08/06/09 11:19:31 KjNkeliw
実際には近眼なんだが、自分が近眼であることに気づけない人は少なくない。特に、子供の場
合、仮性近視に気づいていないことがしばしばある。僕などは、完全に大人になってから自分の
近眼に気が付いた。子供の時は、クラスの中で視力はいつも人一倍いい方だった。免許証の更新
の時、警察から眼鏡をかけろと言われ、それから眼鏡屋に行った。回りの景色の違いに驚いたの
は、眼鏡屋で度の合う眼鏡を手にした時だった。ぼくはその瞬間思わず、「おう!」と叫んだ。
この時始めて、警察の人が言ってくれた言葉の意味が分かった。
自分はどうも周囲が見えにくいそういう器量の人間なんだと気づくのは、眼鏡をかけたときだ。
無明長夜の中にあり、燈炬が必要なんだと気づくのは、眼鏡屋に行き、眼鏡を貸して貰ったとき
だ。眼鏡の効果が分かるのに、時間はいらない。
自分は、前方がしっかり見えない人間だったのだ。眼鏡屋で僕はこのように自分の器を一念で
認識した(機の深信)。眼鏡をかければ、前方が見えるようになると、このように正しい方法論
を眼鏡屋で一念で認識した(法の深信)。自分は眼鏡が必要なんだと言うことは、高田馬場の眼
鏡屋で、一念で知ることができた。僕は、一念で不退心を得た。自分には眼鏡必要なんだと揺る
ぎない心(至心)を一念で得た。眼鏡があれば不便をしなくなると言う心(信楽心)を一念で得
た。眼鏡を使う自分に生まれ変わろう(欲生心)と言う心を一念で得た。以後、僕は、眼鏡をか
けようという意思を持続し、眼鏡をかけるという行動をする人、眼鏡をかける人に完全に生まれ
変わった。