07/08/15 10:38:13 H2y6DIjs
天理教の信者は、或いは、天理教が世界をたすけると思ってきて、今もそう思っているのかもしれない。
しかし、人をたすけるのは「天理」であり、それを支配する「天理王命」である。
けっして、天理教と言う宗教ではない。
天理教と言う宗教は、例えるならば、「理の基礎と基本を学ぶ処」である。
いうならば、小学校程度のものであり、「天理そのものの深さ」は、現実の世にあって、はじめて理解されるものである。
学校の中に「子供銀行」があったからと言って、小学生に「金融事業」が理解できたことにはならない。
理科の授業で学んだから、乾電池一つ、自分で製造できるわけではない。
宗教に期待することそのものが、既に心の迷い道という事になる。
そんな、自分がたすかりたい為に信心しているような、宗教人では、この世をろくぢに変えたいと言う親神の「天意」は、何一つ実行されない。
自分の魂に徳を身に付けたいとか、生まれかわってより良い人生になりたいとか、
そういう自分本位な人が、天理教の信者なのであるから、
なんでそんな、人間たちが、この世を救えると言うのだろうか。
逆に見たら、一番天理に程遠い者が、天理教の信者なのだ。
そこに、理で責められた世界の天理の教えを、もっとも天理の分からないものから教えていくと言う、
道の順序の、隔て無きを知る。
しかし、現実の世を「世界一列兄弟」の仲良く暮らす姿に立て替えるには、
先ず理を知らせておくと言う、天意はそこにあった。
理を知らしておけば、神ははたらける。
その意味において、天理教と言う宗教の存在の意味はあった。
理を知らせると言う事は、神が働くための順序の道なのである。