08/12/22 21:52:13
(>>1から)
同様のパラドクスは、「リベラルな知識人たち」が多くを占めるグループが始めた「アルメニア人の
友人たちへの謝罪」キャンペーンにおいても見られる。「知識人」「インテリ」あるいは「啓蒙者」と
我々が呼ぶ (ドイツの社会学者カール・マンハイムが「部分的に階級に属さない層」と定義した)
この社会的な範疇を、一般的に定義することはできない。ましてや、リベラル思想のなかには、
「知識人」などという範疇は、全く存在しない。
というのも、「知識人」とは、その言葉からわかるように、「啓蒙化された人」、「選ばれた人」、「普
通の人が知らないことを知っている人」、そして社会や政治家に対しアドバイスをする人、解決策
を示す人を意味しているのである。この説明の背後にある一つの前提を見逃すことはできない。
つまり、知識人たちはアドバイスをし解決策を示すものである以上、(その背後には) 学術的ある
いは哲学的研究によって到達し得る建設的な知識の集成があるはずである。この知識の源から
涵養された知識人たちが示す正しい道から、私たちははずれてはならない。そりゃそうだ、人生
における真の導き手は知識であり、その知識を学んだ人々なのだから。そして、人々は「いやあ、
参った!」と思うのだ。
さて、こういう (知識人ぶってキャンペーンをはじめるというような) 行為は、ひどくケマリズムくさい、
とは思わないのか?そして本質的な点でリベラリズムに反しているのではないか?
(記事ココまで)