【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ10【信心獲得(決定)】at PSY
【真宗・親鸞】妙好人と学ぶ10【信心獲得(決定)】 - 暇つぶし2ch32:あぼーん
あぼーん
あぼーん

33:神も仏も名無しさん
08/06/23 16:35:02 eudHuQwE
>30
>29は、>28で出された定義によって答えているに過ぎません。
よって、298さんとのやりとりは成立しています。
即ち、そのやりとり上において、非論理的と言う批判は的外れです。
あなたが横から、>28以外の定義をもってきたいのならば、
そのように前置きをして、レスをすべきと言うことです。
さて、あなたにはまだ宿題が残されています。覚如上人・蓮如上人が、
五会念仏を修せよ、と勧められた積極的文証の提示です。
無ければ、無いとお書き下さい。


34:神も仏も名無しさん
08/06/24 13:53:10 Z6bZS6vX
>>33
298の言うことは成立しているな。

安心決定抄 末にこうある。

かるがゆえに、機の念・不念によらず、仏の無碍智より機法一体に成ずるゆえに、
名号すなわち無為無漏なり。このこころをあらわして、極楽無為というなり。
念仏三昧というは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の、衆生を摂取したまえることを念ずるなり。
仏の功徳も、もとより、衆生のところに機法一体に成ぜるゆえに、帰命の心のおこるというも、はじめて帰するにあらず。
機法一体に成ぜし功徳が、衆生の意業に、うかびいずるなり。
南無阿弥陀仏と称するも、称して仏体にちかづくにあらず、機法一体の正覚の功徳、衆生の口業にあらわるるなり。
信ずれば仏体にかえり、称すれば仏体にかえるなり。

35:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/06/25 00:47:12 znpzfX1J
>>33
> 28で出された定義によって答えているに過ぎません。
  そうですか。貴方は論理的な話が本質的にできない方だと了解しました。

> 298さんとのやりとりは成立しています。
  まあ、考えを持つことは誰も自由ですからね。

>非論理的と言う批判は的外れです。
  貴方は、論理的な話ができない方だと言うことが分かりました。

>そのように前置きをして、レスをすべきと言うことです。
  貴方の加わる話には、ノーコメントとしましょう。

>あなたにはまだ宿題が残されています。
  私はそのようには認識していません。私の論証は、種が尽きています

>無ければ、無いとお書き下さい。
  お断りします。僕は口酸っぱく貴方の子守を引き受けるつもりはありません。

36:神も仏も名無しさん
08/06/25 01:18:30 GTor2zwm
>35
それでは、認識を新たにしていただきましょう。
五会念仏を親鸞聖人の御勧化とする覚如上人、蓮如上人の文言を挙げて下さい。


37:神も仏も名無しさん
08/06/25 01:22:17 GTor2zwm
>30
>33の補足
「何かの縁によって、「ふつとたすかる」感情(意業)が生じた。
そういう感情が生じたと言う事は、即ち弥陀の本願を信じているのと同じである。」
と言えますか?と言うことです。
「ふつとたすかる(ここでは不意に、突然に救われる、突発的回心と取ります)」
そういった感情が、例えば、雑行や自力信を本として生じたものであっても、
神仏の啓示を聞いたと言う体験を本として生じたものであっても、
例えば修験を行じて、密教的一体感に浴し生じたものであっても、
「ふつとたすか」ったのだから、弥陀の本願を信じている、
=他力の信心を決定したと言えるのか?と言うことです。
ちなみに、渡海さんが提示された「対偶」に依るのならば、
「「弥陀の本願信ず」れば、必ず「ふつとたすかる」感情(意業)を生ずる事がある。
故に「ふつとたすかる」感情(意業)が生じたのは、「弥陀の本願を信じ」たからである。」
と言えます。この場合、上に挙げた、
雑行・自力信・神仏の啓示・密教的一体感で得た「ふつとたすかる」は
蓮如上人の言われる「ふつとたすかる」とは全く相違した何かであって、
本当の「ふつとたすかるではない、何か違う別の物」と言う事も可能です。
いずれにしても、弥陀の本願信じる事が肝要であるのは言うまでもありません。
五会念仏を修する事が肝要では無いと言うことですね。


38:298
08/06/25 01:45:22 komZ7LAm
>>35
>>28にて、「共通了解が得られるところ」と私は書きましたが、
自分が思い上がっていたことが、よくわかりました。

本当に、私は傲慢な、泥凡夫だと思います。

南无阿彌陀佛

39:298
08/06/26 02:33:20 0r/KYAwT
>>37
他宗他派の方には、また様々なお考えもあると存じますが、
私に関して言いますならば、私のような悪人は、
弥陀なればこそ、救ってくださったのだと慶んでおります。

弥陀の光が、悪機を照らし出してくださいます。

私にできるのは、六字を仰ぐこと。

邪正もわからぬ私です。そんな私が、六字を信じることができた。

これは、理屈ではなく、不思議なことです。

「自らの体験をたよりにしている」と言われれば、おっしゃる通りだと思います。

そして、「私の信仰は、これで良い」それが、近頃思うことです。

間違っているかもしれませんが、それでも良いのです。

これが私の道なのだと思います。

私には、何もできません。私は、一心に弥陀をたのむ気持ちになりました。

弥陀は、どのような衆生も救ってくださる如来です。

ありがたい、ありがたいことだと思います。

南无阿彌陀佛

40:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/06/26 13:06:31 CwXxlXuw
 悪人のまねをするよりはましだということか。
 悪人のまねよりはいいといわれても、血の通わない後世者ぶった決定者の口先の真似を演技
されても、実感が伝わってこない。演技がうまけりゃ持ち上げるというのは、浄土真宗風土の昔
からの悪い癖だ。嘘と真実の境が見えにくい。

 坐禅持戒は真功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば、喩へば飢えたる
人のひろく風を掩ふがごとし (五会法事讃略抄)

 坐禅持戒が無くても、念仏すれば仏にはなれるが、空腹の人が風下に立ち、風上から吹いてく
る風を腹にため込んで空腹を癒そうとする空手形の信心決定では、腹の足しにならんだろう。
余計なお世話と言うべきか。

41:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/06/26 13:09:06 CwXxlXuw
>>40  (冒頭の一行抜けました)

誤 悪人のまねをするよりはましだということか。



正 同じく仰せに云わく、悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよと、仰せられ候う。

 悪人のまねをするよりはましだということか。

42:神も仏も名無しさん
08/06/26 16:43:47 fu9o8KCy
>38
そのレスは、「弥陀の本願信ぜずしてはふつとたすかるといふことあるべからず」
に関してですので、問題提起した私にも関係ある話です。故に、レスさせていただきます。
「思い上がっていた」と言われますが、何をどのように思い上がっていたのですか?
この文言の解釈が間違っていたとの表明なのか、
それとも「逆はまた真ならず」が共通了解されると
思っていたのが、思い上がりだったのでしょうか?
また、あなたの一感傷たる「思い上がっていた」が、
この論議に一体何の関係があるのですか?
いずれにせよ、具体性のない発言は控えてほしいのですが。
>39へのレスは、それが明確にされてから、答えたいと思います。


43:298
08/06/26 22:40:25 0r/KYAwT
>>42
>>28の文章は、私が書いたわけですが、それによって、了解が得られると
思っていたところが、実際は、そうではありませんでした。

私の書く事に、同意が得られる保証があるはずもなく、
思い上がっていたと言う他ありません。

「Aならば、Bである」と、「Aでないなら、Bでない」は、別の主張であるという
立場に変わりはありません。

蓮師は、「Aならば、Bである」という主張と、「Aでないなら、Bではない」という主張を
双方共になすことによって、「AすなわちB」ということを、おっしゃっていると思います。

しかし、これはあくまでも私の意見に過ぎません。

愚見というべきものですので、私の信仰は、個人的に、
自らの胸に暖めるようなものであるのだと思います

この暖かい感じは、とても良いものですので、
わかってくださる方とは、共によろこびたいですし、
そうでない方には、おすすめしたくなりますが、
だからと言って、私にできることがあるわけでもないのです。

阿弥陀さまのおはたらきに、私は、ただ宿縁をよろこび、
感謝するばかり。尊い尊い南无阿彌陀佛。

南无阿彌陀佛

44:神も仏も名無しさん
08/06/26 23:43:24 fu9o8KCy
>43
違います。問題提起を理解されてないのは、申し訳ないですが、あなたの方です。
弥陀の本願信=A、
ぜずしては=条件、
ふつとたすかること=B
あるべからず=Bの否定
AでなければBではない。「弥陀の本願信じなければ、
ふつとたすかるということはあるわけがない」とこのとおりに読むのには、
何の差し支えもないわけです。文言のとおりなのですから。
これに沿って、AであればBである、即ち「弥陀の本願信ずれば、ふつとたすかることがある」
とも言えます。しかし、あなたは、「Bであれば、Aである」と書かれているのです。
>7がそれです。
「ふつとたすかることがあったならば、弥陀の本願を信じているのである」
不可逆の関係を可逆にしてしまっている点を批判しているのです。
横から渡海さんが入ってきて、混乱したのが原因かもしれませんが、
私の論点はそこ一点だけです。


45:神も仏も名無しさん
08/06/27 00:15:27 xFCRnrGy
>44追記
「共通了解されないのは不徳の致すところ」と
勝手に納得し反省される前に、どこがどう問題視されているのか
理解するところから始めていただきたいのですが、無理な相談でしょうか?

46:298
08/06/27 00:59:04 dk7+sAxu
>>45
果の有る所、因が有ります。

しかし、私のような凡夫には、何が因で、何が果かは、わかりません。

しかし、事、即得往生につきましては、弥陀の廻向によるものと、わかるのです。

それは、我が身を省みて、往生の因があるとは思えないからです。

今の果から、過去の因を知ることも、できないわけではないでしょう。

しかし、「知る」とは言っても、凡夫の「知る」に過ぎませんから、
間違っている可能性がございます。

これにより、一人のしのぎになるのであると思います。

私に、あなた様を理解できるかは、わからないのです。

私の理解力など、たかが知れているのですから、無理な相談かもしれません。

私に能力が足らぬことを、歎く限りですが、どうにもならないのです。

その上、「Aでなければ、Bでない」のであれば、「Bであれば、Aである」が成立すると、
私は考えているのですから、理解が平行線になる可能性が高いのではと愚考するのです。

二価論理にこだわるわけではないのですが・・・

ここは、単純に解して良いところであると思っております。

44様にとりましては、教義上の、大切な論点なのでしょうか?

南无阿彌陀佛

47:298
08/06/27 01:29:06 dk7+sAxu
>>44
本筋とは、ずれてしまうかもしれませんが、例を出して、言わんとする所を説明しようとしてみます。

「昨日が木曜日でないならば、今日は金曜日ではない」

「今日が金曜日であるならば、昨日は木曜日である」

この2つの命題の関係を考えていただければ、私の言わんとする所もご理解いただけるかもしれませんが、
自信はありません。

私が勘違いしているだけかもしれません。

私のような凡夫が救われるなら、それは弥陀によるしか無いのであると、
私は思い、感謝しております。

南无阿彌陀佛


48:神も仏も名無しさん
08/06/27 17:35:53 xFCRnrGy
>47
あなたは>28で「逆は必ずしも真ならず」と言われました。
故に、その論に基づいて話をすすめてきましたが、
ここにきて、「木曜日」と「金曜日」の関係性を持ち出されました。
これは明らかに「逆もまた真なり」のケースです。矛盾しています。
どう整合性を取られるおつもりでしょうか?


