09/05/25 00:59:17 9gH0eicX
信心決定すれば自力の心は一切なくなるとは真宗の教義である。
ならば、信心決定したものは自力の心がないため
認識するかしないかは別として、自力の心のまじらぬ体験をすることは明らかである。
しかし、自力の心がまじわらぬ体験をしたから
私は信心決定していると、体験を信心の証にするものがあれば
この人は、信心ということがまったく分かっていないか
体験による自分の心の変化が信心の本質と勘違いしているかのどちらかと
受け取られても仕方がない。
この人が信心を得ていないとは私は断定できない。
だが、彼が自分の信心を語れば語るほど
その他の寡黙な信心決定したものに現れた信心の形というものが
否定されることになる。(信心は同一でも人の味わいは別々。)
もし、この人が体験がなければ信心決定したとは言えないなどと
言うことになってしまえば、わたしはこう言うだろう。
過去から続く自分の三業を通してうけとった、ある現象の体験が
阿弥陀仏が起こした一刹那も清浄ならざるない三業の所作と
同等であるはずがない。もしその体験が信心をいただいた
証であるなら、それは浄土真宗の信心ではない。
重ねて言うが別に私はこの人が実は未信だと言っているわけではない。
また未信ではないと言っているわけでもない。
ただ、この人の言うことが浄土真宗ではないと言っているだけだ。
なぜなら、浄土真宗は信心を要とする教えだから。
信心は体験ではない。