08/01/23 17:18:01 C0vMNyu+
昔、ガイアシンフォニーを観に、よその街まで電車で1時間かけて
出かけていったことがある。
駅から公民館ホールまでが不案内で道に迷っていると、
通りの反対側で道端にうずくまっている女性がいた。
どうも妊娠して、つわりがきて、もどしているようだった。
とっさに、すぐ脇にある自販機で水を買って口をすすがせてあげよう
とか、お店の人に言って水をもらおうとか、背中をさすってあげようとか
思ったけど、ついに実行できず。
その後、道なりに歩いていると雨が降り出してきて、手持ちの傘をさした。
またまた、そこに老齢の女性が雨に濡れながら歩いているのを見つけた。
周囲には誰もいない。雨宿りする場所もない。
傘をさしのべようかと考えた。が、これも実行できなかった。
思った。
日常の生活ですれ違う人たちは赤の他人なのかも知れないが、
何の偶然も因果もなく、同じ場所、同じ時間を共有している事実。
場に居合わせる。。。それは何かの意味を持っているのではないかと。
あの時、背中をさすってあげて、水で口をすすがせてあげ、傘をさしかけて
あげる。。。そういう「他生の縁」にいたのではなかったか?
なんてことはない日常の場面にも、そこに自分がいる理由が
必然としてあるような気がした経験だった。
ひるがえって、「ありがとう」という言葉も敷延してみると、
そんな他人との関わりで、よりいっそう言葉が活きるのではないか?
自分でブツブツ言うのは自由だけど、それが1万回で1万点なら、
他人に向けられた「ありがとう」は1回で1000点かも知れないな。