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■秘密のベールを脱いだ百済最大の寺
-ほとんど記録がなかった弥勒寺、西暦639年の創建が明らかに
-1400年前の姿を完ぺきにとどめる遺物
-石塔の様式・金属工芸の歴史を研究する際の基準に
説話から歴史へ…。
百済最大の寺、全羅北道益山にある弥勒寺の創建過程は、これまでベールに包まれていた。しかし今回、国立
文化財研究所が行った発掘により、その詳細が明らかになりつつある。今回の発掘は、1400年前のタイムカプセル
を完ぺきな状態で取り出したようなものだ。西暦639年に塔を作った際の来歴を記す舎利奉安記が発見されたのを
はじめとして、舎利を納める瓶や頭につけるアクセサリー、装飾用の刀やガラス玉など505点の遺物が同時に発掘
された。国立文化財研究所の金奉建(キム・ボンゴン)所長が「文献の不足を補ってくれる貴重な遺物だ」と語った
のもこのためだ。
弥勒寺の場合、『三国史記』には記録がない。武王が在位35年目に王興寺を竣工、宮殿の南側に池を掘った、など
という役事の記録はあるものの、超大型の寺である弥勒寺に関する記録はない。ただ『三国遺事』に、薯童王子と
善花姫のラブストーリーとともに、弥勒寺創建にまつわる説話が簡単に紹介されているだけだ。このため、百済最大
の石塔についても、建立の年代は西暦7‐8世紀ごろだと漠然と推定するしかなかった。こうしたミステリーを全て解き
明かしてくれたのが、縦10.5センチ、横15.5センチの金板に書かれた149文字の漢字だったわけだ。少なくとも西塔に
ついては、西暦639年に建立されたという事実が判明した。
このため今回の発掘は、建築史・金属工芸史などさまざまな分野にわたり明確な基準を示してくれるものだ、という
評価を受けている。弥勒寺跡の西塔についていえば、木塔から石塔へと変化を遂げた典型的な遺物だ。今回の解
体発掘過程を通じ、当時の塔の建築方式が明確になっただけでなく、今後における三国時代末期や統一新羅時代
の塔の様式を研究する際の基準も整えられると見られる。ぺ・ビョンソン弥勒寺址石塔補修整備事業団長は、弥勒
寺跡の石塔の特徴について、「通常、木塔では心礎石の周辺に舎利器を安置するが、今回は心礎石にたどり着く
前に、一層目の心柱石から舎利器が出土した」と説明した。
さまざまな文様が表面に彫り込まれた金製舎利壺・銀製舎利盒・銀製冠飾などは、西暦7世紀前半、絶頂期にあった
百済の金属工芸技術の水準を測る尺度になると見込まれている。国立文化財研究所は、今回発掘された金属製の
遺物はいずれも中国から輸入されたものではなく、百済国内で製作されたものと推定している。
これら大量の遺物に隠された秘密を解き明かすのはこれからだ。特に、舎利奉安記に出てくる「百済王后佐平沙宅
積徳女」という一節は、「百済王后と佐平(百済の官の一つ)沙宅積徳の娘」と解釈できる可能性もあり、こうした点か
らぺ団長は「正確な解釈に至るにはもう少し時間が必要だ」と語った。金奉建所長も「保存処理を済ませ、文献記録
と比較検討した後、関連学界と深い研究を行わなければならないだろう」と語った。
URLリンク(file.chosunonline.com)
▲全羅北道益山市金馬面の弥勒寺跡石塔から発見された金製舎利壺。
2009年1月14日、第1層の解体調査で、心柱石(中央の十字模様の中にある立方体の石)
上面中央の舎利穴から出土した。
URLリンク(file.chosunonline.com)
▲弥勒寺跡の石塔から出土した銀製の円形舎利盒。
益山=ホ・ユンヒ記者
キム・ハンス記者
写真=キム・ヨングン記者
ソース:朝鮮日報[2009/01/25 10:02:51] 秘密のベールを脱いだ百済最大の寺
URLリンク(www.chosunonline.com)