08/07/14 09:47:23
「所長も泳がないの?」
海の中に腰まで浸かった助手が、振り返って言う。正午前の太陽はすでに真天にある。
ギリシャ神話では、太陽とはアポロンが駆る4頭立ての馬車が天駆けている様だとされているが、
美しい青年の姿をした神の運行の証拠は、不遜にも助手の体で遮断され、
光彩を帯びたシルエットになって四方へ光の粒子を撒き散らしていた。
そして、逆光によるかげりを帯びた横顔の中で私を見る瞳は、何故か瑠璃色に見えた。
瑠璃─ラピスラズリの深い青は、遠海を縁取る水平線の色でもある。
「私はいいわ」
黒いパラソルを回しながら砂浜に立つ私のパレオの裾が、沖からの風をはらんで翻る。
潮の匂いが、乱れた髪に絡みつくのを感じる。
「せっかく海に来たのにつまんないじゃないですか」
助手はかなり不満そうにふっくらした唇を尖らせて、遠洋とは逆方向に体を向け、
浜に向かってゆっくりと歩き出した。はるかな大洋で生まれた波が押し寄せ、彼の背を打ち、白い飛沫を上げて砕け散った。
崩れ落ちる波頭が助手を一時とりこにして海に引き込んで隠したが、
すぐに白い裸体が現れ、私は、ボッティッチェリのビーナスの誕生を連想した。
女性神ビーナスの豊満や艶麗とは縁遠い骨と筋肉で構成された青年らしい体型なのだが、
太古の生命を創造した泡と初夏の太陽が光輪に見えて、真珠貝から助手が現れたように感じたのだと気づいたのは、後のことだった。
初夏とは言え水温はまだ低く、トランクス一枚の助手の肌は泡立ち、唇は蒼白になっていた。
「ほら、これで体拭いて」
私は手にしていた黄色いポケモン柄のタオルを、濡れそぼった茶色の毛が吸い付いて痛々しい助手の頭に置いた。
彼はそれで大まかに雫を取った後、両肩に掛けた。スパルタの戦士のマントのようだ、と思った。
その間にも太陽は抜け目なくパラソルに貼った黒い綿布のわずかな隙間をすり抜け、私の美貌を襲う。
サンプロテクトは完備しているが、やはり日陰に入った方がよい。
「そろそろお昼よ、少し休んで何か食べましょうよ」
助手はにっこり笑ってうなづいた。体温が上昇したのかやや生気取り戻したらしく、
その証拠に上唇には色が差し、新鮮なさくらんぼのような照りを帯びだした。