49:神も仏も名無しさん
08/06/27 17:47:34 xFCRnrGy
>48つづき
さて、仮説として言わせていただくならば、
Aは、次第相承かどうかわからない人間を次第相承の善知識と信じ、
その善知識によって、たのみ方を伝授され「ふつとたすかる」意業を発動した。
しかしながら、Aに「たのみ方」を教授した次第相承の善知識を
次第相承と呼ぶべきお聖教上の根拠は無い。そうならば、
その次第相承してきたという「たのみ方」は、当然、
浄土真宗の次第相承を経てきた法とは言え無いことになります。
親鸞聖人にも覚如上人にも蓮如上人にも根拠を持たない法をたのんで、
「ふつとたすかる」意業を発動したのですから、
その本は、聖人一流の御勧化にかなったものとは言えず、
蓮如上人のお言葉を借りれば、
「これこそ信心を得たるすがたぞと言いて」人を惑わす者に従って発動した
「ふつとたすかる」意業とも言うことは可能でしょう。
そうであれば、Aの「ふつとたすかる」思いは真実信心から起こされた意業ではなく、
親鸞聖人のみ教えに相違したたのみ方によって起こさしめられた意業と言えます。
「逆もまた真なり」から言えば、
その「ふつとたすかる」は偽物の「ふつとたすかる」であり、
「ふつとたすか」ったと認識していても、本当は「ふつとたすか」っていないと言えるでしょう。
「逆は必ずしも真ならず」から言えば、
「ふつとたすかる」意業が生じた事象があったとしても、
弥陀の本願を信ぜずに、偽善知識を信じて起こされた意業であって、
「ふつとたすかる」ことがあっても、「弥陀の本願」を信じていない、
という事が成り立つわけです。


50:298
08/06/27 19:28:43 dk7+sAxu
>>48
用語に混乱があるのではないかと愚考致します。

私は、「Aならば、Bである」と、「Bでないなら、Aでない」を、「対偶」と呼び、
両者の真偽は共通していると述べております。

そして、私が、「逆」と呼んでいるのは、「Aならば、Bである」に対する、
「Bならば、Aである」という命題です。

「Aならば、Bである」に対して、「Aでないなら、Bでない」を「裏」と呼び、
「裏」(Aでないなら、Bでない)と「逆」(Bならば、Aである)の真偽は共通すると考えております。

ですけれども、「裏」という言い方は、日常会話においてあまり用いられませんので
私の書き込みでは、「裏」を指して「逆」と書いている箇所もあると思います。

これは、「裏」と「逆」の真偽は共通する(同値である)と考えているからです。

わかりにくい書き込みで、申し訳ありません。私としては、筋が通っていると感じておりますが、
言葉足らずの責はありますし、そもそも、あくまでも、邪正わからぬ凡夫の思考に過ぎません。

ですから、同意を強制するものではありませんし、ご納得いただけなくても、
仕方が無いことと存じております。

私の不徳の致すところであり、弥陀の顔に泥を塗らぬよう、気をつけねばならぬと思っております。

南无阿彌陀佛

51:神も仏も名無しさん
08/06/27 23:09:43 xFCRnrGy
>50
解りました。水曜日と言えば、曜日である。では、曜日と言えば水曜日か?
水曜日は曜日に含まれるが、必ずしも水曜日だけが曜日だけではない。
月曜日も火曜日も曜日である。この関係性をあてはめるとどうなりますか。
この場合をあてはめれば、弥陀の本願信じれば、ふつとたすかることがある。
しかし、ふつとたすかった事が弥陀の本願を信じたからだとは言えない。こう言えます。
あなたは、自称(証拠がないのだから、かく言わせていただきます)次第相承の善知識が
相承してきたと言われる「たのみ方」(お聖教上の根拠がない法)を修して、
「ふつとたすかる」意業が生じた。それは、親鸞聖人の教えに従い、
蓮如上人が言われるが如く一向一心に弥陀をたのむとは全く別物でしょう。
何故なら、「ふつとたすかった心をたのめ」
「自称次第相承の善知識にたのみ方を教授されよ」と、
親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人、そんな事を仰った方は
おられないからです。弥陀の顔に泥を塗るなどと表明する以前の問題なのです。
きつい言い方ですが、聖人一流のご勧化のおもむきに無い事を修する事によって、
信心を得た、ふつとたすかったと倒錯している仲間たちの一人、とは言えませんか?


52:298
08/06/27 23:39:17 dk7+sAxu
>>51
「水曜日は、曜日である」の対偶は、「曜日でないなら、水曜日ではない」であると思います。

また、「ふつと助かる」と、「私(298)がふつと助かっている」を混同されていらっしゃるように
思います。

おっしゃる通り、私は、倒錯しているかもしれません。間違っているかもしれません。

そして、信心も獲ていないかもしれないし、異安心かもしれません。

どちらなのか、私には、知る術がありません。

知る術はありませんが、お聖教を御拝読すれば、正統だと感じます。

しかし、あくまでも、「感じて」いるだけです。

それに、「感じたい」だけなのかもしれません。自身では、よくわかりません。

ですから、51様が、私(298)を信じる必要が無いのです。

そして、私は、自身でお聖教を御拝読する限り、連綿と伝わってきた一流の道を歩んでいると
感じています。

そして、この有縁の道を歩み続け、弥陀に感謝してゆきたいと思っています。

そして、自身の意業を見、「変えられたなあ」と思いますし、
こんな疑い深い自分が、六字を信じることができた。それも、うれしいのです。

すべては、弥陀のひとりはたらき。私に出来ることは、何もありません。

南无阿彌陀佛

53:298
08/06/27 23:44:48 dk7+sAxu
>>51
私は、たとえば、

◎黒谷の聖人、本願寺の聖人相承しましますところの、
報土往生の他力不思議の信心を、善知識ありて、つたえときて、
さずくるを行者ききうるによりて、文のごとく一念歓喜のおもひおこるについて、
往生をたちどころにさだまるを、正定聚のくらゐに住すともいひかならず滅度にいたるともいひ、
摂取不捨の益にあづかるともいふなり(本願鈔)

などを御拝読致しますと、「本当にそうだなあ」と思いますし、
とても有り難い気持ちになり、感謝合掌致します。

そして、「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」とお称え致します。

そのようにして生きて行くことが、気に入っております。

こうして、一人でも、相続してゆくことができる。

「何と有り難いことだろう」と、感嘆しております。

彌陀一佛だけが、このようなことをすることができると、
私は信じます。もちろん、個人的な信仰です。

しかし、真宗を尊いと思う方であれば、弥陀への思いは、共通しているのではないかと
思います。

ただただありがたい、南无阿彌陀佛です。

南无阿彌陀佛

54:神も仏も名無しさん
08/06/28 00:43:51 Zsmgh8l7
>52
対偶において、
ふつとたすかることがないのは、弥陀の本願を信じていないからである
とまでは言えても、ふつとたすかることがあるのは、
弥陀の本願を信じたからである。と言えますか?
次に、勘違いしてほしくないのは、あなた自身の信仰をとやかく言う筋合いはありません。
それは浄土真宗と呼べるものかどうかを問題にしているのです。
次に、凡夫の合点について。
新聞のコラムを読んでも、なるほどその通りと思う事もありますし、
それが、何代にも渡って揉まれ、錬られ、受け継がれてきた
仏教の論釈であれば、なおさらです。何の不思議もありません。
問題は、「たのみ方」を自称次第相承の善知識に教授され、
真実行と呼ばれる行を修し、いままでの意業が変化したのを
感受した事をもって、浄土真宗の肝要とせられているのか否かです。
あなたが引文された『本願抄』にもそのような事は述べられていませんでした。
次に、可逆・不可逆については、
他力には他力の法則があり、論理学には論理学の法則がある。
他力の法には、自力疑心は不可ですが、それは論理学の分際ではない。
ふつとたすかる意業があったとしても、弥陀の本願を信ずる事にはならない。
何故なら、弥陀の本願を信ずるが先、ふつとたすかる意業は後、であるからです。


55:298
08/06/28 01:42:31 oSbPgb80
>>54
「Aでなければ、Bでない」の対偶は、「Bであれば、Aである」だと思います。
蓮師の御文章には、

◎弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず(御文5-2)

これは、「Aでなければ、Bでない」の型であります。

時間の順序の点につきましては、>>46にて、因果についてお書き致しました。

また、その点も考慮しまして、>>47にては、曜日の例をお書きしてございます。

「今日が金曜日であるならば、昨日は木曜日である」

この命題におきましては、「昨日は木曜日」が過去に当たります。

浄土真宗の肝要は、南无阿彌陀佛であり、「弥陀をたのむ」ということではないでしょうか。

他力真宗の根幹は、弥陀の神力により、真実信心を埋め込んでいただくことにあると思います。

摂取不捨の不可思議こそが、根幹であると思います。

私は>>53の引文を、「その通りだなあ」と有り難くいただいております。

一念の信心のいはれを知り、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみもうすことが
肝要であると思います。

みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解が無く、後世を知ること無いのであれば、
どれほどお聖教読もうとも、どれほど聴聞しようとも、いたづら事であると考える次第です。

南无阿彌陀佛

56:神も仏も名無しさん
08/06/28 02:06:21 Zsmgh8l7
>55
金曜日⊇曜日。曜日=金曜日とは言えない。
ふつとたすかることがあっても、真実信心を得ない者は、
往生決定の者ではない。真実信心を得た者は、ふつとたすかることがある。
真実信心を得たのだから、往生決定。ふつとたすかることがあるから、往生決定するのではない。
信心正因の所以です。
いくらみづからたのんでも、それが自力であれば、化土往生。
いくらみづからたのんでも、親鸞聖人の言わのない「たのむ法」によるならば、
浄土真宗ではありません。


57:神も仏も名無しさん
08/06/28 02:09:19 Zsmgh8l7
>56
金曜日⊆曜日でした。すみません。

58:神も仏も名無しさん
08/06/28 11:18:43 1y/idZI3
>>56
面白いやり取りでワクワクしました。

56はまず前提に自分が是である。なぜなら親鸞さんの言うことを是とするから。
というわけでしょ。ではあなたは親鸞さんの言うことを間違いなく領解したと言い切れるのか?
言えないでしょう?

59:神も仏も名無しさん
08/06/28 12:33:26 MRs4viRZ
>58
> 面白いやり取りでワクワクしました。

 理屈のわからん理屈オンチの56に、298の忍耐力
がどこまで耐えられるかという問題だ。

 ここまで教わっている56は、298にお相手料、家庭
教師授業代を支払ってもいいよな(笑)。

60:神も仏も名無しさん
08/06/28 18:52:57 Zsmgh8l7
>58
自分が「是」と言う前提は必要ありません。親鸞聖人が伝えられなかった事を、
伝授していると称するのは「浄土真宗ではない」と問題にしているだけです。
298氏においては、自称次第相承の善知識に「たのみ方」を教わり、
真実行を修する事が信心決定の方法だと述べておられます。
渡海氏においては、五会念仏を修する事が真宗の肝要だと主張されたいようです。
そうであるならば、どこで親鸞聖人がそのような事を言われ、
また親鸞聖人から如信上人、と相承された浄土真宗列祖覚如上人、
また蓮如上人は、どこで、親鸞聖人ご一流の肝要をそのような事として勧められているのか、
その根拠を求めているに過ぎません。
>59
仏教には仏教の論理があります。例えば龍樹菩薩の『中論』中で、論破されていることは、
一般論理から言えば、詭弁と言われるべきものでしょう。
しかし、お釈迦さまが説かれた「空」を基に論を展開すると、
成立します。この点については中村元先生の『龍樹』(講談社学術文庫)においても言及されています。
浄土真宗においては、一宗の肝要たる他力信心を基にせねばなりません。


61:神も仏も名無しさん
08/06/28 19:07:30 Zsmgh8l7
>59
もう一つだけ書きます。信心には多くの異名があります。例えば、疑蓋無雑。
ふつとたすかる意業があれども、仏智疑惑を帯しているのならば、
浄土に生まれることはありえません。わかりましたか?


62:神も仏も名無しさん
08/06/28 19:35:27 EBsRh2yZ
>>61
ニート海難にレスしないように。

63:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/06/29 21:10:44 JZDeZA9m
 298さんが以前、しきりに問題にしていた浄土真宗の口伝に
ついて、議論を進めています。

 www.しんらん.jp/

64:298
08/06/29 22:11:37 e+FpbOq/
>>61
佛智疑惑があるならば、ふつとたすかれりとは、言えないのでは
ないでしょうか。
そして、真実のところ、自らが助かったかどうかは、
わかることは無いのだと私は思います。
助かったと思っている人が、助かっていないかもしれず、
助かったと思っていない人が、助かっているかもしれません。
私が助かっているかどうか、弥陀はご存知だと思いますが、
一方、私は、何もわからぬ凡夫です。
それでも六字を尊いと思い、お称えして参ります。
そのような気持ちになれたことを、尊いと思い、よろこんでおります。
南无阿彌陀佛

65:神も仏も名無しさん
08/06/29 23:48:30 fiLDWMxZ
>64
何もわからぬ凡夫ならば、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人に根拠を持たぬ、
次第相承の善知識を浄土真宗の相承と主張し、その知識が言うところの
「たのみ方」によって、信心決定するなどと宣伝すべきではないでしょう。
「ふつとたすかる」については、対偶で読んだ場合、
「ふつとたすかる」意業が生じたからと言っても、
蓮如上人がここで言われるところの、
他力信心の利益たる「ふつとたすかる」ではないと言えます。
何故なら、「弥陀の本願たのむ」事が「ふつとたすかる」の条件となっており、
その条件が満たされなければ「ふつとたすかることあるべからず」だからです。
つまり、浄土真宗の上からすれば、真実信心に根拠を持たぬ
意業の発動である疑似的「ふつとたすかる」は、
真実の「ふつとたすかる」ではない、と言うことです。
その件に関しては、以前、書きました。
今、あなたは親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお勧めにない
次第相承の善知識が伝える「たのみ方」によって、
信心決定されたと言われるのですよね。それを根拠とされ、
「たのみ方」を他人に勧める活動をなされているわけでしょう。
しかし、その根拠の基盤、即ち次第相承の善知識自体、
その方が相承されたと言う「たのみ方」自体、既に根拠がない訳です。
その結果として、信心決定したといくら主張されても、
また、「ふつとたすかる」意業が生じたとしても、
それは、親鸞聖人一流の御勧化によっている訳ではないと言うことです。


