知識にたどり着けなかった者)はどうなるのですか?
無間地獄ですか。
823:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:17:04 7eRrTiAt
>>822
今から善業を積めばよいのです。
824:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:20:15 wU3yiOkU
蓮如上人が善知識に遭うために善業をせよ、と
おすすめくださったわけですね?
825:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:25:09 pokdclIE
>>804
A 二巻鈔 註釈版P537
「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
B 本典 註釈版P243
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」(散善義)といふは、
白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
>白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
>白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり
826:神も仏も名無しさん
09/01/17 14:34:08 7eRrTiAt
>>824
善業するのは善智識に遭うためじゃないですよ。
まあとにかく善業すればよいのです。
827:神も仏も名無しさん
09/01/17 17:15:33 gR546rbQ
ここではよく儀式と書かれてるが、三業派のことやろ。
s会あたりじゃ土蔵秘事と一緒やちゅうていうてはるようやね。
江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。
あれやろ。論註さんに書かれてはるように帰命とは礼拝やねんってとこあたりやね。
儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
ま、これがあったばっかりにうちら本山は無帰命安心に陥りそうになったんやけどな。
828:神も仏も名無しさん
09/01/17 17:29:54 RAm39DxT
>>815
それは失礼しました。
>>816
自力でない「どうしたら」があると仰っているように見えますが、それでよろしいですか?
>>817
ずいぶん無気力な内容に見えますね。
ちなみに、817さんは、「赤ん坊に信心を『授ける』ことができる善知識」は存在する
と思いますか?私は存在しないと思いますけど。
7さんたちの善知識は、「弥陀にどうしたら救われるか」を教えてくださるそうですが、
教えられたことができない人がいたら、どうなるんでしょうね。
「能力が無いと、どんなに救われたいと思っても無理」ということになりますけど。
7さんと817さんの聞いておられる教えは、違うのでしょうか。
7さん ⇒ 善知識にどうしたら救われるかを聞いてその通りにする。
817さん ⇒ 自分は何もしない事が肝心。
829:神も仏も名無しさん
09/01/17 17:50:25 RAm39DxT
>>825
ありがとうございます。すごいなあ!お聖教に説かれている通りですね。
おそらく栃平さんという方は、お聖教の細かい知識は持っておられなかったかと思います。
(本の中に、あまり字が読めず、ひたすら説教を聞くばかりだったとありますので)
でも、平易な言葉で、ずばり本質をついておられたんですね。
こうしてみると、「自力(聖者の善)の源は他力」という、>>801さんの書かれたこととも
符合してくるように思います。
830:7
09/01/17 18:24:35 MBoQSJKl
自力ではない「どうしたら」があるとすれば、他力ではないですか?
ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。赤ん坊であれ、老人であれ、青年であれ、
人に他力信心を与えることが出来るのは阿弥陀仏だけでしょう。人の力はおよびません。
阿弥陀仏は十方衆生と誓われ、蓮如上人も男女老少を選ばずと仰られている通り、阿弥陀仏のお力ゆえに赤子の獲信はあっても不思議は無いと思います。
凡夫が不退転の身になる、また浄土へ往生し仏になる、これ以上に不思議なことはないのですから。
831:神も仏も名無しさん
09/01/17 19:55:52 RAm39DxT
>>827
いろいろご存知なんですね。
>江戸期に異安心とされたが、主張の全部が否定されたのとはちとちゃうねん。
>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
このあたり、ぜひ詳しくお聞きしたいです。
>>830
確認します。「弥陀にどうしたら救われるか」とは「弥陀たのむ方法」でよろしいですか?
>ちなみに私も赤ん坊に信心を授けることの出来る善智識はいないと思いますよ。
そうですか。ひとまず同意見で良かったです。
ではもう一つ。浄土真宗は元々、老若男女を問わない救いだと言うことは
大前提として、その中でも「赤ん坊でも獲信できる」、特別な方法がある
と思われますか?
