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正法誹謗とは何か。これを考えてみたい。
誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の
中に至る。(信の巻)
正法誹謗の人は、阿鼻大地獄を次から次に梯子していくような悲惨な結果になるという仏教上の大変
な罪である。阿鼻大地獄とは無間地獄とも言う。地獄の中でももっとも恐ろしい地獄である。正法誹謗と
はそこからほとんど永遠に這い上がれないという罪である。それは一体どのような罪であるのか。
もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言わん、かくのごときらの見をもって、もしは心に自ら解り、もし
は他に従いて、その心を受けて決定するを、みな「誹謗正法」と名づく(信の巻)
親鸞は、教行信証に曇鸞大師の言葉を引用する。「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と言うこと、自ら
理解すること、決定すること、これを誹謗正法という。
無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法とはどういうことか。山辺習学の教行信証講義は言う「仏もない、仏法
もない、菩薩もない、菩薩の法もないという、こういう考え」を持つことを誹謗正法という、と解説している。
これではよく分からない。釈迦の誕生は紀元前四世紀頃だったらしい。それ以前の人には仏もない、仏
法もないのだから、すべて阿鼻大地獄を限りなく彷徨っていたということか。
我が国に仏教は飛鳥時代に入ってきた。その前には、日本人は仏法を知ろうとしても知る方法はなかっ
た。日本に仏教が紹介されても、人々はすぐにそれを理解したわけではない。そうした昔の人はすべて阿
鼻大地獄を限りなく彷徨っているということか。
現代でもクリスチャンなど、非仏教の人は数多い。彼らなどは、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法は言って
ないのか。クリスチャンはすべて阿鼻大地獄を限りなく彷徨っているということか。
正法誹謗は信心が無いことで起きるとすれば、信心のない人はすべて阿鼻大地獄の中だけを限りなく彷
徨っていくということなのか。
教行信証の記載だけでは、その意味することがわかりにくいのだ。教行信証でわかりにくければ、我々は
親鸞のその他の書き物の中にその意味を求め、その後でもう一度教行信証に戻ろう。それが親鸞仏教を学
ぶ最もスタンダードな学習法だ。