66:298
08/06/30 00:09:53 4eRq4VKK
>>65
「ふつとたすかる」は、凡夫の意業を指すのではないと私は考えます。
「ふつとたすかる」のは、機法一体に成じる功徳を指すのであり、
この功徳により、衆生の意業に浮かび出る思いが生じます。
これにより、以前の自分には「ありえなかった」と思うような、
意業が感じられ、真実信心をいただいたのだと思えるのです。
しかし、本当にいただいているのかどうか、凡夫の知る所ではありません。
この功徳は、今の私(信心を獲得した時節の私)がいただいたように
感じられますが、その実はそうではなく、十劫の昔に成就していたものです。
それをいただかず、逃げていたのが私であり、それこそが、
佛智疑惑であると言えます。
南无阿彌陀佛

67:神も仏も名無しさん
08/06/30 00:17:59 eam3fM1c
実は、人は死ねばすべからく、所謂極楽や天国とか色んな言い方をされて居るような
状態に入るのでは無いですか?もう煩悩も悪事も五濁も関係無い、正に理想の境地で
すので。どんな宗教であれ本当の所は分っていながら、そうは教えず生あるうちの悟りとか、
修行とか、救いとか、死後も影響するとか、供養が大事とか、言って来たのでは??
真宗はそのタブーを破った異質の教えだと思います。どんな人も(阿弥陀如来の救い)とは
説いてはいますが死後(後生)の安寧を只管説いた教えと思います。信心決定とはその安寧を
心底理解する事だと思います。

68:298
08/06/30 00:26:16 4eRq4VKK
>>65
また、忘れてはいけないのは、五重の義のはじめに、「宿善」とある
ことです。
善智識と言えど、宿善なければ、いかんともできないはずです。
つまり、「善智識が信心を与えている」と見えるかもしれませんが、
それは、錯覚に過ぎないと思います。
あくまでも、弥陀のお育てがあってのことであると思います。
お手引きも、同様です。
私たち凡夫には、お手引きもできなければ、信心を与えることも
できません。
すべて、弥陀がおはたらきになっているだけです。
たとえて言うならば、弥陀を外科手術をするお医者さんとすれば、
善智識は、メスを渡す係りのような者と言えると思います。
知識が信を与えるようなことができるのであれば、
煩悩ある知識にすべてが託されてしまいます。
善智識は立場上、思い上がりやすいと思います。
そして、思い上がれば、知識の役から離れたことになるのでは
ないでしょうか。
すべては宿善まかせ。それは、弥陀任せということであり、
他人を「宿善が無い」と非難することではないと思います。
各自各自に、歩む信仰の道があるはずです。
もし、「宿善が無い」と見えるならば、非難するなどは
もっての他であり、「宿善が育つように」と願うことだと思います。
(これは、「救われますように」と願うことと同じです。)
それも、弥陀任せなのですから、南无阿彌陀佛と称える他はないと思います。
南无阿彌陀佛

69:298
08/06/30 00:31:13 4eRq4VKK
>>67
「すべからく良いところにゆける」と思っている方は、
幸せな方です。
私は、「このまま死んだらヤバイ」という感覚を持っていました。
死は、暗黒であり、怖いものでした。
この私の気持ちを救ってくださったのは、
阿弥陀様だと思っています。
私は、自分を、地獄にいた、悪魔のような存在だと思っていました。
そんな自分のみにくさが怖かったのです。
今は、今でもみにくい自分はイヤですが、そんな自分を受け入れて
くださる阿弥陀様に感謝して、お念仏をお称えしています。
南无阿彌陀佛

70:神も仏も名無しさん
08/06/30 01:05:49 eam3fM1c
私も同様です。真宗の教えは、「死」を日常に身近に受け入れざるえ負えない人々にこそ
染み入ったのではないでしょうか。理論や教えの真意の探求も宗教にとっては重要な事
です。一種の学問として非常な価値が有ります。阿弥陀如来の救いを方便として人々の心
を救わんとした、上人に思いをはせたかっただけなのです。下品下生のわが身ごも後生十二
大劫の後蓮華を開かれん事を思っています。



71:298
08/06/30 01:21:38 4eRq4VKK
>>70
私も、学問も大切だと思います。教えがいい加減なものにならない
はたらきをしているのではないかと愚考しております。
もちろん、止住百歳のおはたらきの全貌は、凡夫の私の知る所ではありません。
あくまでも、想像に過ぎぬことですが、いらぬ想像もしてしまう凡夫であります。
本当に、価値の無い想像を、随時為しますね・・・
私は、素朴な信仰こそが、もっとも大切なものであると思っております。
その信仰が得られないからこそ、学問をするという順序であり、
もともと、学問によって信を獲るのではなく、
「弥陀をたのむ」ことによって信を獲るのがこの道であると思います。
六字は無上の方便であると、感じること頻り、
本当に尊い南无阿彌陀佛であると思います。
南无阿彌陀佛

72:神も仏も名無しさん
08/07/03 01:46:53 5HgjFmxq
死なんて本当はないのに、何を勘違いしているんだろう。
総てが意味を持つ。それが総てが消滅する死であろうとも。自然法爾。
「死」そんなものを相手にしてどうするのかな?
虫も、植物も、馬も、地球も、宇宙もみんな経験することなのに。
ちっぽけな自分の一生涯かもしれないこど、今日も創ってるのさ。
自分しか経験できない自分を。そう、奴隷にならなくていい法が南無阿弥陀仏。
298さんとは「そこ」が決定的に違う。298さんは自分の経験してきた道に真実を見る。
そして、他者をその経験則、即ち信心を得る方法としてあてはめようとする。
でも、僕は違う。経験してきた事、培ってきた物に、価値をおかない。
何故なら、今こうして生きてる事、僕の僕にしか発揮できない
僕の人生を創っている事が、何物にも変えられない事実だから。
無量寿無量光のお徳を限定しない。解らないとも言わない。
今、こうして、自分の人生を創り続けている事が、
無量寿無量光の仏のお支えによるものだから。
創り続けていいんだ。命終わるまで。終わっても終わりじゃないんだ。
何故なら、今、現に、僕は僕の人生を創っている。明日には白骨になっても、
ようこそ、ようこそ。ならなくても、ようこそ、ようこそ。
お前は浄土に生まれるに間違いないと無量寿無量光の仏が、
直々に呼び掛けて下さっているから。今、今、今。仏教は今、今、今。

73:神も仏も名無しさん
08/07/03 22:30:47 cS0K9lQZ
>>72

さすがにそれでは無帰命安心だわな。
平生業成だろ真宗は。たった今のお救いにあずかる。
今というのは常に今のようであるが、1秒先すら分からないのが私たち。


74:神も仏も名無しさん
08/07/04 00:26:43 WEZ72Hol
>73
何言ってるのかよくわからないけど、一秒先が解らない僕らだから、
阿弥陀仏の本願があるんじゃないの?
もし今、未来の事考えてくよくよしたら、阿弥陀仏の「必ず救う」という願いを思いだすし、
もし今、すごくラッキーな事があって、調子に乗ってたら、
痛い目あうよ、本当の喜びじゃないしって、
本当の喜びは「必ず救う」ご本願じゃんって、思い浮かべる。
それで、お念仏申して暮らせば、ありがたいし、心休まるよね。


75:神も仏も名無しさん
08/07/04 01:11:18 UycUaSfH
>>74

言いたいことは良く分かるけど、それを自力信というんだよ。
分からんかなぁ。

76:神も仏も名無しさん
08/07/04 01:51:04 WEZ72Hol
>75
全然わかんない。何処をどう自力信って言うの?


77:神も仏も名無しさん
08/07/04 10:37:57 SC+JicrO
「死」というものがあって、そして地獄行きが嫌だと思うから、阿弥陀仏におすがりしたです。
>72さんの信心にとって、そういうのはあまり大きな位置を占めていないのでしょうね。
それもひとつの境地というものかなあ。
私個人的には、それでは心配でたまらないと思うのですが。

78:神も仏も名無しさん
08/07/04 18:36:10 WEZ72Hol
>77
何の心配があるんだろう?阿弥陀仏が「必ず救う」と誓っているのだから、
その誓いにおまかせする以外ないでしょ。みんなおまかせするんだから、
僕の心配もまた、おまかせです。それでもまだ心配なら、
それは阿弥陀仏の誓いを疑っていることが原因になってるんじゃないかな。
仏さまの心より、自分の心配な心の方を真実と受けとめれば、
仏さまの願いは不完全なもの、不真実になっちゃう。
不安になったら、思い出せばいいんだよ、お念仏称えればいいんだよ、
「必ず救う」っていうのは、観音さまも勢至菩薩も褒め称える、
テキトーな僕らの誓いじゃない、誰あろう無上覚の仏さまの誓いなんだって。


79:神も仏も名無しさん
08/07/04 21:58:00 EwS0Gvkw
>万理一空の境地の事ですね。他宗の教えでは良く自力でその境地に達する事を目指しますよね。

80:神も仏も名無しさん
08/07/04 22:10:11 UycUaSfH
>>79

78は自力信であることにすら気が付いていない。
そう考える自分の心が信心になってるから無因外道と呼ばれる。

81:神も仏も名無しさん
08/07/04 23:49:17 WEZ72Hol
>79
むつかしい事はよくわかんないけど、空を悟るって事?
そんなこと言ってないのに。証知生死即涅槃だよ。
無上覚の仏さまから導きでたお言葉じゃないのかなー。
>80
よくわかんない。解るように説明してみて。あと、どうして他の人に、
自分の意見の同意を求めるんだろ?
僕の書き込みの何処が自力信で、何処を無因と言うのか、
ちゃんと答えてよ。それを聞いたら、僕もへーって思うかもしれないよ。
大切な事は、正面からぶつからないと、大切な事を卑屈にしちゃう人間になっちゃうよ。
そんなのつまんないじゃん。

82:298
08/07/05 01:03:34 HoYE+sfq
誰もが救われる南无阿彌陀佛。
だけど、他の人が救われるかは、わからない。
なぜかといえば、他の人が実際にどのような存在かは、自分には、
わからないから。
それでも、誰でもが救われる南无阿彌陀佛だからこそ、
こんな自分も救われる。
宿縁という他はなく、なぜ信じられたのかは、
自分でもわからない。
それでも、六字という基盤があり、だからこそ、
無上の方便と知らされる。
自分が信じようが信じまいが関係ない南无阿彌陀佛。
私とは、無関係の南无阿彌陀佛。
その六字と縁があり、六字とひとつになる。
不可思議。
南无阿彌陀佛

83:神も仏も名無しさん
08/07/05 01:22:36 gZcjqNdb
>82
違うよ。誰でも救われるなら、清浄之因唯信心って言う必要ないし。
総衆生往生浄土って言わないといけない。でも、そうは誓わなかったんだよ。
阿弥陀さまは。自分の願望と仏さまの願望をごっちゃにしたらダメだね。


84:298
08/07/05 01:29:46 HoYE+sfq
>>83
誰でもが救われるけれども、誰も救われないかもしれない。
それでも、誰でもが救われることが定まったのだと思います。
南无阿彌陀佛

85:298
08/07/05 01:36:26 HoYE+sfq
>>83
往生の真因がきざすのは、清浄の信心をいただくからですが、
これは、あくまでも他力の信心であるが故に、
誰でもが救われる。
それでありながら、浄土に往く人、ほとんど無し。
それでありながら、数え切れない衆生が集う大法会。
集う人が集う。
救われたい方は、救われます。
南无阿彌陀佛

86:298
08/07/05 03:33:59 HoYE+sfq
御恩報謝の南无阿彌陀佛は、本当に人生を良くすると思います。
もちろん、私がこう言っても、私が言っているに過ぎないわけですが、
信じてくださる方がいて、実行してくださるなら、
本当にうれしいです。
南无阿彌陀佛

87:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/05 10:23:49 fG6sill9
 ブログ「親鸞仏教」更新しました。
  www.しんらん.jp/

88:あぼーん
あぼーん
あぼーん

89:神も仏も名無しさん
08/07/05 12:26:22 gZcjqNdb
>85
なんか曖昧だなあ。他力の信を決定しなければ、
浄土往生はかなわないって、蓮如上人は言っておられるよね。
肝要は、仏さまが助けるって言ってるからホントだよね、
みんな助かるよね、不思議だよねって、慰めあう事じゃなくて、
他力の信を決定しなければいたづらごとって事。これは僕の思いでも何でもなく、
蓮如さんの思し召し。つまり、浄土真宗ってこと。
>86
浄土真宗の人なら、多分、私の言葉を信じなよ、
みたいな言い回しはしないんじゃないかなあ?
あの歎異抄の問答を味わってるならさ。