832:神も仏も名無しさん
09/01/17 21:11:21 gR546rbQ
>>831
赤ん坊のご信心のお話でっか。
これはねぇ、大事やと思うで。小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。
まあ、個人の領解の問題をとれば、言葉も分からんような小児にご信心の何たるかが分かろうはずもない。
となりますわなぁ。
だけど、願成就文よ~見てみんとあかんと思うんですわ。あらゆる衆生やからね。
そもそも、世界中のすべての人がお浄土に往生でける準備は仏の方からはでけておるわけや。
そのことわりを聞くんには現在過去未来と時間差があるわけや。
法からみれば、小児だって往生でけることに疑いはないわけよ。
小児には無理やと思うんは、仏智を疑っておるちゅうことにもなるかも知れんなぁ。
そのあたりは宗祖の信巻あたりよ~読んでみてや。
833:神も仏も名無しさん
09/01/17 21:12:21 gR546rbQ
>>831
>儀式ちゅうよりは行信の行の問題やね。
何か怪しいことしとるやないかと思うわな。本山でもそのあたりは昔から調べてたりしとるわけ。
何の根拠も持たんあっやし~ことしとるところもあったりするから実際はごちゃごちゃやけどね。
行の一念と信の一念は一体やよね。そこんとこはよろしおまっか?
是非を凡夫が勝手に思い定めるんを信一念とは言わんのやわ。
お浄土間違いなしや。疑いの~なった。そんなん信一念としたらあまりにお粗末やわ。独覚やから自力の域を出てへんわけや。
疑心あることなしちゅううんは、阿弥陀さんの御心は清浄で疑心がありませんわ。
そこをたのみとする以外に信一念なんかないんですわ。
でもな、ある時点でわしは阿弥陀さんの誓願をたのみとしたんで万事OK!やとなると、
一念義っちゅうもんになって、これには相続心ちゅうもんがないんや。
阿弥陀さんの誓願をたのみとする心ちゅうもんが、何で金剛心なんちゅうもんに喩えられるかっちゅうと、
それは摂取不捨のお約束があるからなんやね。ここは大事なことやと思うよ。
行の問題の件やけど、お称名は真宗ではあくまでも御恩報謝やといわれとるわけや。
けどな、信は必ず念仏を具すとあるんや。信があっても念仏せんのは栓なきことなんやて。
真実の行はあくまでも称名念仏や。これは宗祖が言われとるから間違いないやろ。
三業派の人はこの称名念仏をもっと細やかに言わはったようやで。
念仏は五念門のご修行のかたまりなわけや。やから、簡単に言うと礼・讃・作・観・廻を念仏の行としはったんよ。
37願あたりはそれをよ~あらわしてるんちゃうかな。
ま、種々の方便でご信心を発こさせるちゅうて言われとるわけやから、
三業派の人の中にも真実信にたどりつく人もおるんかとも思いますわ。
834:7
09/01/17 21:59:06 x1ki09sr
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(顕浄土真実教行証文類)
何故親鸞聖人が「信を獲ば」ではなく「行信を獲ば」と書かれたのか、とても大切なところだと思います。
「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」、言い換えるならば「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が救われる方法、
それを考え出され実現されたのが阿弥陀仏であり、その力があるのが御名号、念仏、南无阿彌陀佛ではありませんか?
