09/05/11 11:36:16 mfew2+Xp
>>506
往生極楽の大事を言い惑わして、常陸・下野の念仏者を惑わし、親に空言を言いつけたること、
心憂きことなり。第十八の本願をば、萎める花に譬えて、人ごとに皆捨て参らせたりと聞こゆる
こと、真に法謗の咎、また五逆の罪を好みて、人を損じ惑わさるること、悲しきことなり。五月廿
九日
親鸞は息子の善鸞を義絶する。義絶通知状の中で法謗の咎という言葉を使っている。法謗と
は何か。親鸞は、「人ごとに皆捨て参らせたり」という。多くの人に念仏を捨てさせたということ、
親鸞はこれが許せなかったようだ。
先の二つの手紙で、謗法の者、謗法の人と親鸞が呼んでいる人に対し、親鸞は直接的には
特別な行為を何もしていない。しかし、三番目の手紙で、善鸞に対しては義絶という特別な行
為を行っている。息子だから特にけじめをつける必要があったとも言えるかも知れないが、どう
もそれだけではないと思う。法が伝わっていくことに対し、作為的特別な妨害があり、親鸞は特
別な行動を起こす必要があったのだろう。
大乗仏教は、先に生まれた者が、自ら認識したことを後に生まれる者に伝えて行く。後に生ま
れる者は先に生まれた者に尋ねていく。認識した真理を、共有的、共感的に享受し、無辺の生
死海を尽くさんとしていく(化身土)。大乗仏教はこれをその本質とする。大乗仏教のこの根本
的な営みについて妨害する者は、仏教の下では看過することができない。親鸞としては、おそ
らくそういう思いがあったと思う。
先の二つの手紙で親鸞が謗法の者、謗法の人と呼んだ対象者は、人々に法を捨てさせるに
は至ってない。親鸞の処分には、おそらくそういう差があると思う。
五逆罪あるいは謗法罪というものの本質的な意味を忘れてはいけない。仏教は裁判所では
ない。仏陀は裁判官でも検察官でも警察官でもない。風紀委員でもない。念仏者は密告者で
もない。仏教説話によれば、死後の世界では閻魔大王が死者の行き先を振り分けているとい
うが、閻魔大王は仏陀であるとか、菩薩であるという話は聞かない。五逆罪あるいは謗法罪と
いうのは、相手を責めたり、攻撃するための道具であってはいけない。五逆罪あるいは謗法罪
というものの本質を、教行信証の中から読んでみたい。