07/09/17 01:46:47 PuvAPS2d
信条・戒律・祭儀は宗教の三要素でカトリックでもそれらの学びは欠か
せない。でも宗教はそれらの寄せ集めではなく、この三要素の組み合わせ
でもない。部分の組み合わせじゃなくて三つは同時に始まるべき有機的
一体なんだよ。
信条を学んでそれを真に受け入れること、それは進んで何らかの実行を
命じる。つまり神の存在を認めることは神への礼拝と密接不可分。神の前
にひざまずくという態度を欠くなら信条において真に神を受け入れたとは
主張出来ないよね。
公教要理は単に教理の解説書、宗教自体ではない。だから知識において
要理の内容に精通しても宗教を知り尽くすことではない。宗教に足を踏み
入れるなら逆に
イ・まず我々がキリスト教に関して曖昧にしか持っていない知識、一切の
先入観を先ず捨てること。
ロ・自然科学や哲学などを知悉しているとする自負を捨て、それを自分が本当
には知っていないんだとわきまえること。
を実行して宗教を真に受け入れるように努め、司祭に認められる時を待つ、
それが良いと思うね。洗礼は宗教としての一歩だから、神と隣人に心を
開く中で動きが出てくるものなんじゃないかな?そうする中できっと受洗の
メドも出てくるってことがあるもんなんじゃないかなあ。