念仏以外に凡夫が救われる方法とやらを私は知りません。
赤ん坊でさえ獲信出来ないような教えであれば、間違いだらけの自分、無垢さ素直さも失った自分、余分な知識を詰め込んだ自分、
ましてや救われようがないではありませんか。
835:神も仏も名無しさん
09/01/17 22:42:59 gR546rbQ
>>834
行信やね。行だけでも信だけでもない、行信なんやね。
念仏以外に救われる方法を知らんと言われるんは三業派の方でも一本芯が通ってますな。
でもな、お念仏を真実行とするんはええねん。宗祖がわざわざ行巻を書かれはったんやからな。
そこはええと思うよ。たぶんやけど、このお念仏は五念門の行として行じはるんやと思うねん。
ただな、お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。
そこんとこが三業派の方のち~と理解でけんところなんよ。
836:神も仏も名無しさん
09/01/17 23:43:54 gR546rbQ
>>834
小児往生の話してはるんでち~とばかり実地のお話な。
これは機を問う教えやと絶対に不可能になるねん。あくまでも法に問わんといかんのね。
往生は一定なりと行信獲たらな、まず妻子に聞かせなあかんと祖師は言わはってる。
でもな、同時に宿善なければ力及ばずといわれてはるんや。
これは実地の問題やねん。いろんな同行さん見てると爺さん婆さんだけじゃない。小児もいてはる。
障りの多い体もろうて生まれて来られた人もいてはるわ。もう説法なんか間に合わん人もいてはるんや。
そういう人に仕方ないからお念仏しましょ。今生は残念やったけど来世で助かりましょ。だけしか説法でけんかったら真宗ちゃうねん。
それじゃ平生業成が聞いて泣きますわ。
宗祖はお浄土に往ける往相だけのお話をされておらんねん。同時に還相ちゅう廻向のお話もされてんねん。
ほな、還相ってなんや?と同行でも知らん顔の人大勢いてはるわ。
宗祖も祖師の引用でお浄土から戻ってきはって、お釈迦さんのように衆生済度でけるようになるちゅうて言われてはるわ。
そのあたりはもっと突き詰めて宗祖の教理を知らなあかんと思いますわ。
837:神も仏も名無しさん
09/01/18 00:03:40 ou8/kec8
>>832
>小児往生の論争はそれこそ大昔からあるからねぇ。
そうなんですか~。知りませんでした。
私自身は、阿弥陀仏の本願によって0歳児でも救われることはあるだろうと思います。
ただそれは、浄土真宗の教義において本当に当たり前のことですよね。
浄土真宗の中でも、特別な流派においてのみ(特別な方法を用いてのみ)
それが確実に可能であると言う人があれば、おかしいなと思うわけです。
ぶっちゃけそれは、「隠し念仏」のWikiにある、「生まれてまもなくの赤子に
信心を与えることはオトモヅケと呼ばれる」というものに該当すると
思われるからです。
>>833
なるほど、判りやすく教えて頂きありがとうございます。異論ありません。
>>834
「浄土真宗は元々~大前提として」の部分、よく読んでくださいね。
元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。
その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
あると思われますか?とお尋ねします。
そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
いるのでしょうか?
838:神も仏も名無しさん
09/01/18 00:37:18 zpHSu8YM
そんなことよりみなさんは江原スピリチュアルをどう思いますか?
どうやら彼はいままでのテレビおかかえインチキ霊能者とは違うようですね。
参考
第2の江原を探せ! (単行本) 出版社: 扶桑社 (2008/12/11)
空前のスピリチュアルブームのなか、肯定派は妄信し、否定派は全否定を繰り返すだけで議論が噛み合わない。
第1章 スピリチュアル検証の趣旨
第2章 江原氏が認めたカウンセラー
第3章 有名人も会いに行くカウンセラー
第4章 クチコミで薦められたカウンセラー
第5章 本やWEB上で見つけたカウンセラー
第6章 ニセモノはこう見抜け!9つのポイント
第7章 結論―スピリチュアルの世界はあるのか
839:神も仏も名無しさん
09/01/18 00:42:25 PObOWZzY
>>837
