09/01/16 18:02:52 G/ZYKUpt
>>982
建てたってか再利用みたいよw
生活および労働の状況
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。
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それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。
ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、
欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。
彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、
それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、
また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、
都会では買い物に出かけることが許された。
報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、
慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。
これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。
慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、
食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。
その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。
彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、
また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。
慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。
日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、
隔離されたのち、最終的には病院に送られた。
軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、
兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。
資料99
アメリカ戦時情報局心理作戦班 より抜粋
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