09/02/05 19:55:33
◆中国「天安門事件」20年で語られる 「本当は何人殺されたか」
天安門事件では、いったい何人犠牲になったのだろうか。
その年に訪中した自民党の伊東正義代議士に李鵬首相が死者は319人と
語っているが、とてもそんな数ではない、というのが衆目の一致するところ。
「“天安門事件で5000人死んだ”と発言したのは学生リーダーのウーアルカイシ
でした。死んだのは学生なのか市民なのかもわからないまま、興奮の中で
死者の数だけ言ったのです」
というのは、『柴玲の見た夢~天安門の炎は消えず』や『「天安門」十年の夢』の
著者で作家の譚?実(たん・ろみ)氏。
「しかし、私が天安門広場の中にいた学生や知識人に個別インタビューした時、
“あなたは目の前で死んだ人を見たか”と質問すると、誰も銃で撃たれたところを
見た人はいないのです。広場にいた人の証言によると、まず、群衆を一掃する為に
照明がすべて消され、真っ暗闇の中を軍隊が横一列になって入ってきた。
その時、それまでの真っ暗闇に照明が一斉に点き、掃討が始まり、催涙弾が
撃ち込まれた。若手知識人で“四天王”と呼ばれていた4人が、“このままの状態では
銃で撃たれる”と、人民解放軍の幹部のところに出向き、交渉した。
その結果、“広場から学生を連れ出すので撃たないでくれ”という交渉が成立。
学生たちを連れて広場を去ったというのが真実だそうです」
では、事件で死者が出なかったか、というと、
「北京市内では多くの市民が犠牲になっています。広場に隣接する長安街で
撃たれたり、戦車に轢き殺された人は800人から1000人いたと思います。
人民解放軍が横一列に並んで進軍すると、市民は学生を守ろうとスクラムを組んで
立ち向かいました。スクラムは一列ではなく何列も連なり、軍隊に対抗したのです。
兵士はその列に向かって銃弾を浴びせる。スクラムの一列が倒れると、二列目、
二列目が倒れると三列目にいる市民が遺体を乗り越えて立ち向かったようです。
戦車に轢かれて亡くなった方の強烈な写真が残っていますが、原形をとどめない
赤い肉片が戦車にこびりついていました」(同)
<<全土で1万人もの死者>>
かくも凄まじい、想像を絶する虐殺だったわけだが、譚氏よりさらに多い、
「1600人前後死んだと考えるのが妥当ではないでしょうか」
とはノンフィクション作家の森田靖郎氏。
「海外の民主化組織によれば、行方不明者の総数は1600人であり、
またアメリカに亡命した中国人経済学者によると1800人から2200人の行方が
わからないという。あらゆる客観的な情報から判断すると、学生、軍人、農民、市民を
合わせて1600人ぐらいではないでしょうか」
その一方、「北京市内、天安門広場周辺を含めれば死者は5000人はいる」と
主張するのは中国民主化運動海外聯席会議アジア代表の相林(そう・りん)氏である。
「軍隊は、天安門広場に大勢のジャーナリストが監視している中では殺せなかった。
しかし、天安門を軍隊が占拠し、マスコミを排除した後、彼らは間違いなく虐殺をやり、
殺している。銃殺、あるいは群衆に向かって、70㌔近いスピードで戦車が突っ込み、
轢き殺しています。遺体を何カ所かに集め、その場で火炎放射器のようなもので焼き、
放水車で跡の残らないように洗い流し、ゴミ収集のトラックに載せ何処かに運び去った
と言われています」
相林氏によれば北京市内の死者5000人に加えて中国全土で5000人の死者がおり
天安門事件全体では約1万人が死んだという。
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スレリンク(news4plus板)
▼ソース:週刊新潮2月12日号の52~54Pを記者がテキスト起こし。
記事は引用・抜粋です。原文は上記週刊誌をご覧下さい。
※>>2-5あたりに続きます。