赤ん坊でも同じですよ。一心に阿弥陀様におすがりし、南無阿弥陀仏と念仏すればよいのです。
親鸞様によれば、念仏は声に出せなければ心の中で念じてもよいのです。
赤ん坊は言葉が話せませんから、心の中で阿弥陀様のお計らいにより念じるのです。
840:7
09/01/18 10:11:35 TLIEfav/
>>835さんへ
真宗に詳しい方がみえて嬉しいです。835さんは、私を三業派と言われていますが、どこでそう判断されたか知りたく思います。
五念門についてもお詳しいようで、ワクワクしてきました。
841:7
09/01/18 10:17:35 TLIEfav/
>>837さま
wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。
おそらく三業惑乱の反動なのか、獲信に関わる全ての「行」を否定するようになった流れの方ではないかと推測します。
自分の得た信心は絶対である、という前提でお話をされているようですから、それは結構なことですけれども。
ただ思い込みや偏見が前提なので、祖師聖人の径術というお言葉まで怪術と読み間違えたりする人もあるのではないでしょうか。
842:7
09/01/18 10:27:15 TLIEfav/
「本物だと分かるから本物なんだ」こういう結論に達する教えには、今は魅力を感じないのです。かつてはそういうものを求めました。
佛教であるからには、真宗であるからには、教えと符合しなければならないと聞いて、全くそうだと思ったのです。
自分から見ると教えといろいろ矛盾する信心を得ているのに、どんな指摘もかわして、高い目線から断言される方を見るにつけ、
「そちらの信心が本当で本物ならちゃんと説得力のある話をしてくれよ」と思いますけれど、これって自分もそうなのでしょうね。
どれだけ頭ごなしに否定されても、ホクホクと嬉しくなってくる。そんな信心を得てしまうと、聞く耳が無くなるのでしょうか。
843:神も仏も名無しさん
09/01/18 10:29:07 HIxxB9Is
江戸時代の「三業派」って秘密の口伝を受け継いだ善知識とか、
「秘密の六字のいわれ」を聞いて、信心を決定させてもらう、
そういうものなんでしょうか。
智洞は全国から来た参詣者に堂々と法話した、ということみたいですが。
それとも参詣に来た門末に片っ端から秘密のたのみ方で信心を獲させたのだろうか?
844:神も仏も名無しさん
09/01/18 10:47:23 HIxxB9Is
オモトヅケは東北の隠し念仏ですね。
東北の隠し念仏は研究者が入って調査をしています。
研究書も公刊されています。習俗化が著しいと思われます。
それよりもwikipediaのリンクにある南山大学の論文のほうが
面白いですよ。>>837
845:7
09/01/18 11:19:50 TLIEfav/
信心決定を求めて、信心決定した人を探すために建ててもらったこのスレ。
世の中にはいろんな信心があるようですけれども、いろんな人が書き込んでくださるようになってとても嬉しいです。
皆それぞれが「これだ!」と思うところへ、ご縁のあるところへ導かれて、信心決定していくのでしょう。
それぞれ「自分の得た信心が本物だ」と皆思っているわけです。しかし、全てがどれも本物ということは、恐らく無いのでしょう。
全ての人が早く真実信心に辿り着けますように。
南无阿彌陀佛
846:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
09/01/18 14:28:35 GAfoorww
>お念仏の行だけでは往生でけへんことは確かやよ。行一念で往生するんやないんやから。
あくまでも行と信は同時やねん。時も日も隔てんと言われとるわけやから。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。また「如彼名義欲如実修行相応故」と言えり(信の巻)。
真実の信心があるなら、その人は必ず名号を称える。名号を称えているからといって、その人は必
ずしも信心があるという話ではない。だからこそ、世親菩薩は浄土論で、信行が併せて「我一心」と仰
った。
極楽浄土の真の入口はどこか。
弥陀定散の念仏、これを浄土の真門と曰う、また一向専修と名づくるなり、知るべし(愚禿抄)。
弥陀定散の念仏、これが極楽浄土の真の入口である。一向専修の念仏である。
念仏ビギナーは行があって信がない。念仏は、信心ができるのを待って称えるものではない。信心
