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定散自力の称名は果遂の誓いに帰してこそ覚(おし)えざれども自然に真如の門に転入する(和讃)
ひたすら称えよ。必ず救うぞと言う果遂のちかいにゆだね、定散自力の称名をしてきた。いま、特
別なこともなく自然に真如の門への転入が開始してきた。
果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり(化身土)。
果遂せずば正覚を得じ。大無量寿経で阿弥陀仏はそう誓う。ひたすらひたすら真剣に念仏を称える
者は、必ず真実の世界、難思議往生の世界に導く。この言葉には、実に深い意味があった。深い意味
があったと、そのように真実の信を得ることができた。真剣に真剣に座禅して五会念仏を称える深い
意味がわかった。
おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、 ~ 念佛三味の道場もその義おなじかるべし。さ
れば念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかくといふとも、道場をかまへて功を安
置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。(至道抄 存覚)
信心の人に劣らじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩を知り 称名念仏励むべし(和讃)
以上で、念仏を称えることに関するコメントを終わります。神と阿弥陀仏との比較論に戻ります。
(念仏に関するこの議論に対する質問・反論には、神の問題と混同しないため、
URLリンク(www.propatent.jp)の掲示板で回答します。)