09/05/23 11:41:51 HwFlWMFp
謗法論を続けます。
謗法あるいは五逆罪の本質は何なのか。問題点の核心はどこにあるのか。教行信証の
中から学んでいく。
大王、例えば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるが如し。殺もまたかくの如し。非有・
非無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人は即ち非有とす。無慙愧の人は即ち非無
とす。果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。空見の人は、即ち「非有」とす。有見の人
は、即ち「非無」とす。有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見
の者は果報を得るがゆえに、無有見の者はすなわち果報なし。常見の人は即ち「非有」とす。
無常見の者はすなわち「非無」とす。常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆ
えに、常常見の者は悪業果あるがゆえに、このゆえに常常見の者は「無」とすることを得ず。
この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は
出入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また
説きて「殺」とす。乃至
大王、例えば悟りというものは非有である。つまり悟りなどは存在しない。そして非無で
もある。存在しないということでもない。つまり存在する。殺すと言うこともこれと同じであ
る。五逆罪も、謗法も同じだ。非有・非無にしてまたこれ有なり。
ここでは慙愧が判断の分かれ目になる。慙愧の人つまり、五逆罪を犯したという人、あ
るいは謗法を冒したという人、犯し冒し、それで今、慚愧している人には非有というべきで
ある。つまり罪はないと言うべきである。
五逆罪を犯し、あるいは謗法を冒したが、慚愧のない人には非無という。「五逆罪は無い、
謗法は無い」とは言わない。五逆罪はある。謗法はある。地獄もあると教えるのだ。
果報を受ける者、五逆罪を犯し、あるいは謗法を冒し、しかも慚愧していない人、これを
「果報を受ける者」という。そういう人には報いがある。地獄に堕ちるぞと教えるのだ。
相手を、空見と有見に分類する。物事にとらわれない人、つまり空見の人には非有と説く。
物事にとらわれない人は五逆を犯さないからだ。謗法もしないからだ。そういう人には無と
説く。つまり報いはない。地獄など存在しないと教えるのだ。