の無い念仏を称えることは恥ずかしいことではない。みんな最初は暗中模索で始めるんだ。信心がな
いまま努力してひたすら念仏をとなえる。そこでやがて変化が起きる。信心はきっと備わってくる。その
とき信と行と併存する(果遂せずんば、正覚を取らじ。二十願)。
847:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI
09/01/18 14:30:47 GAfoorww
>>846 は、>>835へのレス。
848:神も仏も名無しさん
09/01/18 15:50:21 q+mvcjaY
>>837
隠し念仏はな、大別すれば三業派やねん。でもな、やらはってることがお聖教に根拠がないねん。
隠しと言葉が入るから何だか怪しくなるねん。土蔵秘事ちゅうもんは土蔵の中で行しはるねん。
でもな、これもお聖教の根拠がないことしはるねん。行はあくまでも称名正行しかないねん。
正統派ちゅうかの三業派さんはな、身業、意業、口業で阿弥陀さんをたのむことを行とされるねんな。
これはお聖教の五念門に根拠があるねん。あながち誤りとは言えんのよ。
ただな、大事なんは行だけではあかんねん。信が伴わんとあかんのや。
行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。
>>841
それは否定でけんなぁ。惑乱以降、行を無視する流れになったんは確かやねん。
お説法聴聞だけでご信心頂けるっちゅう考えになったんよ。ほなら宗祖や祖師の行論はいらん長物になるねん。
そんな聴聞道場に限って、お念仏の声が聞こえんねん。矛盾感じんのかいなぁ。と思うわ。
そやないと思うんや。あくまでも行信なんやと思うで。
849:7
09/01/18 16:04:31 TLIEfav/
>>848 信を伴う行でなければならない、私もそう思います。
848さんは、信心決定されていますか。また、次第相承の善智識については、どのように理解されていますか。
850:神も仏も名無しさん
09/01/18 18:48:57 ou8/kec8
>>844
ありがとうございます。これは読んだことがあります。
多分、こういうことなんでしょうね。
「秘密主義は裏在家であることの意義を高めてくれる。秘密を伴う排他性によって裏
在家の各人は自を真理を密かに知りえた幸運な少数者とみなすことができる。さらに
秘密主義は成員数を限定することで統制力を高める。教えを隠すことで裏在家は講へ
の加入者の選出や教えの解釈にあたっていっそう強い力を発揮できる。また善知識と
指導者たちは外部とくに彼らを異端視する真宗僧侶から権威を脅かされずにすむので
ある。」
(論文より引用)
>>848
ありがとうございます。いろいろ勉強になります。
>行だけやとな、善知識だのみちゅうもんに陥りやすいねん。
本当に、そうですね。信がないと、何かを頼りにせずにいられないでしょうから。
あと、>>843についてはどう思われます?
>>845
浄土真宗には本当に、様々な異安心がありますね。
ですが、三業派や秘事法門に留まっておられる皆様も、御同朋御同行。
暖かき阿弥陀仏の御ふところに包まれし妙味、早く共に喜びあえるように
なればと念じています。
それには、昔の妙好人も言われた通り、「晴れたお慈悲を聞きゃ晴れる」、
これに尽きると思います。
851:神も仏も名無しさん
09/01/18 18:56:54 ou8/kec8
>>841
>wikiで真宗と秘事の違いが分かるなら、苦労しないと思います。
7さんは、Wikiにない判断材料で、「真宗と秘事」の違いを判っておられるのでしょうか。
ぜひ教えて頂きたいです。「ちゃんと説得力のある話」をして頂けると幸いです。
それから、>>837の以下の部分と、>>755へのお答えもお待ちしていますね。
>元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」凡夫が、ご名号によって
>救われる教えが、浄土真宗というものですよね(違っていたらびっくりです)。
>
>その上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」「特別な方法」が
>あると思われますか?とお尋ねします。
>
>そして、そのことと7さんの言われる「弥陀たのむ方法」とは、どのように関係して
>いるのでしょうか?