90:298
08/07/05 14:00:58 22LEfvYO
>>89
私の言うことなのですから、信じなくていいですよ。
信じてもらえれば、うれしいだけ。
しかし、そのうれしさも、ただの煩悩の可能性も高いのです。
私は、弥陀に現世も救われ、後生も救われたと思っています。
ですから、同じような体験を味わっていただければ、
その人もしあわせだろうと思うだけで、
望む、望まぬは、その人次第です。
私にどうこうできることではないと思います。
「御恩報謝の南无阿彌陀佛とは、本当にすばらしい」と
私は思うのです。
ちょっと空いている時間にも、行えます。
そして、この「(いわゆる)空いている時間」に行っていることが、
実はメインのことで、そのほかのことが、助業となって、
六字を称えることを助けています。
南无阿彌陀佛

91:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/05 15:50:46 fG6sill9
 298さんも、最近は主張が変わってきたのかなぁ。心境に
変化がおきているような気がする。
 本質的変化か、上辺だけの変化かは分からないけどね。

 自分だけが本物の信心を持っていると思っているような
スタンスは、多少ぐらついているようだ。
 「自分だけ」と「本物」という2点にぐらつきを感じる。

 ただ、自分からは、自分の信心に進んで疑念を持つという
ことはしたくないという固執もあるようだ。

 火宅無常の信心だから、いろんな変化があっていい。


92:神も仏も名無しさん
08/07/05 16:21:45 gZcjqNdb
>90
仏法は無我にて候って蓮如上人が言われてるから、
浄土真宗もそこから外れた法じゃないって事だよね。
298さんの書き込みが曖昧に感じるのは、救われた我を中心に、
み教えを組み立ててるからなのかな?なんて思う。
ま、僕のご恩報謝の日々とは表面上は似てるけど、大元は違うとは言えるかもね。


93:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/05 16:27:40 fG6sill9
>91
 一つ加えておきたい。もしかすると上辺だけかなとも思う。
 ぐらついているように見せているのは、機の深信を演じる
大根役者の演技なんじゃないかと、そんな風にも、勝手に
思うんですよ。

 法の深信の猿芝居を見せられても、機の深信の猿芝居を見せ
られても、僕はちっとも感動しないが、猿芝居を見ると喝采を浴び
せたくなるギャラリーは、浄土真宗という風土には少なくないよう
だ。

 まあ、他人のことは構う必要はないんだけどね。

94:神も仏も名無しさん
08/07/05 17:16:52 Epq3GNU4
どう考えても渡海 難 はルサンチマンでしかない

残念なことではあるが真の無我を得る事が出来ない

95:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/05 18:04:26 fG6sill9
>94
 ルサンチマンかサンドイッチマンかよく分からんが、渡海難は真の無我
の境地を体得するかどうか。
 我の強い僕も、大変なレベルの評価段階に入ったものだなぁ。 (苦笑)

96:神も仏も名無しさん
08/07/05 18:16:46 Q90X11ft
>>91

面白い人だなぁ。
他人のこと言う前にその発言をそのまま自分に返すべきだなw

97:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/05 18:33:52 fG6sill9
>96
 自分には返りませんよ。

 自分のことはよく見えず、他人のアラは、嘘でも本当でも手
に取るようによく映る。

 真の無我など、夢のまた夢。  <苦笑>

98:神も仏も名無しさん
08/07/05 20:27:45 rJ+Ppu82
>>90
>しかし、そのうれしさも、ただの煩悩の可能性も高いのです。

仏法のことにせよ、ぼくらが感じるうれしさって煩悩なんじゃないですか?
煩悩以外の場合もあるのん?

99:神も仏も名無しさん
08/07/05 22:00:36 zmODDtyx
>81さん、以下のご意見、やはり自力で頑張れ、信じろ。弥陀を信じる気持ちを持つんだ。
それは「死」なんか超越した考え方が出来るようになる。と聞こえます。何かご上人の教えとは
違和感を覚えますが?



100:神も仏も名無しさん
08/07/06 00:43:14 r0g83+iE
超越世界だ~

高森会

101:298
08/07/06 03:48:56 NY+pLpOQ
>>99
そうですね、弥陀を信じる気持ちと言っても、
自分で信じるわけではなく、弥陀がくださるわけですからね。
しかも、せっかく弥陀がくださっても、
全く気づかないかもしれない。
それでも救われているのだから、すごいことだと思います。
南无阿彌陀佛

102:神も仏も名無しさん
08/07/06 11:01:35 0lSg28He
>99
頑張るのは自力なのかなー。
問題や障壁があったら乗り越えようとしなければ、乗り越えられないでしょ。
蓮如さんが、ご文章や名号をたくさん書き与えたのも、
赤尾の道宗がご恩忘れないために、四十八本を枕木に休んだのも、
自力信のあらわれなのかなあ?お経読んだり、親鸞聖人の書を読んだりするのも、
自力なら止めないといけない事になっちゃうよね。


103:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/06 11:26:57 sy53vpkY
>98
他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよ
たのもしくおぼゆるなり。

> 仏法のことにせよ、ぼくらが感じるうれしさって煩悩なんじゃないですか?
> 煩悩以外の場合もあるのん?

 なるほど。非常に貴重なご意見、痛み入る。 (w)

104:あぼーん
あぼーん
あぼーん

105:あぼーん
あぼーん
あぼーん

106:あぼーん
あぼーん
あぼーん

107:あぼーん
あぼーん
あぼーん

108:あぼーん
あぼーん
あぼーん

109:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/06 14:37:41 sy53vpkY
 木辺派では座禅をしているそうだ。
 五会念仏を称えているのか、称えてないか定かではないが、
真宗の中で、座禅アレルギーが崩れ始めた兆候とすれば、歓
迎すべき事柄だ。

スレリンク(kyoto板)l50

110:神も仏も名無しさん
08/07/06 15:03:34 QJXiDzg0
木辺派は禅宗に鞍替えするそうです。渡海さんも一緒に親鸞から禅宗に鞍替えしてはどうですか?

406 :名無しさん@京都板じゃないよ:2008/06/29(日) 12:27:53
>>395
既に、得度や教師の研修で静座なる坐禅の行が強制されていて、
木辺派が真宗から禅宗に転派する動きが着々と進んでいるよ。
で、異安心の指摘を恐れて研修予定表には静座についてわざと書いていない。
やましいことが無いなら堂々と書けばいいのに。

ただ、先生の一人が「静座は旅行会社の要求で始めたものだ」と研修中に
口外したため動機不純だ、宗教法人への不当介入だと抗議する僧侶が出たが。

111:神も仏も名無しさん
08/07/06 15:31:31 kt0iYozS
渡海氏と木辺派は一心同体!

112:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/06 15:36:54 sy53vpkY
>110
>禅宗に鞍替えしてはどうですか

 禅宗に鞍替え? 聞いたことがないな~ぁ。

宗派にこだわらず真実を求めればいいんじゃないですか?

 僕は別にどこの宗派にも名前を登録してないよ。
 座禅して念仏申す人がいてもいい、念仏しながら座禅する人がいてもいい。
実体は同じだ。

>111
  しらんな~
  なに宗ともなき、念仏ばかりはとうときことと存じたるばかりなるものなり


113:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/06 16:24:00 sy53vpkY
>111
> 渡海氏と木辺派は一心同体!

 道綽禅師、善導禅師は座禅していたんだが、彼らは
木辺派と一心同体なのかい?

 おぬし馬鹿じゃないか?

114:神も仏も名無しさん
08/07/06 16:41:57 kt0iYozS
>>113
七高僧と木辺派、そして渡海氏は一心同体!

115:神も仏も名無しさん
08/07/06 16:48:58 8kj5QL7u
キリストのメッセージ 
「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。
その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」
URLリンク(www.nowaksvd.net)

ご遺体は腐敗していなかった 日本を愛した宣教師 チマッティ神父様
URLリンク(www.v-cimatti.com)
URLリンク(www.v-cimatti.com)

煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣
URLリンク(www.sanpaolo-shop.com)

キリストと会話できる女性 ヴァッスーラ・ライデン
URLリンク(www.tlig.org)

キリストの人生を見せられた女性 マリア・ワルトルタ
URLリンク(swedenborgian.hp.infoseek.co.jp)

キリストの受難を目撃し体験した女性 アレキサンドリーナ・ダ・コスタ
URLリンク(www.salesio.jp)
URLリンク(salveregina.dyndns.org)

病を患いながらも信仰心が篤かった女性 マルタ・ロバン
URLリンク(homepage3.nifty.com)

カトリック書店/日本国内にあるカトリック教会の住所と地図
URLリンク(www.donboscosha.com)
URLリンク(www.sanpaolo-shop.com)
URLリンク(shop-pauline.jp)
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)

116:神も仏も名無しさん
08/07/06 17:18:14 sy53vpkY
>114
>七高僧と ~ 渡海氏は一心同体!

              (/≧◇≦\)アチャー!!

117:神も仏も名無しさん
08/07/06 22:04:27 3ODDDiDs
>102 頑張るのはやはり自力と思います。お気持ちは充分分りますが、「ああ・・
そうだったのか」の気付きが統べてて有り、その後の念仏は頑張りではないのでは。
その時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情の
因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きが
人々が得られたのか、御一考下され、御高見を。




118:神も仏も名無しさん
08/07/06 23:14:10 RWPQtVbg
次スレからはこれに変更しようよ!

【真宗・親鸞】カルト真宗の愉快な仲間達と学ぶ10【信心獲得(決定)】


119:神も仏も名無しさん
08/07/06 23:24:18 Z2Oe5HQh
>>118
そうだね。このスレに妙好人はいないみたいだし。
いるのは298と渡海難のように頭の中がちょっと変な人たちだし。

120:神も仏も名無しさん
08/07/06 23:41:28 0lSg28He
>117
そんなこと、親鸞聖人は言われてるの!?
あと、みんな妄想猛々しく勝手に浄土真宗を創りすぎだと思う。
自分勝手に創るのも、それが趣味っていうなら、勝手にすればいいんだけど。
そういう時は、正直に最初に言っとかないと、みんな迷惑するよ。
僕の趣味、僕の求道ごっこが浄土真宗、僕の主張がすなわち浄土真宗なの、
僕にとっては、ってさ。


121:神も仏も名無しさん
08/07/07 00:06:40 X1W9+QLk
>117
もうひとつだけ。称名念仏いさみありてって、蓮如上人のお言葉があるけど、
君は努力を否定して、君ならではの浄土真宗を創るつもりなのかな?
キミの世界観はそれでもいいよ。
でもそれは、蓮如上人の世界観じゃないって事は知っておいてほしいな。
浄土真宗って、よくできてんなーって、僕なんかは思うんだけど、
まあそれも僕の感じたことに過ぎないわけで。どうって事ないんだけど。
僕なんかは、限りあるいのち、フル活動で生きまくればいい。
阿弥陀さまが憑いてるから、大丈夫。どこまで堕ちようが、どこまで有頂天になろうが、
真実なんてそこにはない。煩悩のなせる業。じゃ、そんな真実らざるものをば
ポイッと捨てといて、弥陀の必ずたすけるをたのめみな人。
ガラクタは私の思い。そのガラクタの僕を決して捨てない思い。
どっちの思いが、死にゆく僕を支えてくれてるんだろう。
自ずから、真実とは何か、わかるんじゃないの?

122:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/07 01:03:32 8Ttr5yuL
>117
 詮ずるところ、信心の定まらざりけると聞き候。如何様なる事にて、さほどに多くの人々のた
じろき候らん、不便の様と聞き候。また、斯様の聞こえなんど候えば、空事も多く候べし。又、
親鸞も偏頗あるものと聞き候えば、力を尽くして、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』の
文の心ども、二河の譬喩なんど書きて、方々へ、人々に下して候も、皆空言になりて候と聞こえ
候は、如何様に勧められたるやらん、不可思議の事と聞き候こそ不便に候え。

深く考えてみると、結局は信心が決定してなかったと聞いております。どのような理由でそれほ
ど多くの人々が動揺してしまったのでしょう。哀れむような状況があったと聞いております。そ
のような話がいろいろあるなかで、根も葉もない間違ったこともたくさんあると思います。親鸞で
あっても偏った間違いがあると思いましたので、一生懸命になって、唯信鈔・後世物語・自
力他力の文書の意味、二河の譬喩についても詳しく書き、皆様の方にお渡ししたところでござ
います。それもみな無意味になってしまったと聞いております。一体どの様な話があったのでし
ょうか。理解不能の内容だった聞きましたが要領を得ません。

123:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/07 01:04:26 8Ttr5yuL
 唯信鈔、様々の御文共は、今は、詮なくなりて候と覚え候。よくよく書き持たせ給いて候法門
は、みな詮なくなりて候なり。慈信坊に皆従いて、目出度き御文共は捨てさせ給いおうて候と聞
こえ候こそ、詮なく哀れに覚え候え。よくよく、唯信鈔・後世物語なんどを御覧あるべく候。

 唯信鈔などなどの文書は、今はもう意味が無くなってしまったように思います。一生懸命書い
てお渡しした文書は、みな無意味になってしまいました。慈信坊に騙され、大事な文書を破棄し
たと聞いております。誠に残念で悲しく思います。どうかどうか、唯信鈔や後世物語などをお読
み下さい。 


 親鸞さん。あなた頑張って書いたんですね。それが自力だったんですよ。お気持ちは充分分り
ますが、「ああ・・ そうだったのか」と今、気が付いたでしょう。その気付きが統べてて有り、
その後の念仏は頑張りではないのではないでしょうか。
 あぁというその時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情
の因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きがが得
られたのか、親鸞さん、御一考下され、御高見を。

124:あぼーん
あぼーん
あぼーん

125:神も仏も名無しさん
08/07/07 09:20:57 MoLnmLah
真宗およびその思想自身が異安心だろう


126:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/07 09:56:31 8Ttr5yuL
>>122-123
 思いついていきなり書くと他人に理解しにくい内容になる。122-123もそんな一つのようだ。
意味が分かりにくかった。失敗だ。

 >>117は頑張ると言うことが、なにかいけないことのように言っている。122-123はそんな印象
に呼応して書いたものです。

 >>117の「頑張るのはやはり自力と思います。」というここの文章は意味が分かりました。そ
れ以降「お気持ちは ~ 人々が得られたのか」は、意味不明の呪文のように聞こえます。「御
一考下され、御高見を。」は分かりました。

 122-123は、要するに、「頑張るのはやはり自力と思います。御一考下され、御高見を。」という
書きこみがあったものとしてレスしました。

127:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/07 09:57:46 8Ttr5yuL
 頑張りは大事なことです。自力・他力などとという以前の問題です。何事にも頑張るのは人と
して当たり前のことです。
 親鸞聖人という方は、非常に頑張る方だったと思います。現代において、親鸞聖人のたくさん
の文書を読むことができるというのは、あの方の大変な頑張りのお陰だと思っています。しかも
生前には、その頑張りを無駄にするような悲しい事件もあったようです。しかし、現代において
宗祖の文書を読むことができるのは、困難を克服した先人達の大変な頑張りがあったからだと思
います。

 犬畜生、虫けら、ゴキブリには頑張りは必要がない。しかし、人間に頑張りは必要です。人は、
まず、社会性ある誇りある健康人でありたいものです。あいつは信心があるケダモノだ。犬畜生
だ。死んだら極楽浄土に行くダニ、ゴキブリだ。社会の寄生虫だ。そのように他人から眉をひそ
められ、背中に唾を吐きかけられるような大信心の人にはなりたくないものです。

 生きているときには信心などなくていい。死んだらたとえ地獄の業火に焼かれても、少なくと
も生きている間は、犬畜生でなくありたいものです。他人から、虫けら、ゴキブリと後ろ指ささ
れる大信心家であるよりも、人々からは仁義礼智信をわきまえた努力家として愛され、尊敬され
るそんな無信心者でありたい。
 犬畜生・ダニ・ゴキブリからはたとえ偽善者・嘘つきと罵られても、死んで仏様になろうとす
るよりも、生きているときにはまず人間でありたいものです。努力と向上を目指す真人間として
ありたい。そう思います。

128:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/07 10:11:42 8Ttr5yuL
>125
 たとい牛ぬすびととはいわるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるように
ふるまうべからずとこそおおせられたり。

 信心などなくていい。死んだら地獄に堕ちるなら、そのまま堕ちて行くのもいい。しかし、生
きているときは、仁義礼智信をわきまえた常識人として生きていきたいものだ。

 アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野
原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西
ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロ
トイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボー
トヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ

 死後の往生極楽を願う怠惰な信心者より、今の生き方を大事にしようとする真人間、地味な努
力達を自分の手本にしたいものだ。

 浄土真宗を考えるのは、その先の先、ずっと後、夢の彼方で十分だ。

129:神も仏も名無しさん
08/07/07 10:42:52 MeNbZis/
>126-128
渡海難はゴキブリ以下である

まで読んだ。

130:神も仏も名無しさん
08/07/07 22:44:54 T9CnYF6Q
>121僕なんかは、限りあるいのち、フル活動で生きまくればいい。
阿弥陀さまが憑いてるから、大丈夫。どこまで堕ちようが、どこまで有頂天になろうが、
真実なんてそこにはない。煩悩のなせる業。じゃ、そんな真実らざるものをば
ポイッと捨てといて、弥陀の必ずたすけるをたのめみな人。
お強いですね。実にご立派。

131:神も仏も名無しさん
08/07/07 23:02:02 54HULpIN
そうですねえ。気持ちの良いくらい前向きな方ですね。
すばらしいと思います。
でも、後ろ向きでも暗くても、救ってくださるんですよね。阿弥陀様は。
それがうれしいです。

132:神も仏も名無しさん
08/07/07 23:22:03 T9CnYF6Q
117です >128死後の往生極楽を願う怠惰な信心者より、今の生き方を大事にしようとする真人間、地味な努
力達を自分の手本にしたいものだ。
 申し訳ありませんでした。御門徒を侮辱していました。


133:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/08 00:56:55 wVT+6V59
>131
障わらぬことなればとて、人の為にも、腹黒く、すまじき事をもし、言うまじき事をも言わば、
煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじき事をもせば、返す返す、あるまじき事なり。

勝手なことをやってもいいんだとばかり、他人に対し企みを立て、してはいけないことを行い、
言ってはいけないことを口にすれば、それは煩悩に翻弄されたという意味ではなくなる。悪いこ
とを意図的に行うということは、なんとしてもあってはならないことです(消息集)。


そうですねえ。気持ちの良いくらい前向きな方ですね。すばらしいと思います。でも、後ろ向き
でも暗くても、救ってくださるんですよね。阿弥陀様は。それがうれしいです。


 無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形ましますと
示すときには、無上涅槃とは申さず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き
習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞)。

 無上仏というのは形而下の存在ではありません。無形の観念的存在、形而上の存在です。だか
らこそ自然というのです。もし、有形の形而下の存在であれば、無上涅槃とは言いません。阿弥
陀仏というのを始めて教わったとき、無形の観念的概要を明らかにするために阿弥陀仏とい
う概念を使用すると教わりました。阿弥陀仏というのは、無形の観念を明らかにするための試料
です。手段です。道具です。人形です。

 131よ。自然法爾抄を百遍くらい声を出して読んでみるといい。頭がたたき割られるようなショッ
クを受けないと、おぬしのような人間は、ひょっとして、社会の寄生虫、ばい菌になるだけだぞ。

134:298
08/07/08 01:50:36 o3OFHSpf
>>131
もちろん、後ろ向きでも暗くても、阿弥陀様は救ってくださると思います。

135:神も仏も名無しさん
08/07/09 00:25:46 mUm89XYS
>131
強い?何が?
強いとか弱いとか、あてはめてない?自分に自分でリミッターつけて。
ホントはなんでも出来るのに、勝手にリミッターつけて、出来ないよ、俺なんかって思ってる。
君は、僕とは経験もちがう、生い立ちもちがうよね。
って事はだよ、君は、僕の持ってないたからものを実は一杯持ってるって事。
阿弥陀さまがいつだって、鬱陶しくてもw憑いてござるなら
「一切衆生を悉く救う」思いをあるじにしようよ。
明日にはなくなっちゃう命を不安に思ってる余暇があるなら、
その余暇を大切に過ごそう。ろくなこと出来ないかもしれないけどさ。
僕の生きた証は、世間にも歴史にも、評価されないことかもしれないけど、
僕は僕の精一杯の人生を生きたって言えるように生きていいんだ。
そんな僕に、命賭けてるお方、南無阿弥陀仏があるからね。
進もう、前へ前へ。
阿弥陀さまがいるよ。摂取不捨の真言が、もれなく憑いてる、憑いてる。
力になってくれる、思ってくれるお方がいるんだから、
突破できるぜ、何事も。くじけたって、絶望の淵に追い込まれても、
俺はいつも見られてる、守られてる、必ず助けるのお呼び声に。
南無阿弥陀仏に。


136:神も仏も名無しさん
08/07/09 00:53:39 4ozrJsI1
憑く、憑いている。何か特別の意味が有るの?

137:7
08/07/09 01:53:44 dZUFjzG0
お久しぶりです!皆さんお元気そうで何より。
調熟の光明は皆さん全員浴びているのですから、阿弥陀様のお育てに感謝して南无阿彌陀佛。
摂取の光明に救われた方はもちろん御恩報謝の南无阿彌陀佛。
みんなみんな、南无阿彌陀佛。信前も信後も南无阿彌陀佛。
嬉しい事です。

138:298
08/07/09 02:11:41 4G7sVeym
>>137
7様、お久しぶりです。お元気そうで、何よりです。
本当に、すべてが、南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛ですね。

◎此処に居ながら 畳の上で、他力不思議の 南無阿弥陀仏、
機法一体 願行具足、助け給えも 助かる法も、何もかも皆
此御六字に、こめて収めて たたんで巻いて、是をやるのじゃ
貰えよ早く、貰えさえすりゃ 悟りの都

南无阿彌陀佛

139:神も仏も名無しさん
08/07/09 07:27:37 mUm89XYS
>136
別に意味ないんだけど、憑む(たのむ)って、親鸞聖人が使ってるから、
ためしに使ってみた。キツネ憑きとか言われるから、
あんまりいい表現じゃなかったかも。


140:神も仏も名無しさん
08/07/09 22:33:44 egOrErGq
信心決定っていうのは一つの体験じゃなくて、状態を言うんだよね。
どんな体験をしても、その後、信心がくずれたら、妙好人とは言わない。

特定の体験をよりどころにして、その体験があるから助かっているとかいうのは、なんか違う。
特定の体験をさせることを表看板にしてるのは、なんか間違えてる。

今救われている、という思いが臨終一念まで続くのが、光明に摂取されているすがた。

141:神も仏も名無しさん
08/07/09 22:53:08 aBg3lQjQ
「今救われている」 と 「すでに救われた」 

どう違うんでしょう。

わたしには後者のほうがしっくりきますけれど。


142:神も仏も名無しさん
08/07/09 23:54:39 egOrErGq
「すでに救われた」というのは体験をたよりにしてる、つまり自分で何かにすがりついてる状態。
なんか重たい感じがする。
すがる手を離して、一切をうちまかせたら、軽々と楽になるのにね。

前に誰かが書いてたけど、仏教は今を大切にする教え。
過去に頼らず、未来を頼まず、
いま、阿弥陀仏に救われている、ということが大切。

143:神も仏も名無しさん
08/07/10 01:12:06 8vDZLuBN
>142
超同感。

144:あぼーん
あぼーん
あぼーん

145:あぼーん
あぼーん
あぼーん

146:神も仏も名無しさん
08/07/10 22:11:50 DgCOrZrN
>>140

>今救われている、という思いが臨終一念まで続くのが、光明に摂取されているすがた。

そのとおりですが、しかし、かならずしもそれが絶対条件というわけではないと思います。
死に臨んで心が揺れ動いたにしても、ひとたび光明に摂取されたからには、それが往生の障りにはならないのでは。
「今救われている」 、「「すでに救われた」  どちらも「体験」なんじゃないでしょうか。


147:117
08/07/10 22:49:34 mZz3L6Lg
>123親鸞さん。あなた頑張って書いたんですね。それが自力だったんですよ。お気持ちは充分分り
ますが、「ああ・・ そうだったのか」と今、気が付いたでしょう。その気付きが統べてて有り、
その後の念仏は頑張りではないのではないでしょうか。
 あぁというその時の感動の自然の行動が継続しているのであり、教えの探求もその自身の感情
の因を確かめんとする自身の欲求と思われます。何ゆえ「ああ・・そうなのか」の気付きがが得
られたのか、親鸞さん、御一考下され、御高見を。
 何か私の言い方が悪く、誤解を持たれたようです。ご上人の教えを伺い「気付き」を得たのは
下品下生の我が身で有ります。もしや、教えを説かれるご先達方々の過程を統べて「自力」と
言われえるのでしたらまた違う考え方も出来ましょう。

148:117
08/07/10 23:09:27 mZz3L6Lg
>統べて「自力」削除
統べて「自力や頑張り」
 

149:神も仏も名無しさん
08/07/11 02:52:09 +6qbNAJc
>>146
本当に「ひとたび光明に摂取され」るということは、「今救われている」という思い
(つまり信心)が続く、ってこと。
光明に摂取され、名号と一体になっているから、信心が崩れない。
心(意業)が乱れても信心が崩れないから、差し支えなく往生できる。

「あの時救われたから大丈夫!」とか、いくらがんばってみても、
肝心の信心が崩れていたら、その時点で往生は不可。

>「今救われている」 、「「すでに救われた」  どちらも「体験」なんじゃないでしょうか。

持続する「状態」と、過去のものである「体験」を一緒にしたらいけないと思うよ。


150:298
08/07/11 04:05:13 0CVZTCdC
>>149
「体験」というのも、現在の意業に過ぎないのではないでしょうか。
過去の体験を思い返したつもりで、それが何だと言うのでしょう。
重要なのは、弥陀の真実信心に他なりません。
南无阿彌陀佛

151:298
08/07/11 04:06:36 0CVZTCdC
>>149
また、崩れるのは、自力の信心です。
弥陀の信心が、どのようにしたら、崩れるのでしょうか。
私の心をあてにしても、水面に画ける絵のごとしで、
何のあてにもなりません。
南无阿彌陀佛

152:神も仏も名無しさん
08/07/11 12:27:05 7bIj6pgW
ブログ親鸞仏教 更新しました。
  www.しんらん.jp/


153:神も仏も名無しさん
08/07/11 14:29:19 r0xy7FLf
>「あの時救われたから大丈夫!」とか、いくらがんばってみても、
肝心の信心が崩れていたら、その時点で往生は不可。

それはそうですけれど、なにか「すでに救われた」という状態を、頭から否定しているように聞こえるのですが。
過去現在未来、いつ救われても弥陀の信心は同じなのではないでしょうか。



154:神も仏も名無しさん
08/07/11 20:47:28 OFVmPUfY
>>151

確かに観経疏で善導さんが言ってるね。
「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」

155:神も仏も名無しさん
08/07/11 22:06:10 +6qbNAJc
>>151
>私の心をあてにしても、水面に画ける絵のごとしで、

そうそう。
一度、水面にそれっぽい絵が書けたからといって、それをあてにするようでは、ね。
水面に絵をひとたび書かせて、これでよしというような団体はおかしい。ってこと。

ふたがとれて、月が映ったら、以降ずっと月が映りっぱなしということが大切。

ちなみに、自称善知識が「ほら、これが月ですぞ」と示したものを月と思ったらダメだよ?