852:7
09/01/18 21:03:19 TLIEfav/
>>851 何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。
赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。十方衆生を救うと誓われた阿弥陀仏を疑うのなら救われないとしか思えないでしょう。
「特別な方法」にわざわざカッコをつけてあるということは、「特別な方法」という言葉を自力の代名詞として聞いてきたからでしょうか。
他宗他派の方から見れば、南无阿彌陀佛こそ特別な方法にみえることでしょう。そういうことなら、特別な方法とは南无阿彌陀佛のことになるでしょう。
十劫より昔に信心決定した人はいない、こう理解するのが間違いですか?久遠実成の阿弥陀仏だから、十劫より昔にも信心決定した人がいるという教えでしたっけ。
もしそうなら自分の不勉強を恥じ、素直に謝ります。どうか、十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。
853:神も仏も名無しさん
09/01/18 22:56:15 q+mvcjaY
>>850
次第相承の善知識はんでっか。真宗聖典あたりではうちらご本山の歴代法主様をいうちゅうて書いてあるわな。
相承の義自体は仏教ではそんなに可笑しなことではないねん。むしろ当たり前のことやねん。
何でかわかりまっか?簡単やねん。仏さんがおられん世の中やからお聖教を頼りとせなあかんやろ。
でもな、経典は隠顕があんねんな。そのまんま読んだだけでは絶対に分からん部分があんねんな。
そんでもって、七祖はん方は仏証を乞うはってそれを少しづつ明らかにして下さったんやねぇ。
宗祖は師の法然さんの仰せに従いさらに突き詰めて教行信証書かれはったんや。
皆さんよ~お勉強されてはるんで分かるかと思いますが、難解なんやわ。これが。
でな。突然に教判にない自義を立てはる人を防ぐ意味があるんや。相承にはな。これは面授口決ともいうんや。
854:神も仏も名無しさん
09/01/18 23:18:11 q+mvcjaY
>>850
続きな。
秘密の口伝でっか?そもそも口伝なんやから口外しないのとちゃいますの?口決ちゅうんや。仏教では。
その教判の受け継がれた思想ちゅうか、流れちゅうかを同行に聞かせてあげるんとちゃいまっか。
真宗にはな、宿善ちゅうもんがあんねんな。そのへんのな~んも真宗どころか宗教にも興味のない人に
無理に聞かせるんとはちゃうねん。そういう無分別なことはすな。ちゅうて中興の蓮如はんは言わはってるわ。
こういうのを抑止(おくし)ちゅうねん。
片っぱしから行のみで決定させた?そもそも行のみで決定でけるんかいな?
秘密のたのみ方ちゅう言い方はそれを知らんから秘密と感じるんとちゃうのん?
極秘やったら、だ~れも知らんままなんとちゃいますの?聞こうとする人には聞かせてるとちゃいますの?三業派の方々は。
惑乱もあったし、取り締まりも厳しかったんで、自流を大事にされはってんのとちゃいまっか。
855:神も仏も名無しさん
09/01/18 23:32:25 q+mvcjaY
宗祖は不可称・不可説・不可思議のお助けやちゅうて言われとりますわ。
これがな、こんなんが信心ですわ。とかな、自身の体験や境地のようなもんを信としたら自力の域で~へんねん。
そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。
ご誓願と名号法をもって易く往生でける。とたのみとする以外に何があんの?と思いますわ。
いくら金剛心になったちゅうてもそんなん水に描く絵と同じとちゃいますか。
金剛心はな、お聖教にもあるとおりに摂取不捨があるからそう喩えられるんや。
さ、お念仏させて頂いて早よ寝ましょ。
856:神も仏も名無しさん
09/01/18 23:54:38 ou8/kec8
>>852
>何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに
>根拠があるかないかです。
なるほど。ありがとうございます。ちなみにお聖教というのは、隠された秘伝の書と
いったものではなく、誰にでも確認できるものですよね?
>赤ん坊でも救われるのが南无阿彌陀佛です。
以下、大前提を繰り返しているだけに見えますね。あらためてお聞きします。
元々、「男女老少を問わない」「知恵才覚もいらない」、凡夫がご名号
(南無阿弥陀仏)によって救われる教えが、浄土真宗というものですよね。
これを大前提とした上で、浄土真宗の中でも、「赤ん坊でも獲信できる」
「特別な方法」があると思われますか?
そう思う、か、そう思わない、かのどちらかでいいですよ。
「」をつけているのは、わかりやすくするためです。
>十劫より昔にも信心決定した人がいるという根拠をお聖教にて教えてください。
「しかれば、海徳仏より本師釈尊にいたるまで、番番出世の諸仏、
弥陀の弘誓に乗じて、自利利他したまえるむね、顕然なり。」(口伝抄)
「また竪を兼ぬるとは、遠く三世に亘りて断絶することあることなくして、
利益尽くることなし。寿命無量は、これ竪の辺に約す。且く因願に依れば、
十劫成覚の身たりといえども、諸仏の寿命、平等の果海は闕減あることなし。
ただこれ本覚弥陀の寿なり。」(六要抄)
857:神も仏も名無しさん
09/01/19 00:01:24 f53NjgAi
>>854
お、なるほど。お答えありがとうございます。大体判りました。
「ご本山」にもいろいろあるみたいですね。
>>855
>そんなんやったら、可称・可説・可思議になるねん。
そうですね。
信心について「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」とか考えちゃうのは、
自力なんでしょうね~。
自分で水に書く絵ではない信心について、語ってくださるかたがもっとあれば
嬉しいなと思います。
まあこのスレに新しい方が来られるのが、そもそもあんまり有り得ないんですけどね。
858:7
09/01/19 00:15:52 GQPCtULV
>>853 レスありがとうございました。お念仏させていただいて寝ることにします。
859:7
09/01/19 00:35:02 GQPCtULV
>>856様 お聖教というのは、お寺さんや図書館、本屋で読めるものだと思います。
真宗か、秘事かを区別するには、それ以外に判断材料はないと私は思います。他にあれば是非教えてください。
赤ん坊でも救われる特別な方法、その方法が仏法だと思います。仏法は、あると思います。
十劫より昔に信心決定した証拠としてあげていただいたお聖教ですけれど、どうして根拠になるのか分かりませんでしたので、
お手数ですがお時間のあるときにでも解説していただければ幸いです。
「ちゃんと説得力のある話をしてくれよ」などと書いてしまってごめんなさいね。随分お腹立ちということは分かりました。
私の理解力が足らないのに、そんな生意気な言葉をスレに書き込んでくださる親切な人に投げかけたことをお詫び申し上げます。
860:神も仏も名無しさん
09/01/19 08:06:35 vQnA0x+B
人間の考えている常識は、阿弥陀仏の常識には当てはまらないと思います。
自分の人間としての知識など、通用しませんよ。
人間がこの世に存在している物のどれだけを知っているのか、理解しているのか。。。
この地球の事ですら、満足に知らないのが現実でしょ。
宇宙の果てだって、知らない訳だしね。
人間が知っている事なんて、ちっぽけなものです。
861:神も仏も名無しさん
09/01/19 11:01:14 BplQvqdt
>>852
>何が真宗かは、お聖教によるしかないと思います。真宗と秘事の違いは教えに根拠があるかないかです。
それで言うと、Wikiと特に矛盾することはないようですね。
Wikiは、様々な研究の結果などを踏まえて書かれているようです。
これを否定されるのであれば、お聖教や、他の研究文献などから、
論拠を挙げていただきたいと思います。
>>859
お答え、ありがとうございます。まとめますと、7さんは、浄土真宗の中でも、
「赤子でも獲信できる」「特別な方法」があると言われるわけですね。
ではこの「特別な方法」と、7さんが言われた「弥陀たのむ方法」とは
どのような関係があるのですか?