156:神も仏も名無しさん
08/07/11 23:50:05 +6qbNAJc
>>153
>それはそうですけれど、なにか「すでに救われた」という状態を、頭から否定しているように聞こえるのですが。

「すでに救われた」と言う言葉の裏には、過去の体験を確認せざるをえない
不安が見え隠れしてるんだよね。

例えば、その体験がきれいさっぱりなかったとしても、今、往生一定と言い切れる?


157:神も仏も名無しさん
08/07/11 23:57:44 ZrV2dNf5
>>155

月が映っていると認識するのは、これも凡夫の体験なんじゃないですか?


158:神も仏も名無しさん
08/07/12 00:02:55 lg0W28oX
>>156

>例えば、その体験がきれいさっぱりなかったとしても、今、往生一定と言い切れる?

それは言い切れません。というか、無理です。
南無阿弥陀仏を称えることがなくて、なんで往生できるでしょう。
あなたのおっしゃることを考えれば、私にはそういうふうに思えます。

159:神も仏も名無しさん
08/07/12 09:27:24 bkW5k29p
J仏教なんてただの世襲の葬儀屋だぜ、相手にするなよ。
ニセモノの自称仏教イラネ

160:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/12 13:02:43 FSd8d++u
 極楽往生とはどういうことか。元親鸞会員の田中氏とチューリップ企画
との間で、長い論争が行われていました。

 両者の議論は噛み合わないまま、物別れになったようです。

 積み残された論点は数が多く、議論を見守っていた人々の中でも
煮え切らない不満があるようです。

 問題になった論点について、僕なりの立場から考えを提唱してみたいと
思います。

 ブログであらたなカテゴリーを立てました。

 ブログ親鸞ブッキョウ  www.しんらん.jp/

161:あぼーん
あぼーん
あぼーん

162:神も仏も名無しさん
08/07/12 18:03:59 8zsjkhTI
>158
言い切っていいんですよ。
そうじゃなければ、体験に依っているのではないと言う義が立たない。
あと、南無阿弥陀仏は称えるべきと勧められるけど、
称えた事は往生の正因じゃないよね。そうであれば、
極端な話、たとえ称名を称える事が出来なかったとしても、善知識のもと、
摂取不捨の誓いを聞いて、信楽開発すれば、往生治定と言う事。清浄之因唯信心と言う言葉に従えば。


163:神も仏も名無しさん
08/07/12 18:23:59 8zsjkhTI
>162蛇足
多分、真実信心必具名号と言う言葉が、反論として考えられるけど、
そしたら、清浄之因唯信心との言葉と矛盾なく、称名と信心との関係性を顕らかにしなければ、
親鸞聖人は、片や必具名号と言って、片や唯信と言ってる二枚舌の人って事になっちゃう。
どうする、どうする。

164:神も仏も名無しさん
08/07/12 18:27:25 v2Tb1W3Z
よく体験って言葉がつかわれてますが、皆さんの言うところの体験とは具体的に何なんですか?
あと、お念仏は感謝であって、往生とは関係ありません。
往生の因はあくまでも信心。
今更言うまでもないのでしょうが、信心正因称名報恩です。

165:神も仏も名無しさん
08/07/12 18:44:22 v2Tb1W3Z
真実信心必具名号。これはあくまでも信心の体は名号であるという意味ですね。
教学的に?言うなら、阿弥陀仏の名号が私に届き、その名号が私の上に信心となってあらわれる。とでも言えばいいでしょうか?

したがって、この名号は称名念仏とはわけて捉えるべきでしょうね。

166:神も仏も名無しさん
08/07/12 19:01:43 kg2KWTeL
>>165
>教学的に?言うなら、阿弥陀仏の名号が私に届き、その名号が私の上に信心となってあらわれる。とでも言えばいいでしょうか?

それじゃ信心の体が名号であるとは言わないな。名号とあなたの信心が別物だから。自力やね。

名体不離の名号だからだよ。分かるかな?

167:神も仏も名無しさん
08/07/12 19:08:51 v2Tb1W3Z
残念ながら分かりませんね。
何をもって自力だと仰ってるのか分かりません。
だからと言って説明して頂かなくても結構ですよ。おそらく何の説明もなく「それすら分からないとは話にならないね。」とでも言われるだけでしょうから。
それに別にあなたにどう思われようが構いませんし。

168:神も仏も名無しさん
08/07/12 21:29:16 vFQOR4KR
>>162

>そうじゃなければ、体験に依っているのではないと言う義が立たない。

そういう義があるのは知りませんでした。
それに私は体験に依っているのではないとは言っていません。
肉体を持って生きていくうえで、あらゆる感覚器官から受ける刺激や、身口意のはたらきを通した体験を抜きにしては、なにも成り立たないのではないかと思います。
信心も称名も体験としてとらえるのは間違いなんでしょうか。


169:神も仏も名無しさん
08/07/12 21:30:12 vFQOR4KR
>>163

そういう難しいことをおっしゃられてもよく分からないので、「どうする、どうする。」と言われてもどうもできません。

少し呆れはしましたけれど。

170:神も仏も名無しさん
08/07/12 22:15:31 8zsjkhTI
>165
それは違いますね。行巻には、
「しかれば、名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり~」と言われています。
さすれば、弥陀の仏名を称えるという行為は、正しくこの世界において、
最も尊い業と言わねばなりません。煩悩の発生源である無明を破す、とまで言われるのですから。
膨大な功徳利益をもたらす最勝の行いと言わねばなりません。
そののちに、六字釈によって、この称えている南無阿弥陀仏の本質は何か?
と言うところに行き当たるわけです。
称名と言うも、その本体は南無阿弥陀仏であって、
さらに南無阿弥陀仏の本体は何かと突き詰めれば、
「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふのこころなり」
即ち、本願力回向、本願他力なんだって事です。これは信巻へのプロローグと考えていいでしょう。
信から行へが、普通一般の仏道修行のプロセスでしょう。
何故なら、信じたから、行ずる、というのが至極当然だからです。
この人の言っている事は本当だ、信用に値する、と信じ、
それに準じて行動を起こすのが、我々の常の姿だからです。
この商品はなるほど信頼できる素晴らしいと信じてから、
買うという行為が起きる。この方程式にあてはめるなら、
「教信行証」と言う構成になっていなければ、
おかしい。でも、親鸞聖人は「教行信証」と語られるんですね。
~つづく~

171:神も仏も名無しさん
08/07/12 22:26:36 8zsjkhTI
>169
ごめんなさい。
体験すると言った時、体験したのは、誰が体験したのかと問われれば、
私以外にありませんよね。ところが、私達は、末代無痴の凡夫と言われます。
その煩悩具足の私が体験したことが真実だと言えますかって事です。
それが、救われたでもいいし、気分がよくなったでもいいのですが、
その体験をもって浄土往生が叶うと言えるか、
即ち親鸞聖人が言われる真実信心と言えるだろうか?ということです。


172:神も仏も名無しさん
08/07/12 22:58:35 auo6aKJt
>>171

>その煩悩具足の私が体験したことが真実だと言えますかって事です。

言えるかどうかはわかりません。
しかし、体験してみないことには何もわからないのもまた事実だと思います。
念仏為本、信心為先とは、そういうことではないのかなと思うのです。

ここを読んでいるうちに、教学というものはたいへん膠着したものだなあという思いがしたので、素人考えについ変な書き込みをしてしまいました。お許しください。


173:298
08/07/13 01:58:40 gcoAGi+V
>>172
教学で助かるわけではないですからね。
言いたい人には、言わせておけばいいと思っています。
理屈では助かりません。
一文不知の方も助かる教え。
素朴な感覚が大切だと思います。
南无阿彌陀佛

174:神も仏も名無しさん
08/07/13 02:08:49 5lVRVBHW
>>158

ちょっと無茶な質問だったかも。ごめん。

大切なのは、今現在、本願を信知して南無阿弥陀仏を称える身であること。
それに比べたら、過去の特定の体験は、あってもなくても同じようなもの。

信心開発というのは、何かの免許をもらうようなものじゃなくて、
阿弥陀仏の本願に対する信が起こさしめられる、一番最初。
その後は、その一念と同じ信が、他力によって起こされ続ける。


175:298
08/07/13 10:35:25 0Fn9N9Cb
>>174
因があって、果があるのですから、過去の特定の体験が異なれば、
現在の状況は、異なるのではないでしょうか。
現在は、過去から独立しているのでしょうか。
「宿縁」を、忘れてしまってはいませんか。
ましてや、光明のご縁を忘れることがあって、良いのでしょうか。
無記になるかもしれぬ私たちですが、意識ある間は、
御恩を感じ、お念仏申したいものであると思っております。
南无阿彌陀佛

176:神も仏も名無しさん
08/07/13 12:54:47 ftkobyih
>172
現代は、体験という執着が強化されたんです。これは近代自我主義を選択し、
それに基づいて教育されてきたのだから、当然の結果でしょう。
しかし、仏教は「それは真実か否か」を問います。
さて、
弥陀の救済、本願力即ち「必ず浄土に生ぜしめん」「必ず仏と成さしめん」
が働いている、という表現と、弥陀の救済を私が体験する、
ここには雲泥の差があります。片や、弥陀にまかせたすがたであり、
片や、弥陀にまかせた自分の体験を重視するすがたです。
ためしに、妙好人と呼ばれた方々が「私は信心開発という体験をしました」
と言われている所を探してみるといいですよ。
まず無いと言っていいんじゃないかな。
私の体験より、弥陀が必ず助けると誓われた事が最重要事であるからです。
そして、弥陀の本願が働いているのは、有限の存在である無常の私にとっては、
「ただ今」しかありえません。過去は過ぎ去り、未来は未だ来ない。
杞憂や体験を真実絶対だとし、そこに基を置くのならば、
結局、無常をたよりにしていくだけの生き方になり、
無常であるがゆえに迷惑も苦悩も消滅する事が無いってことです。


177:神も仏も名無しさん
08/07/13 12:56:12 +h/I8Z15
>170
何を仰りたいのかイマイチ分からないのですが、何が違うんでしょうか?
名号とは即ち私を救わんとする弥陀の本願力そのもの。その名号が私に届き、私をして信心獲得せしめ、その後には報恩感謝の称名となりてあらわれる。
私はそうお聞かせ頂きましたが、何か間違ってますでしょうか?

178:298
08/07/13 13:03:52 0Fn9N9Cb
>>177
私は、177様と同意見だと思います。
六字こそが、信の体です。
自分で塗り固めた信など、たよりにならないと思っております。
南无阿彌陀佛

179:神も仏も名無しさん
08/07/13 14:26:01 ftkobyih
>177
ごめんなさい。書きかけのままでした。
信巻の「真実信心は必ず名号を具す」で言われる名号は、南無阿弥陀仏のお働き、
いわゆる法体名号を指すのではなく、私たちが称える称名と言わねばならない。
結論から言えば、以上です。


180:神も仏も名無しさん
08/07/13 17:30:45 +h/I8Z15
なるほど。必具名号の名号の部分でしたか。
今あらためて調べましたら、確かに私が間違っていました。申し訳ありませんでした。

298さん、ご意見どうもです。

181:神も仏も名無しさん
08/07/14 00:07:14 +ZbO+dBu
>>175
>因があって、果があるのですから、過去の特定の体験が異なれば、
>現在の状況は、異なるのではないでしょうか。

私たちの過去の特定の経験は、往生の因とはなりえませんよ。

>ましてや、光明のご縁を忘れることがあって、良いのでしょうか。

今現在の光明のご縁を、過去のものとして、良いのでしょうか?


182:神も仏も名無しさん
08/07/14 14:38:53 SYPL6V+E
過去の特定の経験にこだわるべきではないのなら
面授口訣とか次第相承とかはかならずしも、というか、
まったく必要ではない?
かならず助けるという弥陀の本願を、自分なりに信じると
いうことでOKなのかなあ。



183:神も仏も名無しさん
08/07/14 14:41:07 k+VXVtli
顔面評価スレで「はっきりいいます。生理的に無理です。私みたいになんとなくそう思う女性は多いと思います。」って言われました。俺は何を思って生きたらいいんでしょう。晒しまくったら何十回も生理的に受け付けない顔と言われました。みなきゃよかったと…

184:神も仏も名無しさん
08/07/14 16:32:09 35rqlNdA
>182
他力信心に、面授口決だろうとも、次第相承だろうとも、
何物も一切差し挟めないでしょう。
一心一向に弥陀をたのめと言うみ教えにしたがって(このことを
私に教えてくれた方が「私にとっては」善知識ね)、
弥陀を一心一向にたのむ生活をおくる。
弥陀の悟りの功徳を頂戴しながら生きるから、
自ずと現生十益に言われるように、ご利益多き人生を歩む事になると。
平生業成ですね。


185:神も仏も名無しさん
08/07/14 16:37:59 35rqlNdA
>183
人形は顔がいのちかもしれないけど、人間は人生がいのちさ。
くよくよばかりしてると、くよくよ人生になっちゃう。
そっちの方が問題じゃん。気にはなっても、気にすんなって。
ドンマイ、ドンマイ!


186:神も仏も名無しさん
08/07/14 17:31:27 ZS7BknvQ
>>184

たのむ一念の時、往生は一定と存じるものなのでは?
平生業成は一念で定まるものなのでは?
あなたは一心一向になったつもりで日々生活されているのですね。
達者な内はそれでもいいでしょう。しかし明日も分からぬ身で、一心一向に日々弥陀をたのむ生活などあり得ない話。
所詮は自力の域を抜けていない。

往生一定の一念に全てが籠っているから、いかに己が生活しようが、
どんな死に様になろうが関係がない。四種の往生はそれを教えている。


187:神も仏も名無しさん
08/07/14 21:57:27 35rqlNdA
>186
どんな死にようになるかなんて、逆立ちしたってわからないのに。
未来は未だ来ないんだから。
病気になって、親の顔もわからなくなって、自分の名前もわからなくなって、
ま、そういう風に終わってしまうかもしれないけど、
口に世事を交えず、高声念仏で、感謝に満ちあふれて終わるかもよ。
脳内麻薬が分泌されて、二十五菩薩が紫雲に乗ってお迎えにくるのが見えちゃうかも。
想定不可能のものを想定するのはナンセンスって事。
そんな不定な事ばかり、気にして生きてるなんて、生ける屍みたいなもんだ。
つもりも何も、今、若不生者の誓いを聞くだけ。それに基づいて念仏申し、生活するだけ。
別になんたることもないやね。


188:神も仏も名無しさん
08/07/14 22:45:46 h62jk7CX
なるほど。
よく分からないけど、なにも心配せずに念仏しろってことかな。
で、187さんの往生は治定ですか?

189:神も仏も名無しさん
08/07/15 00:11:41 A2EJqFxt
>>188

残念ながら20願止まり。

190:神も仏も名無しさん
08/07/15 00:15:07 s06U12RN
>188
それじゃあ、阿弥陀さまに聞いてみようか?
ぴっぽっぱっぽっぴっ。
「もしもし、如来さま。若不生者のお誓いは、真のお心で起こされたのですか?」
「そうですよ、あなたに真の心が無いからね。それではあなたは浄土往生は言うにおよばず、
ずーっと迷い続けちゃうからね。」
「そうでしたか。じゃあ、その真のお心をたよりに生きていきます」
「いつも護ってるからね、みんな見てるからね」
「ありがとうございます」
信心決定したか否かを凡夫の心に聞いたって、土台、真の心などありゃしない。
聞くだけムダな話じゃないか。若存若亡の凡心、信外の軽毛。吹けばどっかに飛んでくよ。
いつでも、間違いない仏に聞く。聞其名号は信心歓喜。
摂取不捨の真言まことなるかな。


191:神も仏も名無しさん
08/07/15 00:29:48 s06U12RN
>188
何も心配せず念仏称えるなんて出来んの?スゲーなあ。定善の人?
末法濁世にそんな人いるんだ。築地市場の中に、虎が歩いてるより珍しいわあ。
私には出来そうもないよ、明日のことさえわからないのにさ。
私は、何の心配もせずに念仏称えなさいなんて書いた覚えはないんだけど。
弥陀の「必ず浄土に往生させる」この誓願ひとつをたのめって
勧めさせていただいてるだけなんだけど。
さすれば、必ず現生に十種の利益を得るよって事。
入正定聚の利益があるんだから、死は解決だよね。
必ず浄土に生まれるに退転しない仲間が、正定聚なんだから。

192:神も仏も名無しさん
08/07/15 01:07:25 0wkI5Gxa
>>186
>しかし明日も分からぬ身で、一心一向に日々弥陀をたのむ生活などあり得ない話。

有り得ちゃうんだよね。これが誓願不思議。凡夫の智恵で理解できる範囲を超えてる。

日々、一心一向に弥陀をたのむ心が、他力によって起こされ続ける。
これが信心決定したるすがた。

むしろ過去の特定の体験をよりどころとしている人こそ、自力。


193:神も仏も名無しさん
08/07/15 13:56:57 QxpazYNt
たぶん効能書きを読んでるだけなんだろうなあ
と思ってしまうオレは邪見のカタマリ。

おどろかす甲斐こそなけれ村雀耳慣れぬれば鳴子にぞのる

194:神も仏も名無しさん
08/07/15 14:33:37 QxpazYNt
しかし御伝鈔なんか読んでると、体験とかたくさん出てくるような気がするし

195:神も仏も名無しさん
08/07/15 14:46:05 A2EJqFxt
>>192

ブッブー。誤りでしゅ。それでは他力誓願不思議の言葉に酔ってるだけ。

口伝鈔読んでみ。

「さればいくたびも、先達よりうけたまわり、つたえしがごとくに、他力の信をば、一念に即得往生ととりさだめて、
そのとき、いのちおわらざらん機は、いのちあらんほどは、念仏すべし。これすなわち、上尽一形の釈にかなえり。
しかるに、世の人つねにおもえらく、上尽一形の多念も、宗の本意とおもいて、それにかなわざらん機の、すてがてらの一念とこころうるか。
これすでに、弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆえは、如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし多念をもって、本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。」

以上終了。

196:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/15 16:56:02 Tiz1tx0/
>>195
 195よ。往生をもたらすその一念の念仏とはどんな念仏なんですか?。一度称えたら、金輪
際二度と念仏を称えないという、そういう種類の念仏なんですか?
 それとも、一度称えたら、次にも、次にも、命ある限り繰り返し、繰り返し南無阿弥陀仏が重
ねられていくことが、当然のようにして予定されている、そういう念仏なんですか?。
 貴方は、一念の念仏で往生が決まったら、二度と念仏を称えないのか?それとも、当然のこと
として、次にも、次にもひたすら称え続けていくのか?。どっちなんでしょうね。

 貴方の一念の念仏は、二度と称えないでいい、そういう念仏なんですか?一念の念仏が、念仏
を称えないでいいことのいいわけに使われている気がしますよ。

 「要するに、自分は念仏を称えたくないんだ」と、あなたは言っているんでしょう。貴方は、念仏が
好きですか、嫌いですか?

 自分は念仏が嫌いなんだ。念仏なんか称えたくない。そう思うなら、屁理屈はいらない。堂々と腹
を決めたらどうですか?
 貴方に、念仏を称えてくれなどと、そんなことを頼む人も、勧めている人もいないんですよ。その
ことをしっかりと認識しようよ。念仏なんか頭から忘れるといいでしょう。

197:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/15 17:08:59 Tiz1tx0/
>196
 195を考える分かりやすいたとえ話に気が付いたよ。

 一度称えたら、もう二度と称えないでいい。なぜならそれで往生は決定したのだから。つまり称
名念仏が、極楽往生取引の交換条件になっているんだね。お金を払えばディズニーランドに入
場できる。入場すれば、もう入場料は払う必要がない。金を払ったか払わないかで入場の可否が
決まる。念仏を称えたか称えないかで、往生できるかどうかがきまる。一念の念仏とは、往生極
楽の通行料なんだろうね。
 入場料は一回払えばいい。これが阿弥陀の本願である。御伝抄の教える195の考えた往生極
楽のノウハウのようだな。


198:神も仏も名無しさん
08/07/15 18:08:21 Tiz1tx0/
 一人の人物が、ディスニーランドの正門から、大手を振って中に入っていった。

警備員「お客さん。お客さん。入場料を払って下さい」
客 「む?。入場料? そんなものは、10年前に一度払ったわい。」
                                         <誤伝笑>

199:あぼーん
あぼーん
あぼーん

200:神も仏も名無しさん
08/07/15 19:07:44 A2EJqFxt
>>196-198

ブーブー。新興宗教開祖の外道はお呼びでないずら。
口伝鈔を引いただけで勝手な妄想しない方がいいぞい。
これを否定すればお前さんが外道確定だぞ。

以上終了

201:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/15 19:49:11 Tiz1tx0/
>200
>新興宗教開祖の外道はお呼びでないずら。

 まあ、新興宗教開祖の外道は呼ばなくてもいいが、先人の真意は正確に理解しておきたいものだ。

>これを否定すればお前さんが外道確定だぞ。

 僕が口伝鈔を否定した?。心当たりがないな。まあ、覚如の書き物なんかは、僕は嫌いだけどね。

 僕はA2EJqFxt>>195を否定したんだよ。A2EJqFxtは、自分が否定されると、口伝抄が否定された
ように錯覚するのか?。
 A2EJqFxtは、教祖になって口伝抄で新興宗教でも起こそうというのか?

 自分と口伝抄との区別が付かないというのは、いささけ幼稚じゃないか?それでおぬしは、自分が
20願を越えて18願に入っていると(>>189)、錯覚しているんか。
 おぬしの新興宗教は、三日と持たんぞ。

              以上終了   -笑-

202:神も仏も名無しさん
08/07/15 20:12:19 s06U12RN
>194
例えば?
>195
善知識に遇って、仏願の生起本末を聞き、信心決定するも、
僕らはすぐ死んじゃうような短命なものだから、
南無阿弥陀仏の南も言わないうちに息絶えるかもしれない。
阿弥陀さまはそれをよくご存知だから、信心決定をもって浄土往生の因とされたと。
でも、信の一念は相続心であります。あながちにブ、ブーとは言えないんじゃないかな?


203:神も仏も名無しさん
08/07/15 20:13:13 A2EJqFxt
>>201

釣れたずらw

全部そっくりおぬしに返しますわ。
十八願は遠いのぉ。

以上釣り終了

204:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/15 21:03:05 Tiz1tx0/
>203
 釣りごっこだったの?
 大きい餌だったな。自分の体そっくりそのままを釣り糸の先にくくりつけ、
私を食べて下さいと獲物に餌として我が身を差し出すとは、お主もたい
そう愉快だな。

 これじゃ18願など、夢のまた夢。 -笑- 

205:神も仏も名無しさん
08/07/15 21:45:49 IpDpdFUq
たのむ心が他力によっておこされ続ける念仏 と 御恩報謝の念仏
これって同じもの?


206:神も仏も名無しさん
08/07/15 22:53:16 0wkI5Gxa
>>193
せめて効能書きを照らし合わせないとね。
御六字と違うものを、飲まされてるひともいるかもしれないから。

>>195
前後をよく読んでね。これは、多念の功をもって往生しようとするのは自力だよ、ってこと。

「一念は多念のはじめたり、多念は一念のつもりたり。ともにもつてあひはなれずといへども、
おもてとしうらとなるところを、人みなまぎらかすものか。」(口伝抄)

最初の一念で往生治定したらその先は、命ある限りその状態が念々に続くわけ(多念)。
いずれにしても、「今助かっている」こと=今、信の一念があることが大切。

>>205
他力によって信が起こされるから、口に称える御恩報謝のお念仏がある。
でも、口に称える御恩報謝の(つもりの)お念仏があっても、信があるとは限らない。


207:神も仏も名無しさん
08/07/16 01:01:07 x3+pqiWg
名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:04/05/10 19:39
>>508
さてその信仰といふはいかやうなることぞといへば、ただ「南無死に神様」なり。この南無死に神様の六
つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち信仰のすがたなり。
 されば、南無死に神様といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなる
こころぞといへば、理屈を抜きに死に神様がいるのだと信じたてまつりて、霊魂を天国に導いてください
とふたごころなく、死に神様の存在を信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。

つぎに「死に神様」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに死に神様の存在を一心に
信じ、疑いのこころのなき人を、かならず死に神の御身より、あーら不思議に光明を放ちて、照らして
くださいます。そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて死ぬときにはかの死に神様は、霊魂を天国
におくりたまへるこころを、すなはち死に神様とは申したてまつるなり。

 いいことをすることは雑行、自力です。悪いことをしてもいいんですよ。所詮、この世は意味がない
ところです。大事なことは天国に行くことです。さあ、死に神様の天国に一緒に行きましょう。


208:神も仏も名無しさん
08/07/16 08:28:28 ziRGd0vA
パロディにしていいものと悪いものがあるんじゃないかな

209:神も仏も名無しさん
08/07/17 11:57:41 h1nOygaa
仏願力にはからわれながら、日々時々をおくる。
煩悩中心の私が、仏願力に帰る。
真実は「必ずたすける」と誓われた仏心だけ。
この御心に順ずる生活は、真実心のもたらす落ち着きがあり、歓喜心がもたらす楽しみがある。
苦に苦を重ねる生活が、摂取不捨の大益によって、日々転ぜられていく。


210:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/17 13:07:11 jhW5LtvS
>209
 浄土真宗では、新手の呪文が発明されたようですね。
 意味不明の怪電波は、インターネットに乗せない方がいいだろう。
宇宙人が誤解する。

211:あぼーん
あぼーん
あぼーん

212:神も仏も名無しさん
08/07/17 15:19:09 I9tPfJIW
>>210

ってか、この人ある意味おもしれー!!
怪電波是非俺にも飛ばしてくれ!!座禅しながら発するのか??

213:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/17 20:05:43 jhW5LtvS
>212
>この人ある意味おもしれー!!

      ある意味?。どういう意味だね?

>怪電波是非俺にも飛ばしてくれ!!座禅しながら発するのか??

 電波をとばせ?。難しいな。 電波には同調する波長が大事なんだよ。
 おぬし、親鸞さんと同調しているようには見えないな。親鸞さんと波長が合わ
ないおぬしの電波に合うような電波を送るというのは、並大抵ではない。

214:神も仏も名無しさん
08/07/17 22:00:51 h1nOygaa
他力というは本願力なり。他力信心と言うならば、本願力回向の信心と言わねばならない。
我執によってこしらえられた信心ならば、本願力回向の信心とは言われない。
真実信心の人は、この本願力回向の奴隷である。
自力信心の人は、自力の見解と感覚の奴隷である。
本願力回向の奴隷の足枷は、弥陀の本願だけである。「必ずたすける」これだけ。
自力信心の人は煩悩の奴隷である。我が感覚を信じ、我が感覚を主人とし、
他者と対峙する。他者も、また我が感覚を信じ、我が感覚を主人とするものである。
何度輪廻を繰り返しても争いは絶えることがない。自力の迷妄の失である。



215:神も仏も名無しさん
08/07/17 22:24:17 VQCS9vIf
>>214

>自力信心の人は煩悩の奴隷である。我が感覚を信じ、我が感覚を主人とし、
>他者と対峙する。他者も、また我が感覚を信じ、我が感覚を主人とするものである。
>何度輪廻を繰り返しても争いは絶えることがない。自力の迷妄の失である。

このスレには真実信心の人は一人もいないということ?

216:神も仏も名無しさん
08/07/17 22:26:58 LTd6QGdw
>>215
>このスレには真実信心の人は一人もいないということ?

そういうこと。
このスレには渡海難とか298のようにちょっと変な人はいるけど、真実信心の人はいない。

217:神も仏も名無しさん
08/07/17 22:49:56 h1nOygaa
他者に真実信心の人をもとめる事に意味はない。それを判断する私が、
判断できるほどの力が無いからである。弥陀の本願においては、
末代の凡夫に、判断力を期待しない。智者も愚者も、弥陀の救済対象は、
ともに凡夫でしかありえない。世間で智者と言われようが、自分で判断しようが、
自身を智者と思っている者は、弥陀の本願をたのまず、
自身の積み上げてきた経験、それによる見解という名の作品に生きる。
有限の自己解釈、欠陥の自己感覚の奴隷は、争いを好む。
自分の正当性を主張して、同じく欠陥の他者と対峙するからである。
欠陥同士が争っても、出た答えはいつでも欠陥品なのは言うまでもない。
「俺は正しい」と死ぬまで言い続ける人の生きざまに
時として、人はそれに信心を見、信用するが、皆自力信心、欠陥品である。
見るべき場所を間違えているのである。


218:神も仏も名無しさん
08/07/17 23:56:46 VQCS9vIf
つまらん。

座禅して念仏したりする人が出てくるのも、仕方ないかもしれんね。

219:神も仏も名無しさん
08/07/18 00:22:06 yEG5RrMS
本当に、念仏の無い生活なんてつまらない、むなしいもの。

如来の本願を忘れて刹那的に享楽的に生きるものの行く手にあるのは、
やみばかり。
間に合わなくなってから気づくよりも、今気づくべきだと思う。

生のどん底にある地獄…死に出会うときが、誰にでも必ずある。
言葉も思いも絶え果てる絶望に出会うときが。
そのときに、如来の本願に一切をまかせて逝けるかどうかは、今、平生に決まる。


220:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/18 01:04:03 V2pONTuy
>218
顕浄土真実行文類二 愚禿釈親鸞集 浄土五会念仏略法事儀讃に云わ
く、 ~ 王いま座禅してただ当に念仏すべしと。

 座禅して念仏することを勧めている人 → 親鸞

>>218
>つまらん。
>座禅して念仏したりする人(つまり親鸞なんかが)が出てくるのも、仕方な
いかもしれんね。

 つまらん親鸞なんか相手にするの、やめたらどう?。人生には面白い道は
他にもいっぱいあるぞ。

>219
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
 信心の人は当然のこととして、称名念仏はげんでおるぞ。


221:神も仏も名無しさん
08/07/18 13:23:25 5i9KLgb5
>>219
>生のどん底にある地獄…死に出会うときが、誰にでも必ずある。
>言葉も思いも絶え果てる絶望に出会うときが。
>そのときに、如来の本願に一切をまかせて逝けるかどうかは、今、平生に決まる

これはもっともだね。
つまるつまらん関係なしに死はやってくる。
たぶんオレは、ぶっちゃけ死に臨んだとき、如来の本願を疑うと思うなあ。

さておき、
真実信心の行者なら、それでも往生間違いなし?
それとも、疑いなど塵ほども思わないのが本当?

222:神も仏も名無しさん
08/07/18 20:51:39 FTfmqNNe
>>221

愚禿悲歎述懐第一首にこうある。

浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし

横川法語にはこうある。

妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。

改邪鈔にはこうある。

そのゆえは、まず「金剛心成就」という、金剛はこれたとえなり。
凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。
されば大師の御釈には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」(序分義)と云々 
不成の義、これをもってしるべし。

223:神も仏も名無しさん
08/07/18 23:41:11 myXlYJXW
>221
考えすぎじゃないのかな。未来の事は予測に過ぎない。
その予測に過ぎない事に捉われる必要はないよね。
信用に値するのは、必ず浄土に参らせると言う、
無上覚者の誓いでしょ。予測よりも、中心にすべき事は何か?
自ずと知れるよね。


224:神も仏も名無しさん
08/07/19 00:52:16 1CMgiKhK
>>221
正直だよね。それは凄いと思う。

それはともかく、平均寿命からすれば、死に臨むのは何十年先と思うかも知れないけど、
突然の病に倒れるかもしれない。実は明日にでも、通り魔にやられるかもしれない。
いやいや10分後には、心臓が止まってるかもしれない。
死の縁はどこにでも転がってる。

だから先のことと考えないで、今、疑っているかどうかを考えるほうがいいんじゃないかな。
本願に疑いあるままでは、真実信心の行者とは言わないし、報土往生は叶わない。

真宗門徒としては、釈尊、諸仏方、善智識方が示してくださる道をいくだけ。
疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。


225:神も仏も名無しさん
08/07/19 08:50:50 Z/Ha/nES
>>223

「若不生者 不取正覚」だけ見つめても意味がない。願文・成就文をもう一度見てみよう。
それだけでは十劫安心・無帰命安心と呼ばれる。佛因がない状態で助かる助かると喜んでいる状態。
「至心・信楽・欲生」の三信、「聞其名号信心歓喜乃至一念」を具足したものに対するお誓い。即ち信心正因だね。

未来の予測は私たちにはできない。それは確かだが、だからこそ只今、往生一定の身にさせて頂かねばならない。
今というのはいつまで経っても今でしかないが、その今という時間には限りがある。これは確かなこと。
平生業成こそ真宗の大事。

>>224

>真宗門徒としては、釈尊、諸仏方、善智識方が示してくださる道をいくだけ。
>疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。

聞きぬいてみなさい。聞きぬけない自分が分かるから。


226:神も仏も名無しさん
08/07/19 09:11:35 /I3rXVNA
>225
違うよ。若不生者の誓いを好ましく信ずるのが信楽。
三不三心との懇ろなお示しがあるのに、
誓願不思議が?願成就の名号か?みたいに人を惑わすような事を言ってはダメ。
僕もかつてそうだったけど、領解心をあてにすると、
誓願成就の南無阿弥陀仏六字中の帰命とは言えなくなっちゃうのさ。
つまり自力帰命だね。聞きぬいた心をあてにしちゃうんだよね。
仏智不思議を疑う罪は、ホント根深いなって思う。


227:神も仏も名無しさん
08/07/19 10:41:53 /I3rXVNA
おまけ
「十悪五逆の罪人をわれたすけんという大願をおこしたまひて、阿弥陀仏となりたまへり。」
阿弥陀仏の救済対象は、十悪五逆のわたしって事。
その誓願を疑いなく慮りなくたのめとのお勧めだよ。
法話をたくさん聞いたり、仏書をたくさん読む事は、
知恵もつく。理解力も深まる、感動も多い。
この土で、生きていく上での大きな楽しみの一つだね。
でも、生死の拠り所にはならない。
人よりものを多く知ってる。彼より、領解が深い。
あいつより俺は聞きぬいている、なんて思ってる。
まるで一念多念のひがごと、そっくりじゃん。
そんな比較を気にして生きてても、仏恩報謝にはならないし。
世の中、上には上がいるのにね。ま、その頂点は阿弥陀さまの本願なんだけどね。
必ず浄土に生まれさせていただくと信じ、念仏申すのが肝要だね。

228:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/19 10:58:47 EwoTg050
>>224
>疑い晴れるまで本願を聞き抜いて、お念仏称え抜くことだけ。

 称え抜かなくていい。南無阿弥陀仏と称えたら、称えた念仏はさらにその上にもう一度南無阿
弥陀仏が重なることを待っている。南無阿弥陀仏と称えたら、その上にまた南無阿弥陀仏を重ね
る。繰り返し、繰り返し称えていく。
 称名念仏は、疑いが晴れても称えていく。疑いが晴れなくても称えていく。

 正式には結跏趺坐し、あるいは半跏趺坐であしを組む。蓮華座は極楽浄土の正式な着座法だ。
自分一人の時は、胡座でも、正座でも、いいだろう。胡座・正座は略式だ。
 腹式呼吸で息を整え、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とゆっくりと称える。僕は南無阿弥陀仏の
ナからツまで8秒かかる。念仏は座禅して称えるのが親鸞流だ。

 自分は歩きながら称えたいという人は、歩きながら称えるといい。歩幅は踵から爪先までの長
さが丁度いいようだ。正面を見据え、普通の速さで南無阿弥陀仏と称える。称え終わったら右足
を一歩進める。また南無阿弥陀仏と称える。終わったら左足を一歩進める。歩行禅のやりかたに
南無阿弥陀仏を重ねるといい。渡海難がお勧めの方法だ。

 自分は寝ながら称えたいという人は、楽な気持ちで大の字になる。腹式呼吸で、ゆっくり南無
阿弥陀仏を称えていく。
 自分は速く称えたいんだという人は、速く称えるのもいいだろう。南無阿弥陀仏はいやだ。自
分は帰命尽十方無碍光如来と称えたいという人は、それもいいだろう。

 信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし

 称名念仏の励みで、疑い晴れた信心の人が、疑心自力の行者に負けたら残念だ。
 信心の人も、疑信自力の行者に劣らじと、如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし。

229:あぼーん
あぼーん
あぼーん

230:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
08/07/19 13:36:55 EwoTg050
ブログ 親鸞仏教 歎異抄論 更新しました。

 www.しんらん.jp/


231:神も仏も名無しさん
08/07/19 13:56:53 tpKF83+0
>>230
見てる人っているの?

232:神も仏も名無しさん
08/07/19 13:59:05 8/c04u+A
みんなオレとそんなには変わらないのが、よく判った。
知識の多寡に差はあっても、そんなもの、とことんのところでは関係ないだろうし。
信心を、実感として語れる人はおらんですか。

そう言いながら、そんな人が出てきたら、たぶん眉に唾をぬるのだろうけど。



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