>十劫より昔に信心決定した証拠として
難しくてすみません。私の理解を書きます。間違っているところがあればご指摘ください。
(口伝抄のお言葉)
「久遠の昔からの全ての仏様が、阿弥陀仏の弘誓によって、
悟りを開き、衆生を助けてくださっていることは、明らかです。」
(六要抄のお言葉)
「過去、現在、未来にわたって途切れることなく、私たちを助けてくださっていることを、
寿命無量と言われています。阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
862:神も仏も名無しさん
09/01/19 11:04:44 BplQvqdt
最後が抜けましたorz
「阿弥陀仏は十劫の昔に成仏なされたと言いますけれど、
そもそも仏様は常住不変であり、欠如ということはないのです。」
863:神も仏も名無しさん
09/01/19 11:26:41 BplQvqdt
何にもわからぬ凡夫に、わからせて頂くのがお六字の妙味。
智恵のないものが仏智を頂くことが、不可思議です。
怒りや悲しみなどの心のざわめきも、みーんな、広く明るい
功徳の海に溶けさせてもらいます。
これが喜び。
日々起こることすべて、阿弥陀様のお手回し。
お六字となえて、阿弥陀様を思って、いえ、
阿弥陀様に思われて、極楽の日暮らしさせて頂きましょう。
864:神も仏も名無しさん
09/01/19 15:34:26 SjC7QQVU
ここ読んでみて、深い議論に感心して
「インターネットで十分じゃん」
て思ったりしてます。
けど、やっぱりそれじゃダメで、「面授口訣」は必要不可欠だったんですね。
865:神も仏も名無しさん
09/01/19 17:34:45 BplQvqdt
>>864
さて、どうでしょうね。
教え上は、インターネットでは信心決定できない、
という結論は出てきません。
読んでいる今も、「聞即信」と救われるかも知れません。
時節場所柄を問わないのが、阿弥陀仏のお救い。
それに条件を付けてしまうのが私たちですけれど。
法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
866:神も仏も名無しさん
09/01/19 18:48:14 00Ibivw5
秘密ぅ~。ちゅうことをえらく議論のテーブルにのせてますな。
あくまでも、その人その人の問題ちゅうか、ご縁やねん。そういうことは。是非言うてみても意味ないねん。
別に秘されて困るよ~なことはわてにはありませんがな。そ~いうことやないのん?
あんな。法然さんは選択集を壁底にしまいなはれ。ちゅうて言わはったんやで。今はなぁ、選択集はネットでも皆読めんねん。
でもな、今法然さんがおられてな、壁底にしまっとけ。ちゅうて言わはったらきっと怪しい存在になるねん。
これはなぁ、法謗の罪つくる人が出ると可哀想や。ちゅうお心やねん。それが抑止ちゅうねんな。
こういう大事なもんがすっぽ抜ける説法はあかんと思うで。すっぽ抜けると宿善・無宿善の分別なぞいらんなるねん。
867:729
09/01/19 19:10:16 Re0R2cHh
>>866
ID:00Ibivw5さん、こんばんは
素朴な疑問なのですが
ID:00Ibivw5さんの流派では、宿善の有無の分別方法ってどうなさっていますか?
私は、分別できると思っていた時期がありましたが、今は自分には分かんないや
って感じです
それと、>>865の
> 法然上人は書物を読まれて信を得られたともお聞きしますね。
は、法然上人の獲信は面授口訣方式ではなかったということですが
どのように理解されていますか?
私は、まっ、これもありなんでしょ?だから、法然上人のような
面授口訣方式ではない人だっていたっていいよね
って感じで、さして問題視せず今に至っています
868:神も仏も名無しさん
09/01/19 19:59:59 f53NjgAi
>>866
まあ、それほど秘密にする必要があると思っているのなら、秘密にしていれば
良いんではないでしょうか。
でも秘密がある以上は、蓮如上人が戒められた秘事法門であり、異安心である
との評価がついてまわるのは、しょうがないでしょうね。
「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、
さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものは
ながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事を
なほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、
あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事を
いはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに
懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。